表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/44

殻渡りの人喰(3)

――昼。


教室の窓は開け放たれていて、春の風が机の角を撫でていく。黒板のチョークの粉が、光の筋の中でゆっくり舞っていた。


灯郷椿は、いつも通りの顔で席に座っていた。

周りの笑い声に合わせて、口角だけを少し上げる。頷く。相槌を打つ。必要な分だけ、呼吸を合わせる。


「黒川君、またサボりかな?」


誰かが言った。

その名前に、椿の意識が一瞬だけ引っかかる。


黒川レイ。

入学式にも出なかった。よく新しい傷を作る。人と関わりもしない。そのくせ、たまに――こちらの中身まで見透かすような目で、椿を見ていることがある男だ。


(……何を見ているんだろう)


複雑な家庭なのかもしれない。

そんな考えが、ふっと湧く。共感、というには弱い。興味、というには静かだ。けれど、椿の心のどこかが、あの存在に引っかかっていた。


だからといって、話しかける理由にはならない。

椿は椿のままで、他人と距離を取ることに慣れている。


視界の端で、ふわりと黒いものが揺れた。

椿の肩のあたり。髪の影に潜る、ぬるい霧みたいな小さな怪異が一匹――二匹。


嫌な気配ではない。むしろ、寄り添ってくるような弱さがある。


(……また)


灯の血は、目印になる。

浄化を望んで寄ってくるものもいるし、逆に、脅威だと思って消そうとするものもいる。


椿は、いつものように髪を払うふりをして、肩の影をそっと振り落とした。

目立ちたくない。いつも通りでいたい。

“ちゃんとした灯郷の娘”でいることに、慣れすぎているから。


――けれど今日は。


放課後のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥に小さな火が灯る。


今日はエマと会う。

いつもは夜中にこっそり外へ出る。家にいる時間を減らすために。息が詰まる前に逃げるために。


でも今日は、学校が終わったその足で、堂々と外へ行く。


家に帰らない。

その選択を、初めて“自分で”決めた。


どうせ家族と顔を合わせることだってない。

顔を合わせても、何も変わらない。

なら――変えるのは自分だ。


椿は鞄を持ち、教室を出た。



校門の外に、エマはいた。

近くの高校に通うエマは制服の着崩し方が雑で、髪色は派手で、耳の縁に光るピアスがいくつも揺れる。目つきが強いのに、笑うと幼く見える。


「遅ぇ」


「すみません。……お待たせしました」


「いーよ。今日どこ行く? ゲーセン? 駄菓子? つか、マジで帰んないの?」


エマは軽い。軽いまま、椿の肩を小突く。

椿は、その軽さが眩しい。


「……帰りません」


言葉にすると、少しだけ喉が乾いた。

それでも、椿は言い切った。


エマは一瞬だけ目を丸くして、それからニヤッと笑う。


「よし。じゃあ遊ぶぞ、お嬢」


その呼び方に、椿は小さく眉を寄せたが、否定する気は起きなかった。

今日は、誰かの決めた枠の中で呼吸をしたくない。


「そのピアス、やっぱり似合うな」


ふいにエマが、椿の耳元を見て言った。

初めて家族に反抗すると決めたあの夜。椿の悩みを聞き、エマが「反抗の証だ」と提案した。二人で並んで開けた、お揃いのピアスだ。


「……こういうのも、悪くないですね」


椿は小さく笑った。耳朶の熱が、まだ残っている気がした。


二人は並んで歩いた。

街の空気は、昼の学校よりずっと自由で、少しだけ危うい匂いがした。


空が傾く。

ビルの影が伸び、店の灯りが増えていく。

夕方と夜の境目は、なぜか街全体が落ち着かない。


(……騒がしい)


車の音。笑い声。どこかの店の音楽。自転車のブレーキ。

それらに混じって――椿の皮膚の内側を、薄く擦るような違和感が走った。


怪異の気配。


椿は足を止めかける。

同時に、エマの歩幅がわずかに乱れた。


「……エマ?」


「……ん?」


エマが振り向いた瞬間、椿は息を呑んだ。


目が、焦点を結んでいない。

瞳が揺れているのに、まぶたは妙に落ち着いている。眠気とは違う。意識が薄いわけでもない。

――“何かに引っ張られている”。


「……だる……」


エマが短く呟き、肩を落とした。

その左腕が、ぴくり、と跳ねる。本人の意思と関係なく、関節だけが動いているようなぎこちなさ。


椿の背筋が冷たくなる。


「……憑いてる」


エマの足元に影は見えない。

けれど、空気の重さが変わった。人の気配の間に、飢えたものが混じっている。


それは、小さく寄ってくる霧とは違う。

「食う」ためにいるものの気配だった。


エマがふらりと前に倒れかける。

椿は咄嗟に腕を掴んだ。


その瞬間――エマの首が、ぎくりと不自然に傾いた。


椿を見た。

エマの目で、エマじゃないものが、椿を見た。


ぞわり、と皮膚が粟立つ。

喉の奥が冷える。


(……灯を、探してる?)


椿の中に、古い記憶が刺さった。


子どもの頃、離れへ追いやられる前。

母屋で聞かされたわけじゃない。誰かが語るのを、障子の向こうでたまたま聞いただけの話。


灯郷の先祖が封じた怪異。

完全に消すのではなく、弱らせて隔離した――封印という形。


そして、その怪異の名。


(……人喰)


口の中で、音だけが転がった。

“ひとばみ”。


宿主を捨てて渡る、と聞いた。

捨てられた側は、空っぽになって戻らない――そういう話だった。


椿の心臓が、強く打った。


(……エマが、捨てられたら)


椿はエマの肩を引き寄せ、路地へ押し込むように連れていった。

人目の少ない場所。けれど、街灯がある。暗闇だけは避ける。今は、怖がっている場合じゃない。


エマの左腕が、椿の首元へ跳ねる。


――刃。


手に何も持っていないのに、空気が裂ける気配がした。

影そのものが刃になる。


椿は反射で身を引いた。頬を、冷たい線が掠める。


「……っ」


痛みは遅れてきた。

肌の上に熱が広がる。ほんの浅い傷。それでも、今のが首に入っていたら、と思うと喉が詰まる。


(避けるしか……)


椿は掌を開いた。

体の奥に沈めてきた灯に触れる。引き上げる。光を灯す。

いつもなら、それだけで小さな怪異は散る。


――けれど。


灯が、弾かれた。


掌の光が、黒いものに触れた瞬間、ぬるりと滑る。

まるで、水面に指を入れたみたいに、力が吸われていく。

椿の指先が冷たく痺れた。


(……届かない)


エマが一歩踏み出す。

顔はエマのままなのに、動きだけが別物だ。無駄がない。躊躇がない。人間の“迷い”がない。


椿は後退しながら、必死に距離を取った。

灯を当てたい。けれど、当てるための隙がない。


(時間がない)


不利になれば、別の誰かへ渡る。

もっと都合のいい器へ。

その瞬間、エマは空っぽになる。


椿は呼吸を整えようとして、気づく。

街が騒がしい。

遠くで叫び声がしたように聞こえた。車の急ブレーキ。笑い声に混じる、短い悲鳴。


(……もう、どこかで)


考えたくない想像が、喉の奥に引っかかる。


(止めないと……)


椿の視界の端に、自販機の光があった。

その前に、ゴミ箱が置かれている。昼間のゴミがまだ残っているらしい、蓋が少し浮いていた。


――エマは、前にそうした。


恐怖に呑まれそうな瞬間、エマが躊躇なく“物”を武器にした。

あの無茶が、椿を救った。


椿は息を吸い込み、走った。

ゴミ箱の縁に手をかけ、持ち上げる。重い。腕が震える。


「……ごめん」


椿は呟く。

エマに傷をつけたくない。

でも、エマを人喰に渡すわけにはいかない。


エマが跳ねる。

影の刃が、椿の足元を薙ぐ。

椿はゴミ箱を盾みたいに突き出した。


ガン、と鈍い音。

刃がぶつかり、エマの動きが一瞬だけ止まる。


――今だ。


椿はゴミ箱をエマに向けて投げ捨てる。エマの体勢が崩れた隙に掌をエマの胸元へ向けた。

灯を集める。

今度は、薄く撫でるんじゃない。


刺す。押し込む。焼く。


掌の中で光が膨らむ。

空気が張り詰め、路地の温度が一段下がったように感じた。


(……お願い。届いて)


椿は灯を押し出した。


光がエマの胸へ触れた瞬間、黒いものが、ぴくりと震えた。

焦げた匂いが混じる。湿った布が焼けるような臭い。

エマの身体が、ぐらりと揺れた。


椿の中で、何かがほどけた。


“逃げたい”よりも強いものが、底から湧いた。

使命感だけじゃない。責任でもない。

目の前の、たった一人を守りたい、という単純で鋭い衝動。


椿は、さらに灯を引き上げた。


胸の奥が、空になる。

熱が抜けていく。

血の気が引く。指先が痺れ、視界の端が白く霞む。


寿命を削る、という言葉の意味が、椿にも分かった。

命そのものが細くなる。紐が擦り切れるみたいに、体の内側が鳴る。


それでも、止められない。

止めたら、エマが終わる。


エマの口が開き、声を発した。


「――灯」


甘い。怖い。飢えた呼び方。

その声に、椿の胃が縮む。


椿は歯を食いしばった。


「……違う。この体は、あなたのものじゃない」


灯が、強くなった。

全身が焼けるような感覚がして意識が飛びそうになるが、必死に繋ぎ止める。


光が、エマの輪郭を縁取る。

その内側で、黒い影が暴れる。


影は、エマの左腕に集まり始めた。

そこから“剥がれて”逃げようとしている。逃げられないと判断した瞬間、分体だけでも置いていくつもりなのか。


(……逃がさない)


椿は片手を伸ばし、エマの左腕を掴んだ。

怖いほど冷たい。皮膚の下に、別の温度がある。人間じゃない熱が蠢いている。


ふと、遠くから、かすかな焦げた匂いが漂ってきた。

どこかで、何かが焼けるような、薄い煙の匂い。

椿は一瞬だけ眉を寄せた。


(……誰かが、封印をかけている?)


その匂いが、わずかに人喰の動きを鈍らせている気がした。


椿は灯を、腕へ流し込んだ。


光が走る。

エマの左腕の表面に、薄い線が浮かび上がり――そこから黒が裂けた。


音はない。

けれど、何かが“ちぎれる”感覚がした。


左腕の形をした黒い塊が、地面に落ちた。


それでも椿は光を止めない。視界が滲む。

エマ…。心の中で何度も名前を呼ぶ。


力が枯れる寸前、黒い気配が浄化されていく。


「……エマ!」


エマの膝が折れる。


椿は支えようとしたが、体が言うことをきかなかった。

灯を出しきった反動が、一気に足元を攫う。

視界が揺れ、耳が遠くなる。


(……立って)


そう思ったのに、椿も崩れた。

膝が砂利に当たり、痛みが遠い。頬が冷たい地面に触れる。


エマの呼吸が、かすかに聞こえた。

生きている。意識はないが、生きている。


――よかった。


そう思った瞬間、椿の背中を冷たいものが撫でた。


落ちた黒い左腕が、動いている。


指が、蜘蛛みたいに地面を這う。

逃げる。

その動きが、ぞっとするほど“生き物”だった。


(止め……)


椿の指が、わずかに動く。

けれど、灯はもう残っていない。体が空っぽだ。

声も出ない。喉が閉じる。


左腕が、路地の外へ這い出しかけた、その時。


足音がした。


迷いのない、静かな足音。

近づいてくるのに、気配が薄い。夜の空気と同じ温度。


誰かが、地を這う左腕を踏んだ。


ぐしゃ、と鈍い音。

指がばたつく。

逃げようとして、逃げられない。


男がしゃがみ、左腕を拾い上げた。

ぬめる黒が、指に絡みつく。けれど、その男は嫌がる素振りもない。


そして、椿の顔の前に立つ。

椿の視界に、革靴とズボンの裾が入る。

顔が見えない。けれど、立ち姿だけで椿にはそれが誰かわかった。


「……」


暗がりの中で、その声だけがはっきり届いた。


「椿」


椿の胸が、ひくりと跳ねた。


「……兄、さま……」


灯郷美鶴。

跡継ぎの兄。

いつも椿を見ない、椿を嵌めて離れに追いやった男。


その兄が、今ここにいる。


美鶴は、椿を見下ろした。

目の中に感情はない。ただ、確かめるような目。


「……あの時、離れに追いやったのは正しかったのかもしれない」


美鶴の視線が、椿の胸元を一瞬だけ捉える。


そこに、わずかに残る灯の熱が、兄の目に映っていた。


「灯の扱い方を覚えたようだな」


椿は返事ができない。

喉が震える。体が冷たい。


「封印が人喰を抑えていたとはいえ……ここまで追い詰めるとは」


美鶴は、左腕――分体を、軽く持ち上げて見せた。

暴れるそれが、椿の視界を黒く汚す。


「……早く芽を摘まないとな。次期当主は、俺だ」


その言葉の意味が、椿には分かった。


椿が強くなることが、兄にとって脅威であることだけを、淡々と告げている。


美鶴は、椿の身体を抱え上げた。

荷物を運ぶかのように、乱暴に。


椿の視界の端で、エマが倒れている。

椿は手を伸ばしたかった。

口を開いて名前を呼びたかった。


でも、もう声が出ない。


美鶴は椿を抱えたまま、路地を出た。

街の灯りが、眩しいほど遠い。


椿の意識は、そこで薄く途切れた。


――エマの呼吸だけを、最後に確かめながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ