第14話
現実へ帰還後。
汗ばんだ身体を洗うのも面倒だった私は、伝家の宝刀【風呂キャン】を迷いなく発動し、そのまま冷え切った部屋で、ぬくぬくのふかふかお布団へ飛び込んだ。そしてそのまま、泥のように眠りへ沈んでいった。
――そして、朝。
「……ぅ、あ……」
目を覚ました瞬間、全身の細胞がけたたましく警報を鳴らしていた。
まずいわね。
血糖値が下がりすぎて、指先ひとつ満足に動かせない。視界はぐわんぐわん揺れているし、喉の奥はからからで、胃の中では飢えた何かが内側から壁を引っ掻き回しているみたいだった。
糖質。 炭水化物。 何でもいいから、カロリーの高いものを……。
しかも今朝は、やたらと利くようになってしまった鼻が、一階の台所から漂ってくる微かな出汁の匂いを、残酷なくらい鮮明に拾い上げてくる。ああ、もう駄目。匂いだけで死ねそうだわ。いえ、むしろ匂いのせいで余計に死にかけているのだけれど。
私はベッドからずるりと落ちると、そのまま文字通り這いつくばって台所へ向かった。 ゾンビのような足取り、と言いたいところだけれど、そもそも足がまるで動かないのだから、ただ這っているだけだった。
「マ、ママ……朝ご飯……何か、食べ物……死んじゃう……」
台所に立っていた母の足首へすがりつき、私は涙声で命乞いした。
母は、足元で這いずり回る二十六歳の娘を、まるで床下から這い出してきた汚物でも見るような目で見下ろした。そして無言のまま、調理台の上から何かを掴むと、私の目の前へぽいと放り投げてきた。
べちゃっ。
冷たいフローリングへ落ちたそれを見て、私は思わず目を疑った。
スーパーで安売りされている、茹でてもいない【生もやし】。しかも業務用の一キロ入り大袋である。
「ちょっ、ママ……いくらなんでも生って……茹でてすらいないじゃない! 私をモルモットか何かと勘違いしていない?」
「文句があるなら食べなくていいわよ。どうせあんたの胃袋なら、生でも消化できるでしょう」
「いただきます!!」
抗議もそこそこに、私は袋を食いちぎり、生もやし一キロを猛烈な勢いで貪り食った。
しゃきしゃき。もしゃもしゃ。 水分ばかりで味もしない。ただ胃の容積を誤魔化しているだけの、虚無みたいな食べ物だわ。
一キロをぺろりと平らげたところで、私の強欲な胃袋が、こんな水っ気の塊で満足するはずもなかった。
「足りない……ママ、お肉……せめて目玉焼き……」 「昨日あれだけ暴食したんだから、今日はもう抜――ッ!?」
母が冷酷に言い放とうとした、その時だった。
カサカサカサッ!
冷蔵庫の隙間から、黒光りするG――通称【黒い悪魔】が、実に元気よく飛び出してきたのだ。
「ひぃっ!?」
普段は私に対して冷酷無比な鉄の女である母も、あの黒い悪魔だけは生理的に受け付けないらしい。悲鳴を上げて、どんっと壁際まで飛び退いた。
けれど、極限の飢餓状態にある私の目に映ったのは、悪魔なんかではなかった。
「……ッ、タンパク質だわ!!」
私は四つん這いのまま、常人離れした瞬発力で床を蹴り、逃げようとしていた黒い悪魔を素手でふん捕まえた。そして一切の躊躇なく、そのまま口の中へ放り込む。
ぱりっ、さくっ、むしゃむしゃ。
「うんまーい! いつもと変わらない、香ばしい海老みたいなお味!」
殻の食感。 内臓の濃厚で、少しクリーミーなコク。 ああ、もやしの後だから余計に、このわずかな動物性タンパク質が身体へ染み渡るわ……!
「……おえっ。毎度毎度、ゴキブリが出た時だけは、あんたみたいな化け物を家で飼っていてよかったと心底思うわ……ほんと、気持ち悪い……」
口元を押さえて本気で引いている母へ向かって、私はゴキブリのトゲトゲした脚を歯の間に挟んだまま、ばちこんと愛嬌たっぷりにウインクを飛ばした。
「うふふっ、いつでも褒めてくれていいのよ、ママ?」 「誰も褒めてないわよ!! さっさと歯を磨いてきなさい!」
怒鳴り散らす母を尻目に、私は立ち上がって洗面所へ向かいながら、冷静に思考を巡らせていた。
傷の超速治癒。 昨日バイト先で発揮した、ゴリラじみた身体能力。 二階から台所の出汁を嗅ぎ分ける異常な嗅覚。 そして、生きたゴキブリすら難なく噛み砕いて消化する異常な胃袋。
……ああ、でも最後のは昔から生肉だの何だの食べていたし、完全な新規能力と言い切るには少し怪しいかしら。
それでも、もう十分だった。
傷は【捕食】。 身体能力は【ステータス上昇】。 嗅覚は【嗅覚増強】。
個別の変化が、ゲームの中で得たものと一つずつ対応している。 ここまで揃ってしまえば、さすがの私でも認めざるを得ない。
「あー……はいはい、そういうことね」
私は洗面台の鏡越しに、自分の顔を見つめた。
どう考えても、あのVRMMO――【エリュシオンオンライン】のスキルやステータスが、現実の私の肉体へ影響を及ぼしている可能性が極めて高い。
「よし。最後の検証をしておきましょう」
私は顔を洗うのもそこそこに、パーカーを羽織って外へ出た。
向かう先は、ご近所のゴミステーション。私がカロリー補充のためにこっそり利用している、日課の【ゴミ漁り】ポイントである。カラス除けのネットをめくり、まだ回収されていない生ゴミ袋を物色する。
昨日出されたのだろう、魚の骨や野菜くず、賞味期限の切れた惣菜の残骸が混ざった、なかなか強烈な臭いを放つ袋をひとつ拝借し……私はそれを、思い切って口へ運んだ。
その瞬間。
「……美味しいっ!」
瞳孔が、かっと開いた。
いつもなら、鼻をつまんで吐き気を堪えながら、ただカロリー摂取のためだけに無理やり飲み込んでいた腐敗物。それが今は、まるで高級レストランのサラダマリネみたいに、複雑で芳醇なお味となって舌の上へ広がっていく。
しかも、ただ美味しいだけではなかった。
鼻に刺さるはずの腐臭は、もはや不快な臭いとして入ってこない。酸味と発酵香へ分解されて、食欲を刺激する前菜の香りみたいに感じられる。喉の奥へ落ちていく時にも拒絶感はなく、胃へ収まった瞬間、さっきまでひりひり暴れていた空腹が、ようやく「ああ、これこれ」と納得したみたいに静まっていくのがわかった。
吐き気は無い。 罪悪感も、ほとんど無い。 ただ、身体が素直に喜んでいた。
【悪食 LV10】。 完全に、現実でも発動している。
「ふふっ、これで確定ね」
私は生ゴミを嬉々として咀嚼しながら、ひとりでほくそ笑んだ。
ゲームのスキルが、現実になっている。 あの【特別】テスターとかいう、いかにも胡散臭い枠で当選したことが原因なのかしらね。
普通の人なら、ここで「どうしてこんなことが!?」と怯えるのだろう。 普通の人なら、「私は現実でも化け物になってしまう!」と恐れて、ゲームソフトから距離を置いたり、病院へ駆け込んだりするのだろう。
でも――
私は、生ゴミの袋を抱えたまま、むしろ嬉しくて笑い出しそうになっていた。
だって、考えてもみてほしい。 まともな人間ルートでは、私はもうほとんど詰んでいたのだから。
勉強もドロップアウトして、コミュ力もなくて、空気も読めなくて、社会の最底辺を這いずるしかなかった私。そんな人生に、いきなり【スキル】という別ルートが開いたのである。
このままゲームの中でステータスを上げていけば、現実でも人間重機みたいになって、力仕事だけで社会の歯車として真っ当にお金を稼ぎ、美味しいご飯を食べられるかもしれないじゃない。
誰かが言ったような気がする。 ゲームのスキルだの、チートだので、現実の人生をズルするな、と。
私は、その見えない説教へ向かって、鼻で笑って言い捨てた。
「うるさいわね! チート無し、スキル無し、素のままの私なんて、どう考えても社会の粗大ゴミじゃない! そこで無駄に公正さだの真っ当な倫理観だのを発揮したって、ゴミがその辺に転がるだけでしょうが! 貴様はそのゴミの私を養えるの!? 使えるものは何だって使うに決まっているでしょう!」
これが悪魔の仕掛けた罠でも、神様の悪趣味なお遊びでも、政府の極秘実験でも、そんなことは知ったことではない。
さらに重要なのは、身体能力だけではないという点だ。 そう、神スキル【悪食】!
これさえあれば、世界中のあらゆる生ゴミ回収ボックスが、私にとっては【二十四時間営業の無料試食コーナー】へ早変わりする。食費ゼロで、毎日美味しいご飯――まあ、客観的には生ゴミなのだけれど――が食べ放題なのだ。
しかも、それが一時の気まぐれではなく、本当にこの先も続くのだとしたら。
人間としては先細りするしかなかった私の人生が、怪物としてなら、むしろここから始まるのかもしれない。
普通に考えれば恐怖でしかないはずなのに、その発想は私にとって、どうしようもなく甘美だった。
「あぁ……夢が広がるわぁ。うへへへっ」
私はすっかり上機嫌になって、両腕へ美味しそうな生ゴミ袋をしっかり抱え込んだ。
「ごはーん、ごはーん、美味しいごはんー♪ どんなゴミでもー、ごちそうさー♪」
自作のハッピーなお食事ソングを鼻歌で歌いながら、私はスキップ混じりに我が家へ帰還する。
ああ、素晴らしい朝だわ。 私の人生、ついにバラ色の上昇気流へ乗ったのね!
……そう確信して、家の玄関前へ辿り着いた、その時だった。
「…………お姉ちゃん、朝からゴミ抱えて何してるの?」
絶対零度の声が、すとん、と落ちてきた。
「……あ」
そこに立っていたのは、The・大学生女子ファッションとでも言いたげな、完璧なメイクと整えられた髪、洗練された春物のコートを纏った、眩しすぎるほどきらきらした女。
我が妹にして、我が家の優秀な末っ子。 そして、母とはまた別種の、私にとっての本物の天敵。悪魔。
母が生活と食費の管理者なら、こちらはもっと直接的だ。普通に殴るし、普通に見下すし、普通に罵倒で刺してくる。しかも顔も頭も良くて、私と違ってちゃんと社会の側に立っている。家族内序列で言えば、私はこの女に逆らえない。だって、怖いもの。
玉織朔が、獲物を観察する捕食者みたいな冷たい目で、生ゴミを抱えた私をじっと見つめていた。
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