殻渡りの人喰(3)
――昼。
教室の窓は開け放たれていて、春の風が机の角を撫でていく。黒板のチョークの粉が、光の筋の中でゆっくり舞っていた。
灯郷椿は、いつも通りの顔で席に座っていた。
周りの笑い声に合わせて、口角だけを少し上げる。頷く。相槌を打つ。必要な分だけ、呼吸を合わせる。
「黒川君、またサボりかな?」
誰かが言った。
その名前に、椿の意識が一瞬だけ引っかかる。
黒川レイ。
入学式にも出なかった。よく新しい傷を作る。人と関わりもしない。そのくせ、たまに――こちらの中身まで見透かすような目で、椿を見ていることがある男だ。
(……何を見ているんだろう)
複雑な家庭なのかもしれない。
そんな考えが、ふっと湧く。共感、というには弱い。興味、というには静かだ。けれど、椿の心のどこかが、あの存在に引っかかっていた。
だからといって、話しかける理由にはならない。
椿は椿のままで、他人と距離を取ることに慣れている。
視界の端で、ふわりと黒いものが揺れた。
椿の肩のあたり。髪の影に潜る、ぬるい霧みたいな小さな怪異が一匹――二匹。
嫌な気配ではない。むしろ、寄り添ってくるような弱さがある。
(……また)
灯の血は、目印になる。
浄化を望んで寄ってくるものもいるし、逆に、脅威だと思って消そうとするものもいる。
椿は、いつものように髪を払うふりをして、肩の影をそっと振り落とした。
目立ちたくない。いつも通りでいたい。
“ちゃんとした灯郷の娘”でいることに、慣れすぎているから。
――けれど今日は。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥に小さな火が灯る。
今日はエマと会う。
いつもは夜中にこっそり外へ出る。家にいる時間を減らすために。息が詰まる前に逃げるために。
でも今日は、学校が終わったその足で、堂々と外へ行く。
家に帰らない。
その選択を、初めて“自分で”決めた。
どうせ家族と顔を合わせることだってない。
顔を合わせても、何も変わらない。
なら――変えるのは自分だ。
椿は鞄を持ち、教室を出た。
⸻
校門の外に、エマはいた。
近くの高校に通うエマは制服の着崩し方が雑で、髪色は派手で、耳の縁に光るピアスがいくつも揺れる。目つきが強いのに、笑うと幼く見える。
「遅ぇ」
「すみません。……お待たせしました」
「いーよ。今日どこ行く? ゲーセン? 駄菓子? つか、マジで帰んないの?」
エマは軽い。軽いまま、椿の肩を小突く。
椿は、その軽さが眩しい。
「……帰りません」
言葉にすると、少しだけ喉が乾いた。
それでも、椿は言い切った。
エマは一瞬だけ目を丸くして、それからニヤッと笑う。
「よし。じゃあ遊ぶぞ、お嬢」
その呼び方に、椿は小さく眉を寄せたが、否定する気は起きなかった。
今日は、誰かの決めた枠の中で呼吸をしたくない。
「そのピアス、やっぱり似合うな」
ふいにエマが、椿の耳元を見て言った。
初めて家族に反抗すると決めたあの夜。椿の悩みを聞き、エマが「反抗の証だ」と提案した。二人で並んで開けた、お揃いのピアスだ。
「……こういうのも、悪くないですね」
椿は小さく笑った。耳朶の熱が、まだ残っている気がした。
二人は並んで歩いた。
街の空気は、昼の学校よりずっと自由で、少しだけ危うい匂いがした。
空が傾く。
ビルの影が伸び、店の灯りが増えていく。
夕方と夜の境目は、なぜか街全体が落ち着かない。
(……騒がしい)
車の音。笑い声。どこかの店の音楽。自転車のブレーキ。
それらに混じって――椿の皮膚の内側を、薄く擦るような違和感が走った。
怪異の気配。
椿は足を止めかける。
同時に、エマの歩幅がわずかに乱れた。
「……エマ?」
「……ん?」
エマが振り向いた瞬間、椿は息を呑んだ。
目が、焦点を結んでいない。
瞳が揺れているのに、まぶたは妙に落ち着いている。眠気とは違う。意識が薄いわけでもない。
――“何かに引っ張られている”。
「……だる……」
エマが短く呟き、肩を落とした。
その左腕が、ぴくり、と跳ねる。本人の意思と関係なく、関節だけが動いているようなぎこちなさ。
椿の背筋が冷たくなる。
「……憑いてる」
エマの足元に影は見えない。
けれど、空気の重さが変わった。人の気配の間に、飢えたものが混じっている。
それは、小さく寄ってくる霧とは違う。
「食う」ためにいるものの気配だった。
エマがふらりと前に倒れかける。
椿は咄嗟に腕を掴んだ。
その瞬間――エマの首が、ぎくりと不自然に傾いた。
椿を見た。
エマの目で、エマじゃないものが、椿を見た。
ぞわり、と皮膚が粟立つ。
喉の奥が冷える。
(……灯を、探してる?)
椿の中に、古い記憶が刺さった。
子どもの頃、離れへ追いやられる前。
母屋で聞かされたわけじゃない。誰かが語るのを、障子の向こうでたまたま聞いただけの話。
灯郷の先祖が封じた怪異。
完全に消すのではなく、弱らせて隔離した――封印という形。
そして、その怪異の名。
(……人喰)
口の中で、音だけが転がった。
“ひとばみ”。
宿主を捨てて渡る、と聞いた。
捨てられた側は、空っぽになって戻らない――そういう話だった。
椿の心臓が、強く打った。
(……エマが、捨てられたら)
椿はエマの肩を引き寄せ、路地へ押し込むように連れていった。
人目の少ない場所。けれど、街灯がある。暗闇だけは避ける。今は、怖がっている場合じゃない。
エマの左腕が、椿の首元へ跳ねる。
――刃。
手に何も持っていないのに、空気が裂ける気配がした。
影そのものが刃になる。
椿は反射で身を引いた。頬を、冷たい線が掠める。
「……っ」
痛みは遅れてきた。
肌の上に熱が広がる。ほんの浅い傷。それでも、今のが首に入っていたら、と思うと喉が詰まる。
(避けるしか……)
椿は掌を開いた。
体の奥に沈めてきた灯に触れる。引き上げる。光を灯す。
いつもなら、それだけで小さな怪異は散る。
――けれど。
灯が、弾かれた。
掌の光が、黒いものに触れた瞬間、ぬるりと滑る。
まるで、水面に指を入れたみたいに、力が吸われていく。
椿の指先が冷たく痺れた。
(……届かない)
エマが一歩踏み出す。
顔はエマのままなのに、動きだけが別物だ。無駄がない。躊躇がない。人間の“迷い”がない。
椿は後退しながら、必死に距離を取った。
灯を当てたい。けれど、当てるための隙がない。
(時間がない)
不利になれば、別の誰かへ渡る。
もっと都合のいい器へ。
その瞬間、エマは空っぽになる。
椿は呼吸を整えようとして、気づく。
街が騒がしい。
遠くで叫び声がしたように聞こえた。車の急ブレーキ。笑い声に混じる、短い悲鳴。
(……もう、どこかで)
考えたくない想像が、喉の奥に引っかかる。
(止めないと……)
椿の視界の端に、自販機の光があった。
その前に、ゴミ箱が置かれている。昼間のゴミがまだ残っているらしい、蓋が少し浮いていた。
――エマは、前にそうした。
恐怖に呑まれそうな瞬間、エマが躊躇なく“物”を武器にした。
あの無茶が、椿を救った。
椿は息を吸い込み、走った。
ゴミ箱の縁に手をかけ、持ち上げる。重い。腕が震える。
「……ごめん」
椿は呟く。
エマに傷をつけたくない。
でも、エマを人喰に渡すわけにはいかない。
エマが跳ねる。
影の刃が、椿の足元を薙ぐ。
椿はゴミ箱を盾みたいに突き出した。
ガン、と鈍い音。
刃がぶつかり、エマの動きが一瞬だけ止まる。
――今だ。
椿はゴミ箱をエマに向けて投げ捨てる。エマの体勢が崩れた隙に掌をエマの胸元へ向けた。
灯を集める。
今度は、薄く撫でるんじゃない。
刺す。押し込む。焼く。
掌の中で光が膨らむ。
空気が張り詰め、路地の温度が一段下がったように感じた。
(……お願い。届いて)
椿は灯を押し出した。
光がエマの胸へ触れた瞬間、黒いものが、ぴくりと震えた。
焦げた匂いが混じる。湿った布が焼けるような臭い。
エマの身体が、ぐらりと揺れた。
椿の中で、何かがほどけた。
“逃げたい”よりも強いものが、底から湧いた。
使命感だけじゃない。責任でもない。
目の前の、たった一人を守りたい、という単純で鋭い衝動。
椿は、さらに灯を引き上げた。
胸の奥が、空になる。
熱が抜けていく。
血の気が引く。指先が痺れ、視界の端が白く霞む。
寿命を削る、という言葉の意味が、椿にも分かった。
命そのものが細くなる。紐が擦り切れるみたいに、体の内側が鳴る。
それでも、止められない。
止めたら、エマが終わる。
エマの口が開き、声を発した。
「――灯」
甘い。怖い。飢えた呼び方。
その声に、椿の胃が縮む。
椿は歯を食いしばった。
「……違う。この体は、あなたのものじゃない」
灯が、強くなった。
全身が焼けるような感覚がして意識が飛びそうになるが、必死に繋ぎ止める。
光が、エマの輪郭を縁取る。
その内側で、黒い影が暴れる。
影は、エマの左腕に集まり始めた。
そこから“剥がれて”逃げようとしている。逃げられないと判断した瞬間、分体だけでも置いていくつもりなのか。
(……逃がさない)
椿は片手を伸ばし、エマの左腕を掴んだ。
怖いほど冷たい。皮膚の下に、別の温度がある。人間じゃない熱が蠢いている。
ふと、遠くから、かすかな焦げた匂いが漂ってきた。
どこかで、何かが焼けるような、薄い煙の匂い。
椿は一瞬だけ眉を寄せた。
(……誰かが、封印をかけている?)
その匂いが、わずかに人喰の動きを鈍らせている気がした。
椿は灯を、腕へ流し込んだ。
光が走る。
エマの左腕の表面に、薄い線が浮かび上がり――そこから黒が裂けた。
音はない。
けれど、何かが“ちぎれる”感覚がした。
左腕の形をした黒い塊が、地面に落ちた。
それでも椿は光を止めない。視界が滲む。
エマ…。心の中で何度も名前を呼ぶ。
力が枯れる寸前、黒い気配が浄化されていく。
「……エマ!」
エマの膝が折れる。
椿は支えようとしたが、体が言うことをきかなかった。
灯を出しきった反動が、一気に足元を攫う。
視界が揺れ、耳が遠くなる。
(……立って)
そう思ったのに、椿も崩れた。
膝が砂利に当たり、痛みが遠い。頬が冷たい地面に触れる。
エマの呼吸が、かすかに聞こえた。
生きている。意識はないが、生きている。
――よかった。
そう思った瞬間、椿の背中を冷たいものが撫でた。
落ちた黒い左腕が、動いている。
指が、蜘蛛みたいに地面を這う。
逃げる。
その動きが、ぞっとするほど“生き物”だった。
(止め……)
椿の指が、わずかに動く。
けれど、灯はもう残っていない。体が空っぽだ。
声も出ない。喉が閉じる。
左腕が、路地の外へ這い出しかけた、その時。
足音がした。
迷いのない、静かな足音。
近づいてくるのに、気配が薄い。夜の空気と同じ温度。
誰かが、地を這う左腕を踏んだ。
ぐしゃ、と鈍い音。
指がばたつく。
逃げようとして、逃げられない。
男がしゃがみ、左腕を拾い上げた。
ぬめる黒が、指に絡みつく。けれど、その男は嫌がる素振りもない。
そして、椿の顔の前に立つ。
椿の視界に、革靴とズボンの裾が入る。
顔が見えない。けれど、立ち姿だけで椿にはそれが誰かわかった。
「……」
暗がりの中で、その声だけがはっきり届いた。
「椿」
椿の胸が、ひくりと跳ねた。
「……兄、さま……」
灯郷美鶴。
跡継ぎの兄。
いつも椿を見ない、椿を嵌めて離れに追いやった男。
その兄が、今ここにいる。
美鶴は、椿を見下ろした。
目の中に感情はない。ただ、確かめるような目。
「……あの時、離れに追いやったのは正しかったのかもしれない」
美鶴の視線が、椿の胸元を一瞬だけ捉える。
そこに、わずかに残る灯の熱が、兄の目に映っていた。
「灯の扱い方を覚えたようだな」
椿は返事ができない。
喉が震える。体が冷たい。
「封印が人喰を抑えていたとはいえ……ここまで追い詰めるとは」
美鶴は、左腕――分体を、軽く持ち上げて見せた。
暴れるそれが、椿の視界を黒く汚す。
「……早く芽を摘まないとな。次期当主は、俺だ」
その言葉の意味が、椿には分かった。
椿が強くなることが、兄にとって脅威であることだけを、淡々と告げている。
美鶴は、椿の身体を抱え上げた。
荷物を運ぶかのように、乱暴に。
椿の視界の端で、エマが倒れている。
椿は手を伸ばしたかった。
口を開いて名前を呼びたかった。
でも、もう声が出ない。
美鶴は椿を抱えたまま、路地を出た。
街の灯りが、眩しいほど遠い。
椿の意識は、そこで薄く途切れた。
――エマの呼吸だけを、最後に確かめながら。




