後日談 泥濘の底から見上げる空は
冷たい雨が降る夜だった。かつて「クラスのヒロイン」として君臨していた水原摩耶は、地方都市の片隅にある古びたコインランドリーのベンチで、死んだような目で洗濯機が回るのを眺めていた。
手元にあるのは、残り少ない小銭と、画面が割れたままのスマートフォン。かつては最新の機種を数ヶ月ごとに買い替えていたが、今の彼女にはそんな余裕はない。
「……なんで、こうなっちゃったんだろう」
乾いた唇から漏れた呟きは、誰に届くこともなく機械音にかき消された。
一年前、あの同窓会で一条蓮と再会した時、彼女は本気で「チャンスだ」と思っていた。成功して垢抜けた彼を見て、少し色目を使えば、かつての「嘘告」なんて笑い話にして、また彼を手のひらで転がせると思っていたのだ。
だが、現実は甘くなかった。一条は彼女が想像していた以上に冷徹で、そして圧倒的に強大だった。
派遣切りに遭い、家賃滞納でアパートを追い出された摩耶は、今では日払いの清掃バイトを掛け持ちしながら、カプセルホテルや安宿を転々とする日々を送っている。
アウスタを開けば、かつての友人たちが贅沢な食事や旅行の写真をアップしているが、彼女の書き込みには誰からも「いいね」がつかない。それどころか、彼女が助けを求めるメッセージを送った瞬間に、全員からブロックされた。
「みんな、ひどいよ……。あんなに仲良くしてたのに」
彼女は気づいていない。かつての自分もまた、一条蓮という一人の人間を「玩具」として扱い、飽きたらゴミのように捨てたのだということに。自分が行ってきた残酷な仕打ちが、そのまま形を変えて自分に返ってきているだけだという因果応報の事実に、彼女はまだ目を背けていた。
そんな時、コインランドリーの自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。
泥のついた作業着を泥だらけの長靴で引きずり、ひどく酒臭い息を吐きながら入ってきたのは、葉山健太だった。
かつてのサッカー部のエース、クラスの王様だった面影は微塵もない。酒とストレスで腹は醜く突き出し、無精髭に覆われた顔は生気を失っている。
「……健太?」
「あ? ……摩耶かよ。何してんだ、こんなところで」
健太は忌々しそうに吐き捨てると、自販機で買った安い缶チューハイを煽った。
彼はあの後、務めていた建設会社をクビになり、再就職先も見つからず、今は不定期な土木作業の現場で日銭を稼いでいる。
かつてのプライドだけは高く、現場で若い職人と喧嘩をしては干され、さらに酒に溺れるという負のループに陥っていた。
「ねえ、健太。どうにかできないかな……一条くんに、もう一度謝りに行ったら、少しは助けてくれるんじゃ……」
「馬鹿か、お前は! あの野郎の目を見たろ? ありゃ、人間を見る目じゃねえ。ゴミを見る目だ。……俺たちが何を言おうが、あいつはもう俺たちのことなんて見てねえよ」
健太は空になった缶を握りつぶし、床に投げ捨てた。
「俺はよ……あいつを馬鹿にしてた時が、一番楽しかった。陰キャのくせに摩耶に告られて、舞い上がってる姿を見て笑うのが、俺たちの正義だと思ってたんだ」
「……私もそう。あんな地味な男が、私みたいな特別な女の子と付き合えるわけないのにね。……でも、違ったんだ。特別じゃなかったのは、私たちの方だった」
摩耶は膝を抱え、震える声で言った。
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
彼らが共有しているのは、もはや友情でも愛情でもない。かつて一人の少年を徹底的に痛めつけたという消えない罪悪感と、それによって自分たちの人生が詰んだという絶望の共有だけだ。
一方、同じ街の居酒屋では、元クラスメイトの佐藤が、数人の友人と飲んでいた。
彼はあの日、同窓会で一条に媚びを売ろうとして冷たくあしらわれた男だ。
「なあ、聞いたか? 摩耶のやつ、風俗に落ちたって噂だぜ」
「マジかよ。健太も健太で、借金取りに追われて夜逃げしたらしいしな」
友人たちが面白おかしく元「主犯格」たちの転落を語る中、佐藤はどこか落ち着かない様子でグラスを傾けていた。
彼は知っている。一条蓮が動かしている「復讐」の歯車は、摩耶や健太だけで止まっていないことを。
佐藤が務めている中堅の商社も、先日、ネクスト・コアの傘下企業から取引の全面停止を言い渡された。
理由は「コンプライアンス上の懸念」だというが、佐藤には心当たりがあった。あの同窓会の日、一条に向けた自分の卑屈な笑顔。そして高校時代、一条の机に落書きをした自分たちの姿。
「一条は……あいつは、全部覚えてるんだよ。俺たちが何を言ったか、誰が笑ったか、誰が見て見ぬふりをしたか」
佐藤がボソリと呟くと、それまで盛り上がっていた友人たちの顔が引き攣った。
「よ、よせよ。俺たちは直接ひどいことはしてないだろ? 悪いのは摩耶と健太で……」
「同じだよ。あの日、倉庫の裏で笑ってたのは俺たちも一緒だ。……一条の目、見たろ? あの目は、俺たち全員を『敵』だと認識してた」
その言葉に、誰も反論できなかった。
彼らは自分たちが「観客」のつもりでいた。だが、一条にとっては、嘲笑う観客も、手を下す主犯も、等しく自分の尊厳を奪った加害者に過ぎなかったのだ。
これから自分たちのキャリアがどうなるのか、いつ一条の「裁き」が自分たちの会社や家庭に及ぶのか。その見えない恐怖が、毒のように彼らの日常を侵食し始めていた。
夜が深まり、コインランドリーの洗濯機が止まった。
摩耶は湿った洗濯物を取り出し、重い足取りで乾燥機へと移した。
「ねえ、健太。私たち、これからどうなるのかな」
「知るかよ。……地獄が続くだけだろ」
健太はふらふらとした足取りで、外の雨の中へと消えていった。
摩耶は一人、乾燥機が回る熱気に顔を寄せ、そっと涙を流した。
もし、あの時、嘘告なんて不謹慎な遊びをしていなかったら。
もし、一条の純粋な想いに、少しでも誠実に答えていたら。
今頃、自分はあの豪華なオフィスで、彼の隣に笑って立っていたのかもしれない。
そんな叶わない、あまりにも虫のいい妄想だけが、今の彼女を支える唯一の、そして最も残酷な娯楽だった。
「……もう遅いんだ。全部、私が壊したんだから」
乾燥機の窓に映る自分の顔は、かつてのヒロインの面影を完全に失い、ただ過去の後悔に押し潰された、醜い一人の女の顔だった。
同じ頃、一条蓮は自室の書斎で、一通の報告書を読んでいた。
そこには、摩耶や健太、そして佐藤たち元クラスメイトたちの「現在」が詳細に記されていた。
誰が破産し、誰が職を失い、誰が怯えて暮らしているか。
彼はそれらを淡々と確認し、最後の一枚を読み終えると、迷わずシュレッダーにかけた。
「……もう、十分だ」
彼の心の中に、もはや彼らに対する憎しみすら残っていなかった。
憎しみという感情は、相手を自分と同じ土俵に上げている証拠だ。
だが今の彼にとって、彼らはもはや視界に入れる必要のない、遠い過去の残骸に過ぎない。
彼らが泥濘の底でのたうち回ろうと、絶望に涙しようと、一条の歩みを止めることはできない。
一条は窓を開け、夜明け前の冷たい空気を感じた。
雨は上がり、雲の間から一筋の光が差し込み始めている。
彼はスマートフォンを取り出し、現在進行中の大規模な慈善プロジェクトの資料を確認した。
「次は、この地域の教育支援を強化しよう。……二度と、あんな歪んだ遊びで人生を壊される人間が出ないように」
彼の言葉には、かつての復讐者としての冷たさはなく、未来を創る者としての静かな決意が宿っていた。
過去を清算した彼は、もう後ろを振り向かない。
彼が歩む道は、あの日倉庫の裏で見た暗闇とは正反対の、光に満ちた場所へと続いている。
一方で、泥濘の底に取り残された者たちは、これからも一生、その光を見上げるだけの人生を歩むことになる。
自分が奪った他人の光の重さを、その身を持って生涯背負い続けること。
それこそが、一条蓮が彼らに与えた、最も重く、最も適切な「罰」であった。
コインランドリーの乾燥機が終了のブザーを鳴らす。
摩耶は温かくなった洗濯物を抱きしめた。だが、その温もりは、彼女の心の底にある氷のような冷たさを溶かすことは決してなかった。
彼女の朝は、これからも、後悔と絶望という名の灰色に染まり続ける。
因果応報。
その言葉が、彼女の耳の奥で、一条の冷たい笑い声と共にいつまでも響き渡っていた。




