第4話 忘却の傲慢、記憶の断罪
都心の喧騒を眼下に見下ろす、株式会社ネクスト・コアの代表取締役室。全面ガラス張りの窓からは、夕闇に溶け込んでいく東京の街並みが一望できる。かつて、あの薄暗い倉庫の裏で泥を啜るような思いをしていた少年が見れば、めまいを起こすような光景だろう。
俺はデスクに置かれた私用のスマートフォンに目を落とした。画面には、昨夜の同窓会以降、鳴り止まない通知の山が表示されている。
そのほとんどが、手のひらを返したような同級生たちからの、卑屈な媚びへつらいだった。
『一条、昨日はゆっくり話せなくて悪かったな。今度ゴルフでもどうだ?』
『蓮くん、昔から凄いと思ってたんだ! 今度、私のやってるアウスタのチャンネルに出演してくれないかな?』
そんな薄っぺらな文面を、俺は一瞥してゴミ箱へと放り込む。彼らにとって、俺という存在はもはや「かつてのクラスメイト」ではなく、利用価値のある「金脈」でしかない。
その中に一つ、執拗にメッセージを送り続けてくるアカウントがあった。
水原摩耶。
かつて俺に偽りの愛を囁き、地獄へ突き落とした張本人だ。
彼女からのMINEは、昨夜の動揺が嘘のように、どこか「元恋人」としての距離感を取り戻そうとする厚かましさに満ちていた。
『蓮くん、昨日は本当にびっくりしちゃった。でも、あんなに怒るなんて、まだ私のこと意識してくれてる証拠だよね?(笑)』
『あの時のこと、ちゃんと説明したいの。二人きりで会えないかな? 蓮くんの好きな、あの駅前のカフェで待ってるね』
俺は冷めた笑いを浮かべた。彼女はまだ、自分の美貌と「元カノ」という特権が通用すると信じているらしい。
あの倉庫の裏での出来事を「ちょっとした痴話喧嘩」程度に書き換え、あわよくば成功者となった俺の隣に返り咲こうとしている。その底知れない傲慢さに、怒りを通り越して感心すら覚える。
「……いいだろう。引導を渡してやる」
俺は秘書に連絡を入れ、指定されたカフェに向かった。
そこは、かつて高校時代に一度だけ、彼女にせがまれて入ったことのある店だった。当時の俺にとっては背伸びをした高いコーヒー代に冷や汗をかいた場所だが、今の俺にとっては、店ごと買い取っても痛くも痒くもない場所だ。
店内の奥まった席に、摩耶は座っていた。
彼女は俺の姿を認めると、パッと顔を輝かせ、アウスタ映えを意識したような完璧な角度で微笑んでみせた。服装は昨日よりも露出が多く、あからさまに俺の視線を誘おうとしている。
「来てくれるって信じてた! 蓮くん、やっぱり優しいね」
「用件を端的に話してくれ。時間は限られている」
俺は彼女の向かいに座り、メニューも見ずに告げた。その冷淡な態度に、摩耶は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに潤んだ瞳を作って俺の手元を覗き込んできた。
「そんなに急がないでよ。ねえ、覚えてる? ここで初めてデートした時。蓮くん、緊張してコーヒーこぼしちゃって……私、それがすごく可愛くて好きだったんだよ?」
「……好きだった、か。昨日の話と随分と食い違うようだが」
「昨日は健太がいたから! あの人は独占欲が強くて、私が蓮くんのことを褒めるとすぐに怒るの。だから、わざとあんな酷いことを言って……本当は、私だって被害者なのよ」
摩耶はそう言って、細い肩を震わせて見せた。
嘘だ。
俺は、あの日の彼女の目を鮮明に覚えている。
あの日、俺をゴミのように見下し、健太の腕の中で心底楽しそうに笑っていた、あの冷酷な捕食者の目を。
彼女は自分の罪を他人に転嫁し、悲劇のヒロインを演じることで、すべてを無効化しようとしている。
「健太くんに脅されていた、とでも言いたいのか?」
「そうなの! 逆らったら何をされるか分からないし、蓮くんを守るためにも、あんなふうに振る舞うしかなかったんだよ。信じてくれるよね?」
摩耶がテーブル越しに俺の手を握ろうと身を乗り出す。その瞬間、彼女から漂う香水の強い匂いが鼻についた。安っぽい、誘惑のための香り。
俺は彼女の手を冷たく払い除け、鞄から一冊のタブレットを取り出した。
「君の言う『真実』を証明するために、いくつか確認したいことがある」
「え……? 何、それ」
俺は画面を操作し、あるデータを開いた。
それは、高校時代の彼女たちのグループチャットのログだ。
当時、健太の取り巻きの一人で、後に就職活動に失敗して俺の会社に泣きついてきた男から買い取ったものだ。
「これは、嘘告があった当日の、君たちのやり取りだ」
画面に並ぶ文字。
『摩耶:まじで一条キモいんだけどw いつまで付き合わなきゃいけないの?』
『健太:あと三日で一カ月だろ。記念日にバラしちゃおうぜ。絶望する顔が楽しみだな』
『摩耶:おk。あのブレスレットとかいうゴミ、メルカリで売れるかな? w』
摩耶の顔が、一気に土気色に変わった。
彼女が必死に作り上げていた「被害者」という化けの皮が、一枚のデジタルデータによって無惨に剥がれ落ちていく。
「……これ、は……誰かが偽造したんだわ! 私、こんなこと書くはずない!」
「まだしらを切るか。じゃあ、これはどうだ? 君がアウスタの鍵垢で投稿していた、当時の裏日記だ」
そこには、俺とのデートを『陰キャ観察日記』と称し、俺がいかに滑稽であるかを嘲笑う言葉が並んでいた。
一つ一つの投稿に、健太や他のメンバーが『神回w』『摩耶様マジ女王』とコメントを付けている。
「君は、俺が告白と交際にのぼせ上がっている様子を、最高のエンターテインメントとして楽しんでいた。俺がバイトをして買ったプレゼントを『ゴミ』と呼び、俺が勇気を出して伝えた愛の言葉を『吐き気がする台詞』として共有していた」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
あまりにも醜悪な真実を突きつけられたことで、怒りすらも蒸発し、ただただ目の前の女に対する深い蔑蔑だけが残った。
「君が忘れているだけで、記録は残っているんだよ、水原さん。デジタルの世界にも、そして俺の心の中にも」
「や、やめて……もう、見せないで……」
摩耶は耳を塞ぎ、ガタガタと震え始めた。
彼女が守りたかった「若くて可愛い、少し間違いを犯しただけの私」という幻想が、事実という名の暴力によって粉砕されていく。
「君は、自分が他人を傷つけたことすら忘れていた。なぜなら、君にとって俺は感情を持った一人の人間ではなく、ただの使い捨ての『玩具』だったからだ。……だが、玩具はいつまでも壊れたままじゃない」
俺はタブレットを閉じ、彼女を射すくめるように見つめた。
「さて、次は現実の話をしよう。君が務めている株式会社サンライズ・ロジスティクスだが。君、無断欠勤や業務中のアウスタ投稿が原因で、以前から問題視されていたそうだね」
「え……? なんで、そんなことまで……」
「先ほども言った通り、あの会社は俺のグループ傘下に入った。君の勤務態度は、人事評価において最低ランクに分類されている。本来なら、更新なしで即刻契約終了……つまりクビになるところだ」
摩耶の瞳に、真実の絶望が浮かび始めた。
彼女にとっての唯一の収入源であり、都会でギリギリの生活を維持するための命綱。それが、自分がかつて弄んだ男の指先一つで断ち切られようとしている。
「ま、待って! 蓮くん、お願い! 仕事を失ったら、私、生きていけない……! 借金だってあるし、家賃も滞納してるの!」
「借金? ああ、あのブランド品の買い漁りや、ホストクラブ通いのことかな? それも調べはついている」
彼女は、若さと美貌が永遠に続くと信じ込み、分不相応な贅沢を繰り返していた。そのツケが、今、最悪のタイミングで回ってきたのだ。
「お願い、助けて! 何でもするから! 蓮くんの言うことなら何でも聞くから! 私を秘書にしてよ、愛人でもいいから……!」
摩耶はなりふり構わず俺の足元に縋り付こうとしてきた。
かつてクラスの女王として君臨していた面影はどこにもない。そこにあるのは、ただ保身のためにプライドを投げ捨て、醜く這いずる一人の敗北者の姿だ。
俺は彼女の手を避け、立ち上がった。
「勘違いするな。君に俺の隣に立つ資格なんて、一ミリもない。……それと、健太くんについても一応教えておこうか」
「健太……? あの人、どうなったの?」
「彼が務めていた建設会社だが、俺が融資を引き揚げたことで、資金繰りが完全に行き詰まった。昨夜、彼は給料の未払いを巡って経営者と殴り合いの喧嘩をして、警察に連行されたそうだ。……おそらく、再就職は絶望的だろうね」
摩耶の顔から、最後の希望が消えた。
彼女が腐れ縁として、いざという時に頼りにしていた男までもが、俺の手によって地獄へと叩き落とされたのだ。
「君たちは、お互いに依存し、傷つけ合いながら、どん底まで落ちていくのがお似合いだ。……あの日、俺が味わった孤独と絶望を、これからは二人で仲良く分け合うといい」
俺はテーブルに千円札を一数枚、無造作に置いた。
当時の俺にとっては大金だったコーヒー代。それを、今の俺はゴミを捨てるような無造作さで支払う。
「さようなら、水原摩耶。君との一カ月は、俺の人生で最も価値のないゴミだった。……それを証明できて、今日はとても満足しているよ」
俺は一度も振り返ることなく、カフェを出た。
背後から、摩耶の泣き叫ぶ声や、店員が騒ぎ出す気配が聞こえてきたが、俺の心には一点の曇りもなかった。
外に出ると、夜風が心地よく感じられた。
空には、あの日のような重苦しい雲はなく、都会の光に紛れて星が微かに瞬いている。
俺はポケットからスマホを取り出し、秘書に連絡を入れた。
「……ああ、一条だ。水原摩耶の件、予定通り進めてくれ。慈悲は一切不要だ。……それと、健太の件も、弁護士を通じて徹底的に追い詰めろ。彼らが二度と、誰かの人生を弄ぼうなんて思わないようにね」
指示を出し終え、俺は黒塗りのセダンに乗り込んだ。
車内は静寂に包まれている。
俺は静かに目を閉じ、あの日、倉庫の裏で流した涙を思い返した。
あの時の俺は、世界が終わったと思っていた。
だが、世界は終わらなかった。俺が自分自身で、新しい世界を築き上げたのだ。
復讐は、単なる破壊ではない。
奪われた尊厳を取り戻し、自分を価値のない存在だと決めつけた奴らに、その間違いを「現実」という名の鉄槌で教え込むプロセスだ。
「さあ、次は仕上げだ……」
車が夜の街を滑り出す。
目的地は、俺がこれからさらなる高みへと昇っていくための、新しい戦場だ。
かつての加害者たちは、もう俺の視界には入っていない。彼らはただ、俺が歩んできた道に転がっている、使い古された瓦礫の一つに過ぎない。




