表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/43

覚醒


暗い天井は、どこまでも続いているように見えた。


目を開けた瞬間、椿は自分が“横たえられている”ことだけを理解した。体が重い。指先が冷たい。


(……エマ)


名前を思っただけで胸が痛んだ。助かったのか。息はしていた。倒れる直前に確かめた呼吸は、まだ耳の奥に残っている。


けれど、次の記憶がない。


「……失礼いたします」


淡い声がした。使用人の声だ。椿が返事をする前に、扉の隙間から薄い光が差し込む。


「当主様がお呼びです。……歩けますか」


歩けるか、と問われるのに、選択肢はない。椿は喉を鳴らし、どうにか声を出した。


「……はい」


その声は、自分のものなのに、遠かった。


廊下は明るすぎた。壁の白さが目に刺さる。足を前に出すたびに、膝が笑う。昨夜、灯を絞り出した反動が、遅れて骨の中に沈んでいた。


母屋に通されると、空気が変わった。磨かれた木の匂い。整いすぎた静けさ。


父が座っていた。母もいる。側近の影が壁に落ちている。――そして、美鶴。


椿を見ても、美鶴の表情は変わらない。昨夜、路地で分体を踏み潰したあの足取りのまま、ここにいるかのようなだった。


「椿」


父の声が、椿の名前を呼び戻すように響いた。


「昨夜は帰宅しなかったそうだな」


椿は背筋を伸ばした。癖のように、正しい姿勢を作る。


「……外に出ておりました」


「どこへ。誰と」


美鶴が、淡々と話した。


「夜遊びをしていたようです。学校帰りに合流し、そのまま。……相手は、他校の派手な女子生徒です」


椿の喉がひくりと動いた。エマの姿が脳裏に浮かぶ。強がった笑い。耳の縁に光るピアス。


父は眉一つ動かさず、椿を見た。


「お前は灯郷の娘だ。勝手な行動は家の名を汚す。……理解しているな」


理解。そう言われるたび、椿の胸の内側が薄く削られていく。


「はい。……申し訳ございません」


口から出たのは、いつもの言葉だった。謝罪。反省。従順。


でも、その言葉の下で、昨夜の“灯”がまだ微かに熱を持っていた。


(私は……)


昨日は、帰らないと決めたはずだった。自分で決めたはずだったのに、この場に立つと、決めたことさえ家の中で薄まっていく。


父が視線を逸らし、側近に小さく顎をしゃくる。


「しばらく頭を冷やせ。……三日だ」


使用人が動いた。椿が何か言う前に、腕を取られる。丁寧な所作のまま、抵抗の余地を奪う強さ。


「お待ちください」


声が出た。けれど、父は椿を見ない。


「――連れていけ」


その一言で終わった。



扉が閉まる音は、思ったより小さかった。


それでも、その音で世界が切り替わったのが分かった。


光がない。窓もない。壁が近く、広くもない。ざらついた壁に、手のひらが引っかかる。空気が重い。自分の呼吸だけが、ここにある。


椿は壁際に座り込み、膝を抱えた。しばらくして目が慣れて来た頃に、床の上に小さなペットボトルが置かれているのに気づいた。


水だ。


キャップを回す指が震えた。喉が鳴る。ぬるい水が、乾いた喉を通るだけで、少しだけ生き返る。


(……エマ)


水を飲めば飲むほど、エマに連絡したい気持ちが強くなる。連絡先は知っている。待ち合わせの時、互いに交換した。けれど、スマホは取り上げられた。ここには何もない。


最初のうちは、まだ考えられた。


エマは無事だろうか。腕は。目は。あの後、どうなったのか。

昨夜、倒れる直前に確かめた呼吸が本当なら、生きている。なら――。


(会いたい)


そう思ったところで、暗闇が笑った気がした。会いに行けない。ここから出られない。時間さえ、分からない。


少し経って、ペットボトルは空になった。


どれくらい時間がたっただろう。

口の中が乾く。唇が裂ける。舌が上顎に貼りつく。唾が出ない。喉の奥がひりついて、息を吸うだけで痛い。


お腹が鳴った。


最初は小さな音だった。無視できた。けれど、暗闇の中では何もかもが大きくなる。胃の収縮が、体の中から椿を揺さぶる。人として当然の生理現象からは、逃れられない。


(今、何時間たっただろう……?)


数えるものがない。何度目の眠りかも分からない。眠ったのかさえ曖昧だ。目を閉じても、暗闇は同じ色で、脳が勝手に形を作り出す。


遠くで音がした気がした。

誰かが呼んだ気がした。

でも、次の瞬間には消える。残るのは、心臓の音と、喉の渇き。


今は二日目か、三日目か。それともまだ、一日目か。


椿は壁を掻いた。最初は苛立ちではない。確かめるためだ。ここが現実だと、体に言い聞かせるため。


ざり、と音がして、爪が欠けた。指先が熱くなる。血がにじむ。椿は一瞬、唇を開けて――そこに舌を当てた。


鉄の味がした。


(……だめ)


そう思うのに、体が勝手に求める。水がない。唾がない。血が、ほんの少しだけ口の中を湿らせる。


椿は頬の内側を噛んだ。痛みで意識を繋ぐ。唇の裏の皮が裂け、また鉄の味が広がる。


頭が重い。視界が霞む。目の奥が痛む。立ち上がろうとして、ふらついて壁に肩を打ちつけた。


息が上がるのに、汗が出ない。皮膚が乾いている。手の甲が突っ張る。


(……私、何してるんだ)


“ちゃんとした灯郷の娘”でいるための言葉も、姿勢も、こんな暗闇では役に立たない。ただ、生きていることだけが、剥き出しになる。


そして、その剥き出しのまま――椿は、思い出してしまう。


昨夜の路地で、美鶴が言った言葉。


灯の扱い方を覚えたようだな、芽を摘まないと、と。


笑ってしまいそうになった。危険なのは、誰だ。

灯郷の名を盾に、娘を閉じ込める父や兄の方だろう。

人喰をどうにかしたのは、私だ。エマを救ったのも、私だ。


なのに、罰を受けるのも、私。


椿は暗闇の中で、目を閉じた。

涙は出ない。水分が足りないのか、それとも――枯れてしまったのか。


もう何もわからない。

ただ、それでも生き延びるために椿は人としての尊厳を捨てるしかなかった。



どれだけの時間がたっただろう。永遠のような時間を暗闇の中で過ごした。

爪は剥がれ、食べ物のかわりに皮膚を噛んでいると、突然扉が開いた。


光が刺さって、椿は反射で目を閉じた。眩しさで吐き気がする。顔を上げようとして、首が揺れた。重い。自分の頭が、自分のものじゃないみたいだ。


「……立てますか」


使用人の声だ。表情は見えない。ただ、不快そうな声だけが耳に入る。椿は返事をしようとして、喉がからからに鳴っただけだった。


腕を取られる。引き上げられる。足が床を探るのに、うまく踏めない。半歩進んで、膝が折れそうになる。


「失礼します」


そう言いながら、使用人は半ば抱えるように椿を運んだ。丁寧さの仮面をかぶった強制。


廊下の匂いが気持ち悪いほど鮮明で、椿は息を浅くした。


曲がり角で、美鶴が立っていた。


白い顔。整った髪。視線だけが冷たい。


「……お前に、いい事を教えてやる」


美鶴は、躊躇うことなく言った。


「あの日の人喰は父上が放ったものだ」


椿は一瞬、理解が追いつかなかった。


言葉が、椿の中で音を立てて繋がる。


(父が……?)


喉がひくついた。吐き気がするのに、吐くものがない。空っぽの胃が痛い。


美鶴は椿を見下ろし、淡々と続けた。


「お前は灯郷家の当主にはなれない。父上の目につかないよう、おとなしくしていろ」


あの夜、灯を削ってエマを守った手のひらが、じわりと熱くなった。怒りで。悔しさで。乾いた血が皮膚の下で動くみたいに。


(……なんのために)


問いかける言葉は、声にはならなかった。

わかっている。どうせ人の命を奪っていい程の、たいした理由なんてないのだ。


使用人が一瞬、手を強くした。崩れそうな椿を支えるためだ。


美鶴は眉を動かさない。感情を見せないまま、椿を通り過ぎる。


その背中に、椿は目を細めた。


父が放った怪異で、エマが危険な目に遭った。連絡したいのに、今はその連絡手段さえも父の手の中だ。確かめたいのに、何もできない。


この家が、椿の全てを奪っていく。

椿の心を壊すには充分だった。


椿は歩けない足で、歩くふりをした。

支えられているのに、支えを拒むみたいに、肩に力を入れた。


(私は、もう)


“娘”のまま従うのをやめる。

灯郷家を、潰す。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ