第1話 甘い毒と、砕かれた心
六月の湿った風が、放課後の教室に流れ込んでくる。窓の外では部活動に励む生徒たちの声が遠くに響き、オレンジ色に染まり始めた夕日が床に長い影を落としていた。
俺、一条蓮は、自分の席で胸の高鳴りを抑えられずにいた。今日は特別な日だ。クラスの人気者で、誰もが憧れる美少女、水原摩耶と付き合い始めてちょうど一カ月。
地味で目立たない、いわゆる「陰キャ」側に属する俺にとって、彼女からの告白は、まさに天から降ってきた奇跡のような出来事だった。
「蓮くん、お待たせ! 片付けに時間かかっちゃって」
廊下から弾むような足取りで教室に入ってきたのは、ウェーブがかった柔らかな髪をなびかせた摩耶だった。
彼女の笑顔は、まるで周囲の空気を浄化するかのように明るい。短いスカートから伸びる細い脚、制服越しでもわかる整ったプロポーション。そんな彼女が俺に向かって微笑み、細い指先で俺の腕に触れる。その感触だけで、俺の心臓は破裂しそうになる。
「ううん、俺も今終わったところだから。……行こうか」
「うん! 今日は一カ月の記念日だもんね。楽しみにしてたんだから」
摩耶は俺の腕を抱きしめるようにして寄り添ってきた。彼女から漂う、石鹸のような甘い香りが鼻をくすぐる。
一カ月前、校舎の裏に呼び出された時のことを、俺は昨日のことのように思い出せる。
『ずっと見てたんだ。蓮くんの、一生懸命なところ。……私と付き合ってくれないかな?』
顔を真っ赤にして俯く彼女の姿に、俺は自分の幸運を疑った。こんなに可愛い子が、俺みたいな男を見ていてくれたなんて。
それからの毎日は、まさにバラ色だった。
一緒に帰る道、他愛もない会話、時折送られてくるMINEのメッセージ。そのすべてが俺にとっての宝物で、彼女を守るためなら何だってできると本気で思っていた。
校門を出て、駅前にある公園へと向かう。今日は記念日のプレゼントとして、バイト代をはたいて買ったシルバーのブレスレットを渡すつもりだった。
彼女の細い手首に似合うだろうと、何軒も店を回って選んだものだ。鞄の中で小さな箱が揺れるたび、俺の期待感は膨らんでいく。
「ねえ、蓮くん。今日はちょっと寄り道してもいいかな?」
「寄り道? どこに?」
「いつもの公園の裏にある、古い倉庫のあたり。あそこ、夕日がすごく綺麗に見える場所があるって、友達から聞いたんだ」
摩耶の提案に、俺は二つ返事で頷いた。彼女の頼みなら、どこへだって行く。
公園を通り抜け、人気のない裏道へと入っていく。少し歩くと、落書きだらけの古い倉庫が見えてきた。確かにそこは人通りがなく、静かな場所だったが、どこか不気味な雰囲気も漂っている。
「本当にここ?」
「うん。ほら、あそこの角を曲がったところ」
摩耶に促されるまま、倉庫の陰へと回り込む。そこには、開けたスペースがあった。
だが、そこにいたのは沈む夕日だけではなかった。
五、六人の男女の集団。彼らは倉庫の壁に寄りかかったり、ドラム缶に腰掛けたりして、こちらを待っていたかのように視線を向けた。
その中心にいたのは、サッカー部のエースで、学年の中心人物である葉山健太だ。
「……葉山? なんでここに」
俺が呆気に取られていると、健太がニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら一歩前に出た。
「よお、一条。一カ月おめでとう。楽しかったか? 摩耶との『おままごと』はよ」
耳を疑うような言葉だった。
俺は隣にいる摩耶の顔を見た。彼女はいつもの天使のような微笑みを消し、代わりに冷淡で、どこか退屈そうな表情を浮かべていた。
彼女は俺の腕からスッと手を離すと、あろうことか健太の隣へと歩み寄った。健太は当然のように摩耶の肩を抱き、彼女もまた、親密そうに彼の腰に手を回す。
「え、摩耶……? どういうこと……?」
声が震える。心臓が嫌なリズムを刻み始め、指先が急速に冷たくなっていくのが分かった。
「まだ分かんないの? 本当にバカなんだね、蓮くん」
摩耶の口から放たれたのは、一カ月間、俺を幸せの絶頂に置いていたあの甘い声だった。だが、その響きには猛毒が含まれている。
「一カ月も一緒にいて、私がアンタみたいな地味で陰気な男を好きになるわけないって、気づかなかった? 鏡見たことある?」
「あはは! 無理だよ摩耶、こいつ本気で惚れてたんだぜ? 毎日MINEで『大好きだよ』とか送っちゃってさ。全部俺らに筒抜けだったのに」
健太がスマホを掲げる。そこには、俺が摩耶に送った、愛の告白や気遣いのメッセージの数々が表示されていた。
周囲の連中が、こらえきれないといった様子で吹き出し始める。
「見てよこれ、『今日の摩耶も世界一可愛い』だって! 傑作だよな」
「一カ月の記念日にブレスレット買うために、深夜までコンビニでバイトしてたんだろ? 泣かせるねえ、一条くん!」
嘲笑の渦が、俺を飲み込んでいく。
状況が理解できなかった。いや、理解したくなかった。
目の前で健太に甘える摩耶。俺を指差して笑うクラスメイトたち。
これが「嘘告」というやつか。テレビやネットの向こう側の話だと思っていた残酷な遊びが、今、自分の身に起きている。
「摩耶、お前……嘘だったのか? 全部……」
俺の問いに、摩耶は心底くたびれたようにため息をついた。
「嘘に決まってるじゃん。健太と賭けをしてたんだよ。『あんたみたいなのが一カ月でどれだけ有頂天になるか』って。想像以上に気持ち悪くて、途中で吐きそうだったけど」
彼女はポケットから自分のスマホを取り出すと、慣れた手つきで画面を操作した。
「ほら、これ。デートの時にこっそり撮ってた動画」
画面の中で、彼女の手作り弁当(実際はコンビニのものを詰め替えただけだったと今さら知った)を食べて、涙ぐみながら感謝を伝えている俺の姿が映っていた。
「これを今からアウスタとTwotterの鍵垢に流すから。あ、心配しないで? 友達限定だから。……まあ、私たちの友達って学年中にいるけどね」
集団から、またどっと笑い声が上がった。
俺が人生で最も幸せだと思っていた時間は、彼らにとっては最高の娯楽番組だったのだ。
俺の純粋な好意も、将来を語り合った夜も、バイトして貯めた金も。すべては、彼らが酒の肴にするための「ネタ」に過ぎなかった。
「もういいだろ、摩耶。一条、お疲れさん。お前のおかげで今月の飲み代、こいつらから巻き上げられたわ。礼を言うぜ」
健太が摩耶の頬にキスをする。摩耶は嬉しそうにそれに答え、俺に一瞥もくれずに踵を返した。
「じゃあね、蓮くん。あ、ブレスレットは要らないから。どうせ安いシルバーでしょ? 金属アレルギーになっちゃう」
去り際に彼女が放った言葉は、俺の心に致命的なトドメを刺した。
彼らは笑い声を響かせながら、夕闇の中へと消えていった。残されたのは、静まり返った倉庫の裏と、膝から崩れ落ちる俺だけ。
鞄からこぼれ落ちた、小さなジュエリーボックス。
中に入ったブレスレットが、沈みきった夕日の残光を浴びて虚しく輝いている。
俺は……何だったんだ。
あの一カ月、俺が彼女に向けた言葉は、想いは、一体どこへ行くんだ。
地面に手をつくと、アスファルトの冷たさが掌に伝わってくる。視界が滲み、熱いものが頬を伝った。
悔しさ? 悲しみ? いや、そのどちらでもない。
自分という存在が、徹底的に踏みにじられ、ゴミのように扱われたことへの、底知れない「無」だ。
俺の初恋は、死んだ。
それも、これ以上ないほど惨めで、滑稽な形で。
遠くから、また誰かの笑い声が聞こえたような気がした。
学校へ行けば、明日から俺は「嘘告に引っかかったバカな男」として、アウスタやTwotterで晒され続ける。
この狭い、狭いスクールカーストという名の地獄で、俺は永遠に敗者として刻印される。
「……ふざけるな」
震える声で、俺は独りごちた。
涙を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がる。
膝の震えは止まらない。胸の痛みは、呼吸をするたびに鋭く刺さる。
だが、その痛みの奥底で、何かが冷たく固まっていく感覚があった。
「ふざけるな……、ふざけるな……!」
叫びは、誰にも届かない。
だが、俺は自分に誓った。
いつか必ず、この屈辱を、この絶望を、百倍にして返してやる。
俺を笑った奴らが、俺の足元に縋り付いて許しを乞う、その日まで。
俺は、この日の冷たい風と、摩耶の蔑むような瞳を、一生忘れない。
暗闇に包まれた倉庫の裏で、俺はブレスレットを強く握りしめた。
銀色の鎖が肌に食い込み、痛みを与える。その痛みだけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の真実だった。
一条蓮という男の、平穏で無知だった学生生活は、ここで終わった。
そして、復讐という名の、果てしない渇望が産声を上げた。
夜の帳が下り、街の灯りがポツポツと灯り始める。
俺は一度も振り返ることなく、暗い夜道へと足を踏み出した。
明日、学校へ行けば地獄が待っているだろう。
だが、もう怖くはなかった。
俺の心はすでに、あの一カ月のゴミのような思い出と共に、冷徹な氷の檻に閉じ込めたのだから。
「見てろよ……。お前たちが、その程度の知能で笑っていられる時間を、今のうちに精一杯楽しんでおけ」
その日から、俺の長い、長い戦いが始まった。
勉強、知識、力、金。
この世で自分を裏切らないものだけを手に入れるために。
自分を笑ったすべての人間を、見下ろすことができる高みへ。
数年後、あるいは十数年後。
君たちが自分たちの浅はかさを呪い、後悔の海に沈む姿を。
俺は必ず、特等席で眺めてやる。
その決意を胸に、俺は夜の淵へと消えていった。




