第2話 沈黙の牙、研ぎ澄まされる年月
倉庫の裏で、俺の尊厳が塵のように踏みにじられたあの日から、俺の時計は一度止まり、そして全く別の音を刻み始めた。
翌日、学校へ行くと予想通りの光景が待っていた。教室の扉を開けた瞬間、一斉に突き刺さる好奇と嘲笑の視線。スマートフォンの画面をこちらに向け、クスクスと忍び笑いを漏らすクラスメイトたち。
昨夜、摩耶が予告した通り、俺の無様な姿を映した動画はTwotterを通じて学年中に拡散されていた。
「あ、ほら、来たよ。『世界一の幸せ者』くんがさ」
「昨日の動画、マジで笑ったわ。手作り弁当で泣くとか、どんだけピュアなんだよ」
健太の取り巻きたちが、わざと聞こえるような声で囃し立てる。
俺は何も答えず、自分の席に座った。教科書を取り出し、机の上に広げる。指先は微かに震えていたが、それは恐怖ではなく、腹の底で煮え繰り返るどす黒い感情を抑え込むためのものだった。
摩耶はといえば、窓際の席で友人たちと楽しそうに談笑している。俺が教室に入ってきたことなど、視界にも入っていない様子だった。彼女にとって俺との一カ月は、もう賞味期限の切れた、捨てて当然の生ゴミに過ぎないのだ。
「一条、昨日は悪かったな。でもさ、お前もいい勉強になっただろ? 身の程を知るっていうか」
健太が俺の机に腰掛け、上から見下ろすように話しかけてきた。その目は、獲物をいたぶるのを楽しんでいる捕食者のそれだった。
俺はゆっくりと顔を上げ、健太の目を見つめた。
「……ああ、本当にいい勉強になったよ。感謝してる」
「は? なんだその不気味な言い方は。……チッ、つまんねえ奴」
健太は俺の反応が期待していたものと違ったのか、舌打ちをして去っていった。
それからの俺は、クラスの誰とも言葉を交わさなくなった。休み時間は常に耳栓をして参考書に向かい、昼食も一人で屋上の隅や図書室で済ませた。
周囲からは「嘘告のショックで壊れた」とか「不気味なガリ勉になった」と陰口を叩かれたが、そんなことはどうでもよかった。
今の俺にとって、この教室内での評価など、道端に落ちている石ころ以下の価値しかない。
俺が手に入れなければならないのは、こいつらが一生かかっても届かない場所へ行くためのチケットだ。
家へ帰れば、食事と入浴以外のすべての時間を勉強に捧げた。
YourTubeを開いても、かつて見ていたゲーム実況やバラエティ動画には目もくれない。代わりに視聴するのは、難関大学の入試対策、プログラミングの基礎、そして世界の経済ニュースだ。
情報の海に潜り、将来自分が戦うべきフィールドを見定める。
かつて摩耶と過ごした甘い時間は、今では猛毒となって俺の精神を研ぎ澄ませていた。
ふとした瞬間に、彼女の蔑むような瞳や健太の笑い声がフラッシュバックする。そのたびに、俺のペンを握る力は強まり、ノートに刻まれる文字は鋭さを増した。
季節は巡り、俺は地元の公立高校を卒業した。
卒業式の日、摩耶や健太たちは「思い出」という名の薄っぺらな感傷に浸りながら、派手な打ち上げに向かっていた。
俺はと言えば、卒業証書を受け取ると同時に校門を後にした。振り返る必要なんてない。この場所に、俺が残しておくべきものなんて一つもなかったから。
俺が合格したのは、国内でも指折りの難関と言われる国立大学の経済学部だった。
大学進学を機に、俺は東京へと住まいを移した。
大学生活は、高校時代の比ではないほど過酷なものに自分から仕立て上げた。
講義に出席するのは当然として、それ以外の時間は投資サークルでの活動や、ITベンチャー企業でのインターンシップに費やした。
同期たちが合コンやサークル活動に明け暮れる中、俺は冷徹に「力」を蓄えていった。
株式市場の動きを追い、複雑なアルゴリズムを理解し、ビジネスの最前線で大人たちがどのように金を動かし、人を動かしているのかを学んだ。
二十歳になる頃には、個人投資家としてそれなりの資産を築き始めていた。だが、それで満足することはない。俺が求めているのは、個人の贅沢ではなく、誰もが平伏さざるを得ない圧倒的な「社会的地位」だ。
一方で、かつての「勝ち組」たちの動向は、時折流れてくる風の噂やアウスタの投稿で嫌でも耳に入ってきた。
摩耶は、名前も聞いたことがないようなFランク大学に進学したらしい。
投稿される写真は相変わらず、加工された自撮りや、中身のないパーティーの様子ばかり。
「毎日ハッピー!」「最高の仲間に感謝!」
そんなタグと共にアップされる写真の中の彼女は、高校時代と変わらず、狭い世界での女王気取りだった。
健太も同じようなレベルの大学で、サッカーを続けるわけでもなく、地元の悪仲間とつるんで酒やギャンブルに興じているようだった。
彼らは気づいていない。自分たちが享受している「若さ」という唯一の武器が、砂時計のように刻一刻と零れ落ちていることに。
そして、その砂が尽きた先に待っているのが、どれほど残酷な現実であるかということにも。
大学を卒業した俺は、外資系コンサルティングファームである「グランド・フロンティア」に入社した。
そこは、秒単位で成果を求められる弱肉強食の世界だ。
並の人間なら三日と持たずに音を上げるような激務の中で、俺は水を得た魚のように働いた。
上司からの叱責も、クライアントからの無理難題も、かつての倉庫裏での屈辱に比べれば、そよ風のようなものだ。
俺の評価はうなぎ登りに上がり、数年後にはシニアマネージャーとして、数千億円規模のプロジェクトを動かす立場になった。
高級スーツに身を包み、都心のタワーマンションに居を構える。
鏡に映る自分は、あの日の情けなく泣きじゃくっていた少年とは、似ても似似つかない姿になっていた。
だが、それでもまだ足りない。
組織の歯車である以上、真の自由はない。
俺は三十歳を前にして「グランド・フロンティア」を退職し、自らの会社「株式会社ネクスト・コア」を設立した。
独自のAIアルゴリズムを用いた資産運用と、新興企業へのベンチャーキャピタル事業。
俺が培ってきた知識と人脈、そして復讐という名の燃料が、会社を爆発的な成長へと導いた。
「若き天才起業家、一条蓮」
経済誌の表紙を飾り、ニュース番組でコメントを求められる。
俺の名前は、かつてのクラスメイトたちが到底手の届かない、雲の上の存在として刻まれるようになった。
そんなある日のことだった。
俺の元に、一通の封書が届いた。
差出人は、高校時代の同窓会幹事からだった。
「卒業から十二年、久しぶりに皆で集まりませんか?」
同封された案内状には、派手な装飾文字で、地元のシティホテルの宴会場が指定されていた。
普段なら、こんな無駄な集まりは秘書に命じて破棄させる。だが、その時の俺の指先は、案内状をじっと掴んだまま離さなかった。
ふと、自分のアウスタのアカウントを確認してみる。
俺が実名で活動しているため、かつての知人たちは俺の現状を知っている者もいるだろう。
だが、摩耶や健太のアカウントはどうなっているだろうか。
久々に検索してみると、かつての華やかさは影を潜めた、生活感の漂う、というよりは「疲弊」を感じさせる投稿が目についた。
摩耶の投稿は、不平不満が増えていた。
「仕事だるい。上司マジでうざいんだけど」
「また給料日前にピンチ。誰か美味しいもの食べさせてー」
写真は相変わらず加工されているが、隠しきれない肌の荒れや、安っぽい居酒屋での光景が、彼女の現状を雄弁に物語っていた。
かつてクラスのヒロインだった少女は、今や地方の派遣社員として、代わり映えのしない日常を呪うだけの、どこにでもいる「終わった」女性になっていた。
健太に至っては、アカウント自体が止まっているか、あるいは鍵をかけて引きこもっているようだった。風の噂では、小さな土木会社の現場作業員として働いているが、素行の悪さが災いして借金を抱えているという。
「……ちょうどいいな」
俺は独り言を呟き、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。
眼下を走る車のライトが、まるで光の川のように流れている。
あの日、俺をゴミのように捨てた連中。
あの日、俺の心を殺して笑った連中。
彼らは今、泥濘のような現実の中で、過去の栄光を反芻しながら生きている。
一方で俺は、彼らが想像すらできない高みに立っている。
だが、それでは不十分だ。
ただ格差を見せつけるだけでは、俺の復讐は完結しない。
彼らが自分たちの犯した罪を、その身を持って、その魂を持って、芯から理解させてやる必要がある。
「一条社長、明日のスケジュールですが……」
「ああ、明日の午後は空けておいてくれ。少し、地元の同窓会に顔を出してくる」
秘書の問いに、俺は静かに答えた。
秘書は意外そうな顔をしたが、「承知いたしました」と深く頭を下げた。
あの日、倉庫の裏で止まった時計。
その針を、俺の手で再び動かす時が来たのだ。
復讐の味は、長く寝かせれば寝かせるほど、芳醇で残酷なものになる。
摩耶、健太、そして俺を笑ったその他大勢。
お前たちがすっかり忘れてしまった「嘘告」という名の、たかが一度の悪ふざけ。
その代償が、どれほど高くつくのか。
その重みが、これからの人生をどれほど残酷に押し潰すのか。
俺はデスクの引き出しの奥にしまっていた、あの銀色のブレスレットを取り出した。
十二年の月日を経て、それは黒ずみ、輝きを失っている。
だが、俺にとってはどんな高価な宝石よりも価値のある、怒りの象徴だ。
「さあ、始めようか。君たちが一番嫌いな、現実という名の教育を」
俺は冷たい笑みを浮かべ、ブレスレットを再び引き出しの奥へと沈めた。
外は雨が降り始めていた。あの日、俺が涙を流した時と同じ、冷たい雨だ。
だが今の俺は、もう濡れることはない。
強固なガラスに守られた、最高級のオフィスで、俺はただ獲物が罠にかかるのを待つだけだ。
翌日。
俺は特注のスーツを身に纏い、最高級のセダンを走らせて地元へと向かった。
窓の外を流れる景色は、かつての俺にとっては牢獄の壁のように思えたものだが、今の俺にとっては、単なる通り過ぎるだけの風景に過ぎない。
ホテルに到着し、エントランスで車を預ける。
「いらっしゃいませ、一条様。お待ちしておりました」
ホテルのスタッフが慇懃に頭を下げる。このホテル自体、俺が最近多額の出資をした企業グループの傘下だ。
いわば、ここはすでに俺の庭なのだ。
宴会場の重厚な扉の前に立つ。
中からは、安っぽい笑い声と、場違いに大きな話し声が漏れ聞こえてくる。
そこには、過去に執着し、成長を止めた亡霊たちが集っている。
俺は一度だけ深呼吸をし、表情から一切の感情を消した。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
「……あ、誰か来た」
「え、何あの人……芸能人? マジで?」
会場の空気が一変したのが分かった。
騒がしかった喧騒が、潮が引くように静まり返る。
数百万円は下らない時計、洗練された立ち振る舞い、そして何よりも、修羅場を潜り抜けてきた男だけが持つ圧倒的な威圧感。
誰もが、その「侵入者」が誰であるかを図りかねている。
そんな中、俺は真っ直ぐに会場の奥へと歩みを進めた。
そこには、使い古されたブランドバッグをこれ見よがしに抱え、安物のカクテルを手にしている摩耶がいた。
彼女の隣には、腹が少し出始め、かつてのエースの面影もなくなった健太が、不思議そうな顔をして立っていた。
俺は二人の前で足を止めた。
摩耶が、目を丸くして俺を見上げている。その瞳には、かつての傲慢な輝きはなく、ただ目の前の「成功者」に対する卑屈なまでの憧憬が浮かんでいた。
「……あ、あの。もしかして、どちら様ですか……?」
摩耶が、擦り寄るような甘い声で尋ねる。
高校時代の、あの「嘘告」の時と同じような、作られた笑顔。
だが、その笑顔は今の俺の前では、あまりにも醜く、あまりにも滑稽だった。
俺は口角を僅かに上げ、この十二年で一度も忘れることのなかった名前を呼んだ。
「久しぶりだね、水原さん。それと……葉山くんも。元気そうで何よりだ」
その瞬間、会場に凍りつくような沈黙が流れた。
俺の正体に気づき始めた者たちの、信じられないという絶叫が、静寂の裏で渦巻いているのが分かった。
そう、復讐の幕は、今上がったのだ。
「君たちに、ずっと伝えたかったことがあってね」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹で、そして透き通るように響いていた。
これから始まるのは、彼らにとっての悪夢であり、俺にとっては最高の「ざまぁ」のフィナーレへ向けた序章。
その一歩目が、今、力強く踏み出された。




