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第9話

ここまで読んでいただけて嬉しいです

朝食を終えたあと、私は愛用の黒いパーカーをすっぽり頭から被り、昼からの単発日雇いバイトへ向かうため、重たくて重たくて仕方のない玄関の扉を開けた。


 社会という名の、巨大で複雑で、そのくせやたら排他的な魔窟へ足を踏み入れるための、私なりの最低限の武装である。顔の造形自体は両親の優秀な遺伝子のおかげで、まあ、そこそこ見られる部類ではあるし、幼い頃から反射的に叩き込まれてきた「挨拶」と「ありがとうございます」だけは、もはや習性みたいに身体へ染みついている。そこへ最低限中の最低限のコミュ力までどうにか捻り出せば、最初の一時間くらいなら、なんとか「真っ当な人間」に擬態することはできるのよね。


 問題は、その擬態の化けの皮が剥がれたあとの残り時間なのだけれど。


 指定された現場は、よくある巨大な物流倉庫だった。


 いつもなら、この時点でもう私の胃は恐怖と緊張だけで縮み上がって、吐き気と戦いながらタイムカードを押す羽目になる。頭を使う仕事も駄目、体を使う仕事も駄目。力仕事をやらせればへたり込み、細かい作業をやらせれば手元が狂ってミスを連発し、片付けを任せれば広大な倉庫内で本気で迷子になる。社会という巨大な機械の、小さな歯車にすらなれない。ただそこへ挟まって、不協和音だけ鳴らす異物。それが私という人間だった。


 子どもの頃は、そこそこ勉強ができたぶん、自分のことを勝手に「頭脳派キャラ」だと思い込んでいた時期もあったのよね。けれど、大人になるにつれてそのメッキは綺麗に剥がれ落ちて、かといって「肉体派」になれるほどの体力も根性も無かった。そりゃあまあ、自分の人生のスペック配分について、思うところが色々出てくるのも無理はないでしょう。


 けれど。


 今日の私は、明らかに違っていた。


「あれ……? 軽い」


 山積みになった飲料水の段ボール箱。いつもなら持ち上げた瞬間に腰が悲鳴を上げて、二箱目あたりで腕がぷるぷる震え出すはずの重量物が、まるで中身のない空箱でも運んでいるみたいに、軽々と持ち上がったのだ。


 頭を使って複雑な指示を理解するのは相変わらず絶望的だったけれど、なぜだか「身体を使う」ことに関してだけは、見違えるみたいにできるようになっていた。


 ……正直、かなり気味が悪いわね。


 段ボールを掴んだ時の重さの見積もりと、実際に腕へかかる負荷が噛み合っていないのだ。身体の方が、私の認識より先に勝手に動いている感じ。軽い、というより、私の知っている自分の身体じゃないみたいだった。元々、持久走だけは「中の上」だった程度の、ささやかと呼ぶのも微妙な体力はあったけれど、今の私はそんな水準じゃない。ざっくり見積もって、成人男性一・五人分くらいの腕力が、この細腕のどこかへねじ込まれているみたいな感覚がある。


「これなら……いけるわ」


 私は小さくそう呟いて、狙いを定めた。


 力さえあれば何とかなる単純作業。

 考えなくていい仕事。

 言われたものを持って、言われた場所へ運ぶだけの反復。


 素晴らしいじゃない。


 私はそこへ照準を合わせ、黙々と、それでいて妙に積極的に荷物を運び続けた。思考を挟む必要はない。ただ目の前の質量を、指定された場所へ移動させるだけ。その単純な反復運動のなかで、私は生まれて初めて、自分が社会という機械の「歯車」になれているらしい、という奇妙なくすぐったさを覚えていた。


 しかも、身体の使い方自体も少し変だった。


 荷物を落としそうになっても、以前より反射が早い。狭い通路ですれ違う時も、身体が勝手に避ける。視界の端へ映る台車や段ボールの位置関係が、妙に分かりやすい。頭は相変わらず鈍いままなのに、身体だけが先に最適解を知っているみたいで、そこが薄ら寒くて、でも便利だった。なんだか、自分の身体の主導権を少しだけ別の何かへ握られているみたいで、気持ち悪いのにありがたいのだから困るのよね。


 昼休憩。


 私はパイプ椅子へ腰を下ろすなり、机へ突っ伏してぴくりとも動かなくなった。


 疲労ではない。ゲームで言うところの『SP(空腹度)』、つまり現実のカロリー消費を極限まで抑えるための、本能的な防衛行動だった。朝にあれだけの量を食べたというのに、力仕事でエネルギーを燃やしたせいか、もう胃袋がじわじわ荒れ始めている。朝の貯金が、思っていた以上の速度で溶けていくのが分かった。嫌になるわね、本当に。


 ふと、周囲からの視線を感じた。


 遠巻きに、同じ現場のバイトや社員たちがひそひそと何か話している。どうやら、青白くて陰気な見た目の女が、成人男性顔負けのゴリラみたいな腕力で段ボールを運びまくっていた、そのギャップへ色々と思うところがあるらしかった。


「お疲れ様。……君、細いのにすごい力あるね。何かスポーツでもやってたの?」


 気さくそうな社員が、コーヒーの缶を片手に話しかけてきた。


 私は机へ突っ伏したまま、顔だけ半分ほど上げて、愛想笑いを作った。


「まあ、色々……うへへ……」


 我ながら最悪な笑い方だった。最高に気持ち悪い。けれど、それ以上に気の利いた返しなんてできるはずもない。


 なんでこんなに身体能力が上がっているのか。そんなの、私が一番聞きたいわよ。ゲームの中で【グール】になってスキル上げて、ステータスが上がったから? まさかね。いくらなんでも、仮想現実のアバターの筋力が現実の肉体へフィードバックされるなんて、そんなオカルトがあるわけがない。……右手の傷が綺麗さっぱり消えていた件については、とりあえず今は脳の隅へ押しやっておくとして。


 後半戦。


 案の定、私の「人間擬態タイマー」は切れ始めて、素の社会不適合者っぷりがじわじわ顔を出した。指示の意図が読み取れず、「ん?」と社員に首を傾げられる場面も何度かあった。けれど、前半のゴリラじみた働きっぷりという圧倒的な「実績」があったおかげか、不思議と怒鳴られることはなかった。多少変でも、重い荷物を運べるなら許される。社会って、その程度のもので良かったのかしら。だったらもっと早く教えてほしかったものだわ。


 そして、終業時刻。


「お疲れ様。君、やるじゃん。体力あるし助かったよ。また来てよ」


 タイムカードを押す私へ、社員がそう声をかけてきた。


 私は思わず、その場で固まりそうになった。


 生まれて初めて言われたのだ。労働現場で、肯定的な言葉を。


 嬉しい。

 でも、信じられない。

 それに、ちょっと怖い。


 今日のこれは、本当に私だったのかしら。たまたま異常に都合よく回った一日だっただけで、明日にはまた元通り、何も分からず倉庫のど真ん中でぼんやり立ち尽くすだけの置物へ逆戻りするのではないか。そんな嫌な予感が、褒め言葉の温度へじわじわ混ざってきた。


 私は曖昧に頭を下げながら、倉庫の外へ出た。


 今日の私は、本当にすごかった。


 導線を塞いで邪魔になったのは、たったの三回だけ。

 指示をアクロバティックに誤解釈して、荷物をまったく違う場所へ持っていったのも、たったの一回。

 何をすればいいのか分からず、不審者みたいにうろうろ徘徊してしまったのも、合計で三分くらい。

 そして何より――自己嫌悪に陥ってトイレの個室へ籠もり、虚空を見つめながら時間を溶かすことも、商品を落として破損させることも、動き回るフォークリフトへ轢かれかけて怒鳴られることも、今日は「無かった」のだ。


「……私、今日、人間やってたわ」


 夕暮れの平塚の街を歩きながら、私はぽつりと呟いた。


 奇跡みたいな大金星。

 真っ当な社会の歯車としての、歴史的勝利。

 手の中には、今日一日分の血と汗と涙の結晶である、七千円の現金が握りしめられている。


 その事実に、胸の奥がじんわり熱くなった。倉庫を出たあとの空気は妙に軽くて、夕方の街は少しだけ優しく見えた。怒鳴られなかった。邪魔者扱いされなかった。ほんの一日だけとはいえ、「いてもいい」と言われた。その程度のことで救われる私は、たぶん本当にちょろいのだと思う。


 ――けれど。


 その勝利の余韻をぶち壊すみたいに、私の腹の虫が、今日一番の轟音を鳴らした。


 限界だ。

 朝の備蓄なんて、とっくに空っぽである。


「祝杯よ……!」


 私は吸い込まれるみたいに、ロードサイドへ巨大な看板を掲げた回転寿司チェーン店へ飛び込んだ。


 レーンを流れる色とりどりの皿。タッチパネルへ並ぶ光り輝く海鮮の数々。

 幸せ。ここには圧倒的な幸せがある。


 私は席へ着くなり、【サーモン】、【マグロ】、【えんがわ】、【ハマチ】、【エビフライロール】と、目につくものを片っ端から注文し、流れてくる皿を次々と強奪しては胃袋へ放り込んでいった。美味しい。労働のあとの飯は美味しい。……いえ、労働していなくてもご飯は美味しいのだけれど、今日は少しだけ、勝利の味が混ざっている気がした。


 食べる。

 食べる。

 食べる。


 積み上がっていく皿のタワー。周囲の客が二度見しようが構わない。隣の子どもがちらちら見ていようが知ったことではない。私は寿司を飲み込み、うどんを啜り、茶碗蒸しを流し込み、ケーキで口直しして、また寿司へ戻るという無限ループを繰り返した。店員が一度、皿の山を見てわずかに固まった気がしたけれど、たぶん気のせいではないでしょうね。


「ふぅ……ごちそうさまでした!」


 大満足で席を立ち、積み上がった皿を店員へカウントしてもらう。

 そしてレジへ向かい、誇らしげに金額表示のパネルを見た私の顔は、一瞬で真顔になった。


『お会計、10,250円になります』


「…………」


 今日、私が死ぬ気で働いて手に入れた現金は七千円。

 ……完全に予算をオーバーしていた。


 お寿司の魔力と、限界突破した胃袋のキャパシティを甘く見すぎていたわね。


「……PayPayで」


 私は震える声でそう告げると、財布の奥底から魔法のカード――後払いの決済手段――を取り出した。


 祝杯をあげた結果、赤字になる。

 私の人生、ほんとうにいつもこうだわ。


 でも、お腹はいっぱいになったし、今日は「人間」をやれたのだから、それで良しとしてもいいでしょう。


 ……いいのかしら。

 いや、まあ、今日はいいことにする。

 そうでもしないと、やっていられないじゃない。


 それより、さっさと帰って【エリュシオンオンライン】へ潜りたい。


 そう考えたところで、ふと昨日ログアウトした瞬間のことを思い出した。


「あー……そういえば、昨日ログアウトの時、なんか【存在進化しますか?】とかいうウィンドウ出てたわね」


 私は歩きながら、小さく笑った。


 次は何になれるのかしら。

 もっと食べやすい身体になるのかしら。

 今よりもっと強くて、今よりもっと美味しいものを食べるのに向いた形へ変われるのだとしたら――それはそれで、かなり楽しみじゃない。


「……楽しみだわ」


 口の中にはまだ寿司の余韻が残っている。

 けれど、その先のことを考えた瞬間、胸の内側で別種の食欲みたいなものが静かに疼いた。


 今日、私は少しだけ「人間」をやれた。

 それはそれで、たしかに嬉しかったのだ。


 でも、明日も同じようにできる保証なんてどこにもない。


 だったらせめて、向こうの世界では進めるところまで進んでやろうじゃないの。

 現実で歯車になれるかどうかは怪しくても、あちらで存在進化するくらいなら、案外するっとできてしまうのかもしれないし。いや、むしろそっちの方が私の本分なのでは、なんてことまで少し思ってしまうのだから、ほんとうに救いようがないわね。


 そんなことを考えながら、私は帰り道を少しだけ早足になっていた。




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人外(グール)に成ることで初めて人間(社会貢献)が出来るのだから皮肉だね〜(哀れみ)
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