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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
四章. ノアの方舟

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保健室の告白


廊下を歩く間、レイは時折、椿のたどたどしい足取りを気にするように歩幅を緩めた。無言のまま自分に合わせてくれるその背中が、今はかえって遠く、椿の胸を締め付ける。



保健室は無人なのか、固く施錠されていた。

鍵を借りて戻ってきたレイに促され、中へ入る。カチリ、と扉が閉まる音が、外の世界の喧騒を完全に遮断した。


冬休みには同じ屋根の下で生活し、誰よりも近い場所にいたはずなのに。今更すぎるほどの気まずさが椿を襲い、逃げ場のない密室で、椿は戸惑いを隠せないままベッドの端に腰を下ろした。


「ほら、寝てろよ」


「……レイは、教室に戻るの?」


「戻ってほしいか?」


問い返され、椿は視線を伏せて少し考えてから、控えめに首を振った。

レイは小さく息を吐いて椅子を引き、椿の隣に腰を下ろした。


「夜遅くまで怪異なんか追っかけてるから、身体壊すんだろ。……ここにいるから、少し休め」


「……余計なことするなって、言わないの?」


「言えばやめてくれるのか?」


レイは怒るでもなく、どこか諦めたような表情を浮かべた。


「ところで椿。……お前、寝る気ねぇだろ」


不意を突かれ、椿の肩がぎくりと跳ねる。


「急に避け始めたと思ったら、今度は仮病か?」


「……仮病だと思うなら、なんでついてきてくれたの?」


「様子がおかしいのは事実だからな」


レイは長く、重い息を吐いて続けた。その横顔が、窓から差し込む午後の光に縁取られ、どこか遠い場所にあるもののように見えた。


「……なぁ。こっち見なくてもいいから、そのまま聞いてくれ。あの日、屋上で……お前に話すつもりだった事だけど」


急に低くなった声と伏せられた視線に、椿は胸騒ぎがした。ノアが回帰した日、確かにレイは何かを話そうとしていた。


「俺が高校(ここ)に通ってる理由だ」


言った瞬間、レイの指が膝の上で強く握られた。


「……九尾に。お前の監視と報告を命じられてる」


椿の背筋に、冷たい氷が滑り落ちたような戦慄が走った。咄嗟に身体を起こし、隣に座るレイを見つめる。


「……レイが、監視? ……私の?」


レイは一瞬だけ目を逸らしたが、すぐに戻して椿を真っ直ぐに見据えた。


——入学した春。

教室の端から向けられていた視線。名前を呼ばれた気がして振り向いたときの、あの温度のない瞳。

胸に刻んでいた記憶のすべてが、今、音を立てて「任務」へと塗り替わっていく。


椿の喉が、ひゅっと小さく鳴った。


「従ってたの……?その指示に」


「……否定はできない」


信じていたものが足元から崩れるような感覚。

二人の間に、「九尾」という別の意志が介入していたこと。優しい眼差しのどこかに、九尾の「報告」が混ざっていたかもしれないこと。それが痛いほど胸を締め付ける。


「……なんで、今まで言ってくれなかったの?レイは、九尾側じゃないんだよね……?」


椿の声は、自分でも驚くほど震えていた。


「……本当は、このままずっと隠していたかった。お前に、そんな目を向けられたくなかったから」


苦しげに落とされたその言葉に、椿は息を呑んだ。


椿は初めて自覚する。自分が今、どんな目でレイを見ていたのか。一瞬でも彼を「九尾」として見た、その視線がレイの胸をどれだけ深く抉ったのか。


「……違う。私は……レイを、疑ったわけじゃ……」


言いかけて、椿は言葉を詰まらせた。否定したいのに、声が出なかった。


「……別にいい。疑われて当然だし、椿を責めるつもりはない」


レイは視線を落としたまま言った。


「じゃあ、なんで話したの? また……私を突き放して、一人でどこかへ行くつもりだった?」


「それは……」


逃げ道を探すみたいな沈黙に、椿の背筋が冷える。


「レイ……。誰の指示だとか、どっちの味方だとか……そんなの、私にはもうどうでもいいの。ただレイがいてくれたら、それだけでいいから」


抑えきれなかった涙が、熱を持って頬を伝う。


「一人にしないで……」


不意に、強い力で引き寄せられた。


「……っ」


レイの腕の温もりに包まれる。彼の髪が椿の頬をくすぐり、懐かしい匂いが鼻腔を満たす。


「……ごめん、椿。泣かせたかったんじゃない。……お前を、巻き込むつもりもなかった」


耳元で響く彼の鼓動が、逆に椿の心を頑なにさせる。


「……でもこれ以上、九尾を止められそうにない。だから、椿には……できるだけ安全な場所にいてほしい」


安全な場所。

それはきっと、レイのいない場所。

彼が一人で地獄を背負い、椿だけを平穏の中に置き去りにする未来。


ノアの語った惨劇が、レイが死ぬという宣告が、激しい現実味を帯びて椿の脳裏を駆け巡る。


レイを、この体温を失いたくない。

彼を死なせるくらいなら、自分が泥沼に沈む方がマシだ。


「……レイ。安全な場所なんて、どこにもないよ。レイがいない場所に、私の居場所なんてない」


椿はレイの腕の中で、掠れた声を出した。驚いたようにレイの手が緩む。その隙を逃さず、椿は彼の胸を押し返し、至近距離でその瞳を射抜いた。


「椿、お前――」


レイが何かを言いかける。その唇を、椿は自らの熱で、強引に塞いだ。


「――っ!?」

レイの体が、弾かれたように硬直する。

けれど椿はさらに深く、縋り付くように唇を重ね直した。


(……これは、愛の告白なんて綺麗なものじゃない)


レイの目を覆い隠し、自らレイのいる地獄へ足を踏み入れることを選んだ――不退転の決意だった。


「レイ……私と、付き合って」


唇が離れた瞬間、吐息が重なる距離で椿は囁いた。

赤く染まった頬。潤んだ瞳。そこにあるのは、純粋な好意以上に濃厚な、逃げ場を許さない「執着」だった。


「椿。お前……自分が今、何をしてるか分かってるか?」


レイの声は、掠れて低かった。

椿の肩から、指先が離れていく。レイは自分の衝動を押し殺すように、拳を握りしめた。


「わかってる。……レイのことが、好きなの」


「好きって……。そんな一時的な感情に振り回されるな。頼むから、お前は平穏の中にいろ」


レイは吐き捨てるように言った。

だが、椿は一歩も引かなかった。


「一時的じゃない。……レイのいない世界なんて、私はいらないの」


椿の瞳に宿る執着の熱は、まるで逃げ場を塞ぐ網のように揺らめいていた。

レイはそれを真正面から見つめ、喉の奥で何かを押し殺すように息を詰めた。


拒絶の言葉は、とうとう出てこなかった。


レイが、ほんの僅かに視線を落とした。――離れるつもりだ。

それだけで椿の心臓が冷え、呼吸が乱れる。


「……待って」


声になったのは、ほとんど掠れた吐息だった。

椿の指が、レイの制服の袖を掴む。力を込めた覚えはないのに、離れられないほど固く絡みついていた。


「椿……」


名前を呼ぶ声が、優しすぎた。

その優しさは、拒絶と同じ形をしている。椿を置き去りにする未来だけを、はっきりと運んでくる。


椿は、その優しさごと塞ぐように、もう一度唇を重ねた。

ただ、レイをこの場所に繋ぎ止めたかった。


「っ……」


レイの指が、椿の肩に食い込む。止めようとしているのが、痛いほど分かった。

それでも、その手は椿を押し返さなかった。


掴んだ指先がほどけかけて、次の瞬間、逆に強く引き寄せられた。

体が軋むほどの力。息が詰まるほど近い。


椿が仕掛けた主導権は、彼によって、静かに塗り替えられていく。短いはずのキスは、簡単には終わらなかった。


椿の背に回った腕が、逃げ場を塞ぐように深く、確かな熱を帯びていく。触れられるたび、椿の体温が彼の色に書き換えられていく。


――このまま、全部を捨ててもいい。


そんな思考がよぎった瞬間、レイが僅かに顔を離した。

吐息が絡み、額が触れそうな距離で、喉の奥を押し殺すように息を吸う。


「……っ」


言葉になりかけた何かは、最後まで形にならない。

代わりに、幾度も。レイは椿の唇を奪った。


白いカーテンの向こうで、午後の光がゆっくりと揺れる。

静まり返った保健室に、鼓動だけが残った。――どちらのものか、もう分からないくらいに。


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