『与えすぎる夫と理想を求めすぎる妻の件』
この物語には、大きな悪人は出てきません。
けれど、誰もが少しだけ間違えていて、少しだけ正しかったのかもしれません。
与えることは、優しさなのか。
守ることは、自由を奪うことなのか。
そして、選び直すという行為は、救いなのか、それとも別れなのか。
答えは一つではないと思っています。
読みながら、誰の言葉が一番心に残ったのか。
どこで立ち止まったのか。
そんな小さな違和感を、大事にしていただけたら嬉しいです。
もし以前に、
「与える側」と「選ぶ側」の距離を描いた別の物語を読んでくださった方がいたら、
この作品は、少しだけ違う角度から同じ問いを見ているのかもしれません。
どうぞ、静かな時間の中でお楽しみください。
プロローグ まだ閉じていなかった手
それは、誰の目にも小さな出来事に見えただろう。
王都の社交広間。夜の灯りが揺れ、音楽が流れ、笑顔が交わされる。貴族たちはいつものように言葉を選び、誰もが失礼にならない距離を保っていた。
アルヴェインは壁際に立ち、グラスの中の液体をゆっくりと揺らしていた。
視線は遠くにある。
そこには、白いドレスの女性がいた。
彼の妻、リディア。
彼女は誰かと笑っている。
その笑顔は、彼がよく知っているものとは少し違っていた。軽く、風に触れるような柔らかさがある。
彼はその違いに気づいていた。
気づいていないふりをしていただけだった。
――与えることは、簡単だ。
金も、屋敷も、衣装も、彼には不足がなかった。望まれる前に用意し、困る前に整え、選ばせる前に選択肢を消す。それが彼のやり方だった。
優しさだと思っていた。
守ることだと思っていた。
彼女が困らないように。
彼女が笑っていられるように。
それが、彼の愛し方だった。
だが、その夜。
音楽が止まり、軽い拍手が広がる中で、リディアは彼の方を見なかった。
ただ、それだけのことだった。
誰も気づかないほど小さな出来事。
だが彼の中で、何かが静かにずれた。
嫉妬ではない。
怒りでもない。
ただ、長く閉じていた手の中に、空気が入り込んできたような感覚だった。
隣に立っていた老貴族が言った。
「人はな、与えられ続けると、それが世界の形だと思ってしまう」
アルヴェインは答えなかった。
その言葉が、自分に向けられたものなのか、それとも誰か別の人間の話なのか、分からなかったからだ。
音楽が再び始まる。
人々が中央へ集まり、灯りが揺れる。
リディアは別の男の手を取っていた。
それは不自然な光景ではない。
社交の場では、よくあることだ。
だから彼は微笑み、グラスを傾けた。
その笑顔が、本物だったのかどうかは、自分でも分からなかった。
彼は知らなかったのではない。
知っていて、選ばなかっただけだ。
与えることを、やめなかっただけだ。
その手が、まだ閉じていなかったから。
――そしてその夜は、まだ終わっていなかった。
第一話 優しい檻
アルヴェインは、贈り物を選ぶ時間が嫌いではなかった。
それは義務でも社交でもなく、ただの習慣に近い。領地の収支は安定している。王都での投資も、彼が目を通したものに限っては外れがない。彼の生活の中で「迷う」という行為は年々減っていたが、宝石店の棚の前に立つときだけは、ほんの少しだけ足が止まる。
「旦那様、こちらは今季の新作でして」
宝石商が差し出したのは、夜明け前の空の色を閉じ込めたような青石だった。光を強く返すわけではない。ただ、深く、静かに、見る者の視線を留める。
アルヴェインはしばらく黙って眺めた。
リディアの横顔が脳裏に浮かぶ。笑うときの癖、髪を耳にかける仕草、退屈そうに指先を弄ぶときの癖。彼女は華やかな色よりも、こういう静かな石を好む――少なくとも、彼はそう理解していた。
「これにしよう」
金額は聞かなかった。宝石商もそれを当然のように包み始める。
金は問題ではない。与えることも、迷いではない。迷いがあるとすれば、それは――渡した後の沈黙の方だった。
◇
屋敷へ戻ると、午後の光が庭を満たしていた。
白い小道の先、藤棚の下にリディアの姿がある。椅子の背にもたれ、足元の花をぼんやりと眺めていた。絵画のように整った姿だが、近づくにつれて、彼女の表情の力が抜けていることに気づく。
「戻ったよ」
声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「あら、早かったのね」
微笑む。その笑みは穏やかだが、どこか遠い。
アルヴェインは小箱を差し出した。
「君に」
彼女は受け取り、蓋を開ける。青い石が日差しを受けて静かに揺れた。
一瞬だけ、瞳が細められる。だが次の瞬間には、いつもの社交用の笑顔に戻っていた。
「綺麗ね。……本当に、あなたは何でもくれるのね」
感謝でも非難でもない声音だった。
「気に入らなかったか」
「そうじゃないの。ただ……少し思っただけ」
リディアは石を指先でなぞりながら言った。
「あなたは、私が欲しいものを全部分かってるみたいに振る舞うでしょう?」
アルヴェインは言葉を選ぶ。
「分かっているつもりはない。ただ、困らせたくないだけだ」
「……そう。優しいのね」
その“優しい”という言葉は、褒め言葉のはずなのに、胸に軽い重さを残した。
「私は、君が望まないものは与えていないつもりだった」
彼女は小さく息を吐く。
「それがね、分からないのよ。私が何を選びたいか、聞かれたことがない気がして」
風が止まった。
庭師の鋏の音だけが遠くで響く。
アルヴェインは答えを探した。だが言葉にすると、何かを認めてしまう気がして、口を閉じた。
「……守りたかっただけだ」
ようやく出た声は、思っていたよりも小さかった。
リディアは何も言わず、宝石を箱に戻す。机の端に置いたまま、身につけるでもなく、返すでもない。
それが彼女の返事のように見えた。
◇
夕食には妹たちも同席していた。
長姉ミレナは新しいドレスを翻し、末妹エルシアは甘い酒を楽しげに傾ける。
「お義兄様のおかげで、今季も流行の布が手に入ったのよ」
ミレナが笑う。
アルヴェインはうなずくだけだった。彼女たちは分かりやすい。欲しいものを口にし、与えれば喜ぶ。その単純さが、時に安堵を与える。
ふと、リディアを見る。彼女は皿にほとんど手を付けていなかった。
「体調が悪いのか」
「いいえ。少し考え事をしていただけ」
「社交の件か?」
「……ええ、まあ」
彼女は視線を逸らした。その横顔は、誰か別の記憶を思い出しているように柔らかい。
アルヴェインはそれ以上尋ねなかった。
◇
夜。書斎で帳簿を確認していると、侍従グレンが入ってきた。
「明日の舞踏会ですが、騎士団のセリオ卿も出席されるそうです」
「……そうか」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
理想を語る男。詩のような言葉で人を励ます男。アルヴェインとは正反対の存在。
最近、リディアの口からその名を聞くことが増えていた。
「予定通りでいい」
「かしこまりました」
グレンはそれ以上何も言わず、去っていく。
◇
寝室へ向かう途中、庭を通りかかると、リディアがまだ椅子に座っていた。
「冷える」
「少しだけ、風に当たりたくて」
彼は上着を脱ぎ、そっと肩に掛ける。拒まれることはなかった。
「ねえ、アルヴェイン」
「なんだ」
「もし私が……」
言葉が途切れる。
「……やっぱり、いいわ」
彼は追及しなかった。答えを聞けば、何かが変わってしまう気がした。
だから聞かない。それが彼の選び方だった。
◇
部屋に戻ると、小箱が机に置かれていた。
青い宝石は開けられたまま。触れられた形跡はあるが、身につけられてはいない。
彼は蓋を閉じかけて、手を止める。
――彼女は嫌がっているのだろうか。
いや、違う。嫌いなら受け取らない。
そう自分に言い聞かせる。
だが胸の奥に残るのは、怒りでも悲しみでもない、名付けられない重さだった。
彼は知らなかったのではない。知っていて、触れないことを選んでいた。
優しさが、檻に見える日が来るかもしれないと。
その夜、アルヴェインは初めて、贈り物を机の奥へしまった。
第二話 理想の名前
舞踏会の朝は、屋敷全体が静かに慌ただしかった。
廊下を行き交う侍女の足音は控えめだが、空気には落ち着かない気配がある。季節の変わり目の社交は、いつも以上に目を引く装いが求められる。アルヴェインは書斎の窓から庭を眺めながら、報告書に目を通していた。
数字はいつも通り整っている。領地の収穫量、王都への納入予定、投資先の収益予測。どれも問題ない。問題があるとすれば、それは紙の上では測れないものだった。
「旦那様」
扉を叩く音とともに、侍従グレンが入ってくる。
「奥様のお支度が整いました」
「……そうか」
ペンを置き、椅子から立ち上がる。
歩き出す前に一瞬だけ迷ったが、机の引き出しは開けなかった。昨日贈った青い宝石は、まだその中にある。
◇
鏡の前に立つリディアは、白銀に近い薄青のドレスを纏っていた。胸元は控えめだが、背中の布が軽く揺れ、歩くたびに光が流れる。
「似合っている」
率直にそう言うと、彼女は微笑んだ。
「ありがとう。……今日は少し軽い色にしてみたの」
「いいと思う」
言葉は短い。それ以上何を言えばいいのか、分からなかった。
リディアは鏡越しに彼を見つめる。
「ねえ、アルヴェイン。舞踏会って、あなたは楽しい?」
「必要な場所だ」
「……そうじゃなくて」
彼女は少しだけ笑った。
「あなたは、楽しんでいるように見えないから」
「仕事だと思っている」
「そう」
それ以上、彼女は聞かなかった。
その沈黙が、以前よりも長く感じられた。
◇
舞踏会場は王都でも古い宮殿の一つで、天井の高い大広間に無数の燭台が並んでいた。音楽が始まる前から、貴族たちの視線がアルヴェインに集まる。
彼は軽く会釈を返すだけで、中央には立たない。
リディアはその隣で、周囲に柔らかな笑顔を向けていた。彼女は社交の中心に立つことができる人間だ。彼はそれを誇りに思っていたし、同時に、どこか遠く感じてもいた。
「アルヴェイン卿、お久しぶりです」
若い騎士が挨拶に来る。背筋が伸び、視線は真っ直ぐだ。名前を思い出す前に、リディアが少しだけ前へ出た。
「セリオ卿」
その声は、アルヴェインが聞き慣れているものより、わずかに柔らかかった。
「今夜はお会いできて光栄です」
セリオは笑った。飾らない笑顔だった。貴族特有の距離感がなく、まるで古くからの友人に接するような軽さがある。
「あなたが選んだ色、素敵ですね。夜明けみたいだ」
リディアは少し驚いたように瞬きをした。
「……ありがとう」
アルヴェインは二人の会話を静かに聞いていた。特別な言葉ではない。ただ、彼が普段口にしない種類の言葉だった。
「アルヴェイン卿」
セリオが軽く頭を下げる。
「いつも奥様には励まされています」
「そうか」
それ以上の言葉は出てこなかった。
◇
音楽が始まり、人の流れが中央へ向かう。
リディアは一瞬だけアルヴェインを見る。いつものように手を差し出すべきか迷ったが、その前にセリオが一歩前へ出た。
「一曲、お願いできますか」
彼女は少しだけ戸惑ったように視線を揺らし、それからアルヴェインを見る。
拒む理由はない。
彼は小さくうなずいた。
「行っておいで」
リディアは静かに息を吸い、セリオの手を取った。
音楽に合わせて二人が回り始める。軽やかな足取り。言葉を交わさなくても通じているような距離感。
アルヴェインはグラスを手に取り、壁際へ移動した。
嫉妬ではない。
少なくとも、そう自分に言い聞かせる。
ただ、胸の奥に、名前の分からない重さがあった。
◇
舞踏が終わり、休憩の時間になると、ミレナとエルシアが近づいてきた。
「お義兄様、あの騎士、面白い方ね」
ミレナが笑う。
「軽すぎる」
アルヴェインは短く言った。
「でもリディア姉様、楽しそうだったわ」
エルシアの言葉に、彼は返事をしなかった。
遠くでリディアがセリオと話している。彼女の表情は、屋敷で見るものとは少し違っていた。力が抜けていて、何かから解放されたような笑み。
◇
帰りの馬車の中は静かだった。
街灯が窓を流れていく。
「今日は……楽しかったわ」
リディアがぽつりと言う。
「そうか」
「あなたは?」
「いつも通りだ」
彼女はしばらく黙り、それから小さく言った。
「セリオ卿はね、私を対等に見てくれるの」
アルヴェインは視線を窓の外へ向けた。
「……私は、君を守る側でいたかっただけだ」
「分かってる。でも、時々ね。守られていると、息が詰まりそうになるの」
責めているわけではない声音だった。
だからこそ、何も言えなかった。
◇
屋敷へ戻り、リディアは先に部屋へ入った。
アルヴェインは書斎に立ち寄る。机の引き出しを開け、青い宝石の箱を取り出した。
手の中で重さを確かめる。
与えることは、間違いではないはずだ。
だが、彼女の言葉が耳に残る。
――対等に見てくれるの。
箱を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
彼は怒ってはいなかった。
ただ、初めて、自分がどこに立っているのか分からなくなっていた。
窓の外では、夜の庭が静かに揺れていた。
第三話 笑顔の別れ
社交界というものは、いつも同じ顔ぶれでできているように見えて、実際には毎回少しずつ空気が違う。
アルヴェインはその変化を読むことに慣れていた。誰が誰と距離を置き、誰がどの話題に触れないようにしているのか。言葉よりも、視線の流れや、沈黙の長さの方が正直だった。
今夜の晩餐会も、表面だけ見ればいつも通りだ。長いテーブル、磨かれた銀器、上質なワイン。笑顔と礼儀に包まれた夜。
だが席に着いた瞬間から、彼は何かが違うと感じていた。
リディアはいつもより言葉数が少ない。代わりに、セリオの声が目立つ。軽やかな話しぶりは周囲の緊張をほどき、貴族たちの間に微かな笑いを生んでいた。
「理想というのは、時に現実より重いものです」
セリオがグラスを持ち上げながら言う。
「ですが、人は理想を語らなければ、現実の檻から出られない」
誰かが小さく感心したようにうなずいた。
アルヴェインは黙ってワインを口に運ぶ。
理想。檻。
その言葉が、昨日の庭の会話と重なった。
◇
料理が進み、会話の輪が自然と小さな集まりに分かれていく。
リディアはいつの間にか席を立ち、窓際でセリオと話していた。距離は近すぎない。だが、彼女の表情は屋敷で見るものより軽かった。
アルヴェインはそれを遠くから眺めていた。
胸の奥にある感情に、まだ名前はついていない。
嫉妬なのか、疲れなのか、それとも――。
「アルヴェイン卿」
隣に座っていた老貴族が声を掛けてきた。
「奥方は、あの騎士と親しいようですな」
「……社交の範囲でしょう」
「ふむ」
老貴族はそれ以上何も言わなかったが、その沈黙が妙に長く感じられた。
◇
食事の終盤、司会役の侯爵が軽い余興として意見交換の場を設けた。
「今夜の話題は、“理想の伴侶”について。若い方々の意見も聞いてみたい」
軽い笑いが起こる。
アルヴェインは視線を落とした。こういう話題は嫌いではないが、好んで語るものでもない。
数人が冗談交じりに答えた後、侯爵の視線がリディアに向いた。
「奥方はどうですかな」
リディアは少し驚いたように瞬きをし、それから微笑んだ。
「理想、ですか」
彼女は一度だけアルヴェインを見る。その視線は短かった。
「優しい人がいいですね。でも……」
言葉が続く。
「優しさだけでは、息が詰まってしまうこともあると思います」
場が静まる。
誰も不快そうではない。むしろ、興味深そうに耳を傾けている。
「私は、私自身の人生を歩きたい。守られるだけじゃなくて、同じ高さで話せる人がいいと思うんです」
それは誰かを否定する言葉ではない。
だが、アルヴェインには十分すぎるほど意味が伝わった。
彼はグラスを持つ手を止め、静かに息を吐いた。
◇
宴が終わりに近づく頃、セリオが彼の前に立った。
「アルヴェイン卿、少しお話しできますか」
「構わない」
二人は廊下へ出た。
夜風が窓から入り、燭台の炎が揺れる。
「あなたのことを、私は尊敬しています」
セリオはまっすぐに言った。
「領地を守り、人を支え続けている。その強さは、私にはない」
「……用件は」
「奥様のことです」
アルヴェインは表情を変えなかった。
「彼女は、自由を望んでいます。あなたの優しさを否定しているわけではない。ただ、別の形を探しているんです」
「それを、君が教えるのか」
静かな声だった。
「教えるというより……隣に立ちたいだけです」
言葉に悪意はない。
だからこそ、重かった。
◇
帰りの馬車の中、リディアは窓の外を見ていた。
しばらく沈黙が続いた後、彼女が口を開く。
「さっきの話、怒ってる?」
「怒ってはいない」
それは本心だった。
怒りというより、何かが終わったような静けさがあった。
「私は……あなたを傷つけたいわけじゃないの」
「分かっている」
「でも、私は私の人生を選びたい」
その言葉に、彼はゆっくりとうなずいた。
「……そうか」
短い返事だった。
彼女は何かを待っているように見えたが、アルヴェインはそれ以上何も言わなかった。
◇
屋敷に戻り、彼は書斎へ向かった。
机の上に書類を広げる。
婚姻契約書の写し。
支援契約の一覧。
リディアの家族への援助記録。
どれも彼が望んで続けてきたものだ。
ペンを手に取る。
しばらく動かなかったが、やがて静かに署名欄に目を落とした。
怒りではない。
罰でもない。
ただ、彼自身がどこに立つべきかを決めるためだった。
◇
その夜、リディアは寝室に来なかった。
彼は一人で窓を開け、夜の庭を眺める。
青い宝石の箱を手に取り、ゆっくりと開けた。
光は変わらない。
変わったのは、それを見る彼の気持ちだった。
彼は知らなかったのではない。
知っていて、笑っていた。
守るという形で、距離を作っていたのは、彼自身だったのかもしれない。
箱を閉じる。
机の上に置かれた書類に視線を戻し、ペンを握る。
そして――
静かに、署名をした。
幕間 灯りの届かない場所
屋敷の北側には、普段ほとんど人が来ない小さな温室があった。
冬の間だけ花を守るための場所で、春になれば扉は半分開け放たれる。だが誰かが長く足を止めることは少ない。庭師が朝に一度見回るだけで、あとは風と光が静かに通り抜ける。
その日、エルシアは一人でそこにいた。
ガラス越しに差し込む光は柔らかく、葉の影が床に揺れている。
彼女はしゃがみ込み、小さな鉢を指でなぞった。
名前も知らない花だった。
ただ、まだ咲ききらないつぼみが、少しだけ開こうとしている。
「……こんなところにいたのね」
声に振り向くと、ミレナが立っていた。
華やかなドレスではない。簡素な外出着。最近、彼女も少しだけ装いを変えていた。
「別に、隠れてたわけじゃないわ」
エルシアは立ち上がる。
ミレナは温室の中をゆっくりと見渡した。
「ここ、昔はよく来てたのよね。覚えてる?」
「……ううん」
「あなたはまだ小さかったから」
彼女は棚に置かれた古い鉢を指で叩く。
乾いた音が小さく響いた。
「お義兄様が、この温室を修繕したのよ。最初の年に」
エルシアは少し驚いた顔をする。
「そうなの?」
「ええ。でも誰にも言わなかった」
ミレナは苦笑した。
「私たち、あの人が何をしてるのか、ちゃんと見たことあったかしら」
問いというより、独り言に近かった。
◇
午後の光が少し傾く。
温室の扉が静かに開いた。
アルヴェインだった。
二人を見つけても驚いた様子はない。
「珍しい場所にいるな」
「……少しだけ、静かでいたかったんです」
エルシアが答える。
彼はうなずき、棚の一つに視線を向けた。
「その鉢は、水を控えめにした方がいい。根が弱い」
言葉は短い。
だが花の名前も、世話の仕方も、迷いなく口にした。
ミレナが小さく笑う。
「そんなことまで知ってるのね」
「必要なことだ」
「必要……ね」
彼女は言葉を繰り返した。
◇
三人の間に、しばらく沈黙が流れる。
外の庭では使用人たちの声が遠くに聞こえた。
エルシアはつぼみを見つめたまま、小さく口を開く。
「……ねえ、お義兄様」
「なんだ」
「与えるって、疲れませんか」
問いは素直だった。
アルヴェインは少し考え、肩をすくめる。
「慣れている」
「でも、誰かがそれを当然だと思ったら?」
彼は答えなかった。
ミレナが視線を落とす。
「……私たち、当然だと思ってたわ」
その声は以前より小さかった。
彼は否定もしなかったし、責めもしなかった。
ただ温室の外を見た。
「花はな」
ぽつりと言う。
「咲いている間は、誰も根を見ない」
エルシアは言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「枯れかけて初めて、水や土の話をする」
それ以上、彼は説明しなかった。
◇
ミレナは棚に背を預けた。
「あなた、怒ってるの?」
「怒っていない」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの」
彼は少しだけ眉を動かした。
「どんな顔だ」
「……遠い顔」
その言葉に、エルシアが小さく息を呑む。
アルヴェインは答えず、鉢の位置を少しだけ動かした。
光が当たる角度が変わる。
「風の通り道を作るだけで、花は変わる」
それは独り言のようだった。
◇
温室を出る頃には、日が傾き始めていた。
ミレナが先に歩き出す。
「ねえ、エルシア」
「なに?」
「私たち……少し遅かったのかしら」
エルシアはすぐに答えなかった。
温室の扉が閉まる音が小さく響く。
「……分からない」
彼女は振り返り、ガラス越しにアルヴェインを見る。
彼はまだ中に立ち、つぼみを見つめていた。
何も与えず、ただ光の位置だけを整えている。
それが、以前とは違って見えた。
◇
アルヴェインは一人、温室に残った。
ガラスの向こうに夕焼けが広がる。
静かな場所だった。
与える必要も、決断する必要もない、短い時間。
彼は鉢の土を軽く押さえ、手を離す。
花はまだ咲かない。
だが、急がせることはしない。
風がガラスを鳴らす。
その音は、どこか遠い記憶に似ていた。
彼は目を閉じ、短く息を吐く。
与え続けることが、すべてではない。
だが、与えなかった時間もまた、消えるわけではない。
温室の灯りが静かに点り、つぼみの影が長く伸びた。
それはまだ、誰のものでもない時間だった。
第四話 与える手を閉じた日
朝は、いつも通りに始まった。
廊下を歩く侍女の足音も、庭師が落ち葉を集める音も、昨日までと何も変わらない。だが屋敷の空気は、わずかに重かった。誰も理由を口にしないのに、何かが終わりに向かっている気配があった。
アルヴェインは書斎の机に座り、整然と並べられた書類を見下ろしていた。
婚姻契約書の写し。援助金の記録。リディアの家族への貸与証書。
どれも彼自身が選び、続けてきたものだった。
ペン先が紙に触れる。
音は小さいのに、やけに大きく聞こえた。
怒りはない。
悲しみも、今は遠い。
ただ、決めなければならないという静かな感覚だけがあった。
◇
午前の終わり頃、リディアが書斎を訪れた。
ノックの音はいつもより控えめだった。
「入っていい?」
「ああ」
彼女は部屋の中央まで歩いてきて、机の上の書類に目を落とした。
「……忙しそうね」
「少し整理をしている」
嘘ではない。
彼女は椅子に座らず、立ったまま窓の外を見た。
「昨日のこと、まだ考えてる?」
「考えていないと言えば嘘になる」
リディアはゆっくりと振り向いた。
「私は……あなたを責めたかったわけじゃないの」
「分かっている」
「でも、私、息ができる場所を探してるの」
彼はすぐに答えなかった。
言葉を選んでいるのではない。ただ、返事が必要なのか分からなかった。
「……そうか」
短い言葉だった。
それ以上、会話は続かなかった。
彼女は何かを待っているようだったが、やがて小さく息を吐き、部屋を出ていった。
◇
昼過ぎ、ミレナとエルシアが書斎に呼ばれた。
二人とも軽い調子で入ってくる。
「どうしたの、お義兄様。改まって」
ミレナは笑顔を崩さない。エルシアは少しだけ不安そうに視線を揺らしていた。
アルヴェインは立ち上がらず、椅子に座ったまま言った。
「今日で、支援契約を終了する」
言葉は静かだった。
だが部屋の空気が一瞬で変わる。
「……え?」
ミレナの笑顔が止まる。
「冗談よね?」
「冗談ではない」
エルシアが小さく息を呑んだ。
「どうして……?」
問いは責める声ではなかった。ただ理解が追いついていない響きだった。
アルヴェインは視線を落とす。
「罰するためではない」
「じゃあ、なんで?」
ミレナの声が少し強くなる。
「あなたは今まで、何でも与えてくれたじゃない」
「……それを、やめるだけだ」
冷たい言葉ではない。
ただ、決めた人間の声だった。
◇
リディアが駆け込んできたのは、その直後だった。
「アルヴェイン、それ本当なの?」
彼女は机の前まで歩み寄る。
「支援を止めるって、どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「急すぎるわ」
「急ではない」
彼はゆっくりと顔を上げた。
「考える時間は、十分にあった」
リディアは言葉を失った。
怒っているわけではない。声も荒げていない。それなのに、彼の言葉は以前より遠く感じられた。
「私のせい?」
「誰のせいでもない」
それは本心だった。
「じゃあ、どうして……」
彼は少しだけ視線を逸らす。
「……私が、私であるためだ」
部屋が静まり返った。
誰もすぐには意味を理解できなかった。
◇
夕方、屋敷の外では荷車の音が響き始めた。
支援契約に含まれていた調度品や馬車の一部が、静かに運び出されていく。使用人たちは命令通り淡々と動いていたが、視線には戸惑いが滲んでいた。
ミレナは窓際に立ち、唇を噛む。
「本気なのね……」
エルシアは何も言えず、庭を見下ろしていた。
リディアだけが動かなかった。
彼女は机の上に置かれた青い宝石の箱を見つめていた。
「あなた、怒ってるの?」
彼女は小さく聞く。
「怒っていない」
「じゃあ、どうしてこんなこと……」
アルヴェインは答えなかった。
怒りで動いたのなら、もっと簡単だった。
だがこれは、彼自身の選択だった。
◇
夜。
食堂の席はいつもより静かだった。
誰も会話を始めない。
皿に触れる音だけが響く。
やがてエルシアが小さく口を開いた。
「……お義兄様」
「なんだ」
「私たち、何か間違えた?」
彼は少しだけ考え、首を横に振った。
「間違いではない。ただ、続けられなくなっただけだ」
それは責めない言葉だった。
だからこそ、重かった。
◇
夜更け。
書斎で一人になったアルヴェインは、窓を開けた。
庭の灯りが揺れている。
遠くで荷車の音が止まった。
机の上には、署名済みの書類が並んでいる。
彼はそれを見つめながら、静かに息を吐いた。
与えることは、彼にとって呼吸のようなものだった。
だからこそ、それを止めるという選択は、思っていたよりも重かった。
だが、不思議と後悔はなかった。
胸の奥にあるのは、空白に近い感覚だった。
――これでいい。
そう思った瞬間、廊下の向こうで足音が止まる。
ノックはなかった。
誰も入ってこない。
それでも、彼は誰がそこにいるのか分かっていた。
しばらくして、足音は静かに遠ざかっていった。
アルヴェインは机の上の青い箱を手に取り、ゆっくりと引き出しにしまった。
与える手を閉じた日だった。
■幕間 風のない廊下(リディア視点)
廊下は静かすぎて、足音が少しだけ大きく響いた。
屋敷の灯りは以前より控えめになっている。誰もそう言ったわけではないのに、自然と夜が深く見えるようになった。
リディアは立ち止まり、壁に手を添えた。
冷たい石の感触が、指先に残る。
支援が止まってから、何日経ったのか数えていない。ただ、時間の流れ方だけが変わったように感じていた。
以前なら、夜はもっと明るかった。
廊下の奥まで灯りが届き、使用人の声が絶えず聞こえていた。
今は違う。
誰も慌てていないのに、どこか慎重だ。
それが、自分のせいだという自覚はあった。
◇
彼女は温室の前で足を止めた。
扉は少しだけ開いている。
中には誰もいない。
棚に並ぶ鉢の一つに触れると、土が乾いているのが分かった。
「……水、少なかったのね」
独り言のように呟く。
その瞬間、思い出した。
アルヴェインが以前、同じ鉢を見ながら言った言葉。
――根が弱い。
その時は、ただの庭の話だと思っていた。
だが今は、少し違って聞こえる。
◇
温室の奥に小さな椅子があった。
彼女はそこに座り、天井のガラス越しの空を見上げる。
青くもなく、暗くもない色。
中途半端な時間帯。
自分の気持ちと似ていると思った。
セリオの言葉を思い出す。
理想は、遠くにあるから美しい。
あの時はそう感じた。
今も嫌いではない。
でも――。
彼女はゆっくり息を吐いた。
アルヴェインの顔が浮かぶ。
怒鳴ったことはない。
命令したこともない。
ただ、いつも先回りして、道を整えていた。
それが息苦しかった。
でも、それは本当に“檻”だったのだろうか。
彼女は答えを出せなかった。
◇
遠くで足音がした。
反射的に立ち上がるが、誰も入ってこない。
扉の外を誰かが通り過ぎただけだった。
彼女は少しだけ笑う。
「……変ね」
以前なら、彼がここに来ていたかもしれない。
何も言わずに鉢の位置を直し、灯りを少しだけ動かして、また去っていく。
そういう人だった。
彼女はそれを“当然”だと思っていた。
だから、見ていなかった。
◇
温室を出て廊下を歩く。
途中で書斎の扉の前に立った。
中からは紙をめくる音が聞こえる。
ノックをしようとして、手が止まる。
何を話せばいいのか分からなかった。
謝りたいわけではない。
戻りたいとも思っていない。
ただ――。
彼女は手を下ろした。
そのまま歩き出す。
扉は開かれないまま。
◇
自室に戻り、鏡の前に立つ。
宝石箱の中には、青い石が入ったままだった。
彼女はそれを手に取り、しばらく見つめる。
身につけようとして、やめた。
理由は分からない。
ただ、今は違う気がした。
箱を閉じる。
窓を開けると、夜風が入ってきた。
屋敷の灯りが遠くに揺れている。
彼女は初めて、自分がどこに立っているのか分からなくなった。
選んだはずの道の上で、足元だけが静かに揺れている。
それでも、戻るとは思わなかった。
ただ、少しだけ遅れて気づいたことがあった。
彼は、自分を囲っていたのではない。
ただ、先に歩いていただけだったのかもしれない。
その背中を、彼女は見ていなかった。
夜の風がカーテンを揺らす。
彼女は目を閉じ、静かに息を吐いた。
答えは、まだ出ないままだった。
第五話 理想の重さ
支援が止まって三日目の朝、屋敷の空気は目に見えないほどゆっくりと変わり始めていた。
廊下を歩く足音が少しだけ慎重になり、食堂の椅子を引く音もどこか遠慮がちだ。使用人たちは何も言わない。だが視線の奥には、これまでとは違う緊張があった。
アルヴェインは書斎の窓を開け、庭の風を取り込んだ。
帳簿は整っている。契約もすべて完了した。彼が決めたことは、もう戻らない。
それでも、胸の奥に残るものが消えるわけではなかった。
◇
リディアは朝食に遅れて現れた。
以前なら侍女が用意した新しいドレスに身を包み、軽やかな足取りで席についただろう。だが今日は、飾り気の少ない淡い色の衣装だった。
「おはよう」
彼女は静かに言う。
「おはよう」
アルヴェインも同じ調子で返した。
会話はそれだけだった。
ミレナはワインを口に運びながら、落ち着かない様子で指先を叩く。エルシアは皿を見つめたまま何も言わない。
テーブルの上には料理が並んでいる。質は変わっていないはずなのに、以前より質素に見えた。
「……今日、王都へ行ってくるわ」
リディアがぽつりと言う。
「用事か」
「ええ。少し……話したい人がいて」
名前は出さなかった。
だが誰のことかは分かっていた。
アルヴェインはうなずくだけだった。
◇
午後、王都の街はいつもより騒がしかった。
馬車を降りたリディアは、少しだけ立ち止まる。以前なら護衛や侍女が自然と道を開けたが、今日は視線が長く留まるだけだった。
彼女は気づかないふりをして、広場の奥へ歩いた。
セリオは約束通り噴水の近くに立っていた。
「来てくれたんですね」
笑顔は変わらない。
だがその背後に、以前のような余裕はなかった。
「少し、話したくて」
「もちろん」
二人は並んで歩き出す。
広場の喧騒の中で、言葉は自然に途切れた。
「最近、どうしていました?」
セリオが聞く。
「……色々、変わったわ」
「聞きました。支援が……」
彼は言葉を濁した。
リディアは小さく笑った。
「あなたなら、こういう時どうする?」
「どうする、とは?」
「理想を守るために、現実を失ったら」
セリオは少し考え、空を見上げた。
「理想は、誰かが支えてくれるから続けられるものだと思っていました」
その言葉に、彼女の表情がわずかに揺れた。
「……じゃあ、支えがなくなったら?」
「その時は、自分で立つしかない」
答えは正しい。
だが軽かった。
リディアは初めて、彼の言葉の向こう側にある空白に気づいた。
◇
夕方、屋敷ではミレナとエルシアが静かな口論をしていた。
「どうするのよ、このままじゃ……」
「お姉様を責めても仕方ないでしょ」
「でも全部変わったのよ!」
エルシアは言葉を飲み込む。
怒りではなく、戸惑いだった。
「……私たち、あの人の優しさを当たり前だと思ってた」
その声は小さかったが、はっきりとした重さがあった。
ミレナは答えなかった。
◇
夜。
リディアが屋敷に戻ったのは遅い時間だった。
廊下の灯りは半分落とされている。
彼女は書斎の前で立ち止まった。
ノックをする手が、一度止まる。
それでも扉を叩いた。
「入っていい?」
「ああ」
アルヴェインは机から顔を上げた。
彼女は部屋の中央まで歩き、少しだけ迷ってから口を開く。
「今日、セリオに会ってきたの」
「そうか」
「……あの人、悪い人じゃない」
「分かっている」
「でも」
言葉が続かない。
彼女は初めて、視線を床に落とした。
「……理想って、思ってたより重いのね」
アルヴェインは答えなかった。
彼女は机の端に置かれた書類を見る。
「ねえ、あなた。後悔してる?」
「していない」
迷いのない声だった。
その言葉が、彼女の胸を静かに締め付けた。
「私は……」
続きを言えず、唇を閉じる。
◇
その夜、屋敷の庭はいつもより静かだった。
エルシアは一人でベンチに座り、灯りを見つめている。
「寒いわよ」
ミレナが隣に腰掛けた。
「……ねえ、お姉様」
「なに」
「私たち、あの人の隣に立ったことあった?」
ミレナはすぐには答えなかった。
遠くで書斎の灯りが揺れている。
「……立ってるつもりだったのかもね」
続きはKindle版にて。
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