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美の消費

作者: めろう
掲載日:2026/03/20

丘の上に響く音は、まるで巨大な獣の足音のようだった。


ドン。


炸裂する色とりどりの光に遅れて腹に響くその不快な振動は、私の身体を通り抜け、足元の湿った草を微かに揺らしていた。私は、山の中腹にある古い木製ベンチに、ただ座り込んでいた。


母親のタンスから引っ張り出した、紺色の朝顔柄の浴衣。帯がきつくて、さっきから息が苦しい。眼下には、祭りの提灯が連なり、人々の小さな、幸せそうな叫び声が、風に乗って微かに聞こえてくる。


完璧なシチュエーションだった。


私は、横に置いた巾着袋からスマートフォンを取り出し、画面を確認する。

「#夏の思い出 #ひとり花火 #情緒 #エモい」


投稿のキャプションはすでに完成している。あとは、この完璧な夜景と、完璧な浴衣姿の私、そして、完璧なタイミングで流れる、完璧な涙の写真を撮るだけだ。


私がここに来たのは、誰かを想うためではない。


私には、感情が欠落している。少なくとも、世間一般で言われる「情緒」とか「感動」とかいうものが、よくわからない。映画を観ても、美しい景色を見ても、私の心は、この谷底のように冷たく、静まり返っている。


でも、私は「情緒がある自分」を演じるのが好きだ。欠落しているからこそ、その感情を俯瞰的に理解している。その完璧な演技が、画面の向こうで「いいね」という数字に変わる瞬間、私の空っぽな心は、ほんの一瞬だけ、満たされたような錯覚を覚える。


夜空に、巨大な花火が上がった。


オレンジとブルー。完璧な円を描き、そして儚く散っていく。

その完璧な美しさを前に、私は、自分の顔をスマートフォンのカメラに向ける。


さあ、泣く時間だ。


私は、目を大きく見開き、意識的にまばたきを止める。感情は動かない。ただ、網膜が乾燥し、眼球が物理的な痛みを訴え始めるのを待つ。


しかし、涙は出ない。


帯の苦しさと汗を含んで生温かくまとわりつく下着、草むらの虫の声、そして、感情が動かないことへの、少しの不快感と、完璧な写真が撮れないことへの焦り。それらが、私の心の中で、不快な、ねっとりとした塊となって、渦を巻いていた。

しかし顔に出してはならない。1ミリの不快感が万の「いいね」をかき消すことを、私は知っている。暇つぶしにしか見ていないはずのSNSなのに、微妙な表情の間違いひとつで数字は大きく動く。

何十万もの人に残骸もなく食い散らかされることこをが私の求める快感なのだ。ミスは許されない。


もう一度、大きな花火が上がる。


私は、無理やり目をこすり、物理的な刺激で、強引に一滴の涙を絞り出した。

頬を伝う、生温かい液体。


私は、完璧なタイミングでシャッターを切る。

画面の中の私は、美しい夜景を背景に、一滴の涙を流す、情緒あふれる完璧な少女だった。


私は、その写真を投稿する。

投稿した瞬間、私は、もうこの景色に興味を失った。帯のきつさと冷えてきた下着、草の匂いが、爆発したように一気に耐え難いものに感じられる。


私はベンチを立ち、不格好に浴衣の裾を乱しながら、丘を下り始める。

スマートフォンは、ポケットの中で、まだ「いいね」の通知を待っている。


夜空には、まだ花火が上がっていたが、私は、もう一度も、振り返ることはなかった。

私の、あの不毛な、物理的な涙の残響だけが、谷間にいつまでも、いつまでも響いていた。

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