第3話
半透明のシステムウィンドウが、薄暗い森の空気をぶった斬るみたいに目の前へ展開された。
青白く発光するパネルには、『インベントリ』『ステータス』『スキル』『ログ』、それから『マップ』と『ワールド設定』の項目がきっちり並んでいる。遠くでは何かの唸り声が低く響いていて、すぐ近くの茂みも時折微かに揺れていた。こんな場所で呑気にメニューなんか開いているの、たぶん普通に自殺行為なのだろうけれど、何も分からないまま彷徨う方がよほど嫌だわ。犬死にするにしたって、せめて情報くらい見てからにしたいもの。
私は、ついさっきまで空腹で死にかけていた情けない自分を頭の隅へ押しやるみたいに、まず『マップ』のアイコンをタップした。
表示されたマップは、私の現在地を示す赤いピンを中心に、ごく僅かな範囲だけが明るく照らし出されていた。周囲に表示されている地名は、「迷い人の大樹海」。名前からしてろくでもない予感しかしないけれど、どうやらとんでもなく広い森の一角らしい。残りの大半は黒い霧に覆われた未踏破領域で、私が今いるこの場所なんて、全体から見ればほんの点にしか見えなかった。
さらにマップを縮小し、全体図を確認する。
この「迷い人の大樹海」は、大陸の南西端に位置していた。中央部には人間たちの勢力圏である「人族連盟領」。そのほかにも、北方には「魔大陸」、東方には「獣人諸島」なんて領域が色分けされて表示されている。どうやらここ、魔物種族の初期リスポーン地点の一つらしい。
「……あー、はいはい。つまり、私は最初から人間社会の外側に放り込まれてるってわけね」
別にいいけれど。どうせ最初から人間社会で上手くやれるようなコミュ力なんて死んでいるし。リアルでも単発バイトを三回もやれば、自分が人間に向いていないことくらい嫌というほど分かった。愛想よく笑って、空気を読んで、手際よく働いて、怒鳴られても平気な顔をして、みたいな真っ当な生き方、あれはもう才能でしょう。私にはない。びっくりするほどない。
ただ、問題はそこじゃなかった。
飯である。
私はさっさと『ワールド設定』を開いた。
ウィンドウいっぱいに、膨大なテキストデータがずらりと並ぶ。神話大戦だの、神々の加護だの、文明の興亡だの、いかにもそれっぽい設定がこれでもかと詰め込まれていたけれど、今の私にとって重要なのはそんな壮大な背景ではない。
飯に繋がる情報はあるのか。
それだけだわ。ほんとうに、それだけ。
私は目を皿みたいにして、テキストを猛スピードでスクロールさせた。
人間種は神々の加護を受け、都市を築き、高度な魔法文明と生産技術を発展させていること。
そして、人間たちの街には多様な食材が集まる市場、一流の料理人が腕を振るう高級レストラン、庶民の腹を満たす大衆食堂、屋台、酒場、菓子店まで無数に存在していること。
「……っ!」
その一文を見つけた瞬間、脳内にへばりついていたホーンラビットの生臭い血の味が、一瞬で吹き飛んだ。
揚げたてのカツ丼。
湯気の立つ醤油ラーメン。
鉄板の上で肉汁を弾けさせるハンバーグ。
香ばしいタレの匂いをまとった焼き肉。
サクサクの衣、つやつやの白飯、透き通ったスープ、照りのある脂。
ああ、駄目だわ。想像しただけで口の中が一気に唾液まみれになる。胃袋が、今すぐ寄越せと喚き始める。さっきまでウサギ一匹でどうにか落ち着いた気になっていたくせに、調理された飯の存在を知った瞬間これである。我ながら本当に浅ましい胃袋ね。いや、でも仕方ないでしょう。生肉を齧って生き延びるのと、ちゃんとした料理を腹いっぱい食べるのとでは、天国とドブ川くらい違うのだから。
人間たちの街。
そこは、ただ生きるために何かを腹へ突っ込む場所じゃない。
ちゃんと調理された、美味い飯が山ほどある楽園ってことじゃないの。
「……絶対に行く」
思わず、低く呟いていた。
せっかくゲームの世界へ来たのだ。どうせなら、現実じゃ一生縁がないような美味いものを好きなだけ食べ散らかしてやりたい。高級料理でも庶民飯でも何でもいい。とにかく、温かくて、塩気があって、脂があって、満腹になるまともな飯が欲しい。できれば人の金……じゃなかった、狩りで稼いだ金で、堂々と椅子に座って食べたい。
けれど、その決意へ次の記述がすぐさま冷水をぶっかけてきた。
人間種と魔物種は、基本的に敵対関係にある。
魔物が人間の街へ近づけば、問答無用で衛兵や冒険者に討伐対象として扱われる。逆に人間が魔物領域へ踏み込めば、餌として狩られる。
「はいはい、でしょうね」
私は顔をしかめつつ、さらに読み進める。
例外はある。
人間に従属する使い魔として契約を結ぶか。
あるいは「人化の法」と呼ばれる特殊スキルを獲得するか。
もしくは、知性ある魔物として交渉が成立するほどの圧倒的な力と地位を手に入れるか。
そこまで読んで、私はゆっくり瞬きをした。
要するに。
今の私みたいな、ただの低級グールがふらっと人間の街へカツ丼を食べに行ったところで、店の暖簾をくぐる前に衛兵に首を刎ねられて終わり、ということらしい。
「はぁー……あー、なるほどねぇ……」
私は森の湿った空気をだらだら吸い込みながら、ぼんやり光るシステムウィンドウを見つめた。
楽園はある。
でも、今の私には入場資格がない。
腹立つ。
めちゃくちゃ腹立つわ。
せっかくこんなにも美味そうな料理が無数に存在する世界なのに、今の私はその匂いを想像することしかできない。森の中で獣の肉や木の実をむさぼるだけの下級魔物のままでは、文明的な食卓には永遠に手が届かないというわけだ。
何なのよ、それ。
目の前に豪華なメニュー表だけ突きつけて、「でもお前は店に入れませーん」って言われているようなものじゃない。性格が悪すぎるでしょう、この世界。せめて試食くらいさせなさいよ。どうして私はまたしても、こんなにも理不尽な扱いを受けなければならないのかしら。本当に納得いかない。
けれど、逆に言えば道は見えた。
人間の見た目に近い上位種へ進化する。
「人化の法」を獲得する。
あるいは、設定資料にわずかに記されていた、知性ある魔物や魔族が独自の文化圏を築く「魔大陸」の街へ辿り着く。
方法なんて何でもいい。
とにかく最終的に、私は絶対にまともな飯へ辿り着く。
食堂の席にどっかり座って、湯気の立つ丼を前にして、メニューの端から端まで片っ端から注文する。
カツ丼を頼んで、ラーメンも頼んで、ついでに焼き肉も食べて、デザートまできっちり回収する。周囲に引かれようが知ったことではない。どうせここは現実じゃないし、私はもともと人の視線に好かれるような人間でもないのだ。なら、せめて食欲くらいは好きにさせてもらう。
それが今、この世界での私の最重要目標になった。
「だったら、やることは簡単よね」
私は『ワールド設定』を閉じ、薄暗い森の奥へ視線を向けた。どこか遠くで枝の折れる音がする。腹の底では、さっき満ちたはずの胃袋がもう次を寄越せと言わんばかりに、じわじわ自己主張を始めていた。視界の端では、緑色のSPバーも相変わらず容赦なく削れ続けている。
時間は味方じゃない。
食わなきゃ、また飢える。
なら、この「迷い人の大樹海」を狩り場にするしかないわ。
ここで手当たり次第に獲物を喰らって、スキルを伸ばして、ステータスを強化して、グールからより高位の魔物へと「存在進化」を果たすのだ。
強くなるためじゃない。
いや、強くはなるのでしょうけれど、それはあくまで結果でしかない。
私が進化する理由はただ一つ。
いつか、人間の街で美味い飯を腹いっぱい食うためである。
もっと言えば、誰にも文句を言わせず、好きなだけ食って、満腹になって、可能ならそのまま柔らかいベッドで寝たい。そのために強くなるのなら、案外悪くない話じゃない。崇高な目的のために努力するのは性に合わないけれど、飯のためなら多少は頑張れる気がするのよね。
「よし……」
私は減り続けるSPバーを横目で確認しながら、新たな獲物の気配を求めて、再び森の奥へ足を踏み出した。
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