守護の代償
雑居ビルの一室には、常に古い線香のような、あるいは怪異の腐臭を誤魔化すための薬品のような、不気味な匂いが漂っている。
その部屋で、久世は書類から目を離さぬまま、静かに口を開いた。
「レイ。私たちの仕事を横取りしている犯人は、まだ掴めないのですか?」
久世がこの話題を直接振ってくることは、滅多にない。それだけに、組織としての忍耐が限界に近いことをレイは悟った。
「……ああ」
短く応じるレイの背中に、久世の無機質な視線が突き刺さる。
「本当はわかっていて、黙っているのではないですか? ——灯郷椿。最有力候補でしょう」
「あいつは違う。監視が多くて、外に出られないはずだ」
迷いなく嘘を吐いた。だが、久世は微かに口角を上げ、チェスの駒を動かすような手つきでペンを置いた。
「そうですか。でも、あなたが出入りできた程度には隙がある、ということでは?」
「……あいつには無理だ。あんな箱入りのお嬢様に、現場の真似事はできない」
久世はゆっくりと顔を上げ、レイを見つめた。その瞳は相変わらず死者のように冷え切っている。
「箱入り、ですか。彼女を連れてくれば、わかることでしょう。……そろそろ、連れてきてくれませんか? こちらとしても、手荒な手段は使いたくないのですが」
久世の言葉は丁寧だが、それは拒絶を許さない「処刑宣告」と同義だった。
「それとも。……彼女に、情でも湧きましたか?」
「ありえない」
即座に吐き捨てた言葉が、自分の喉を焼く。久世はそれ以上追求することなく、再び書類へと視線を戻した。
「まあ、どちらでもいいです。時間の問題ですしね」
部屋を出たレイは、壁に拳を叩きつけたい衝動をかろうじて抑え込んだ。
これ以上、九尾の動きを止めることは難しい。久世がその気になれば、すぐにでもカナメが、椿の平穏な日常を文字通り根こそぎ奪いに行くだろう。
(……あいつら、余計なことしやがって)
ハルと椿の顔が浮かぶ。自分たちがどれほど危険な事をしているのか、わからないはずがない。
もう、隠し通す段階は終わった。
いっそ椿にすべてを話し、自分の目の届く場所で守る方がマシだ。
だが、最大の問題は、当の椿の態度だった。
あの放課後以来、椿は今さらレイを避け始めた。目が合えば逃げ出し、昼休みすら姿を見せない。
「……本当に、あいつは言うことを聞かないな」
掴み損ねた椿の手首の熱が、今も掌に残っている。
組織の牙が彼女の喉元に迫っているというのに、当の本人は得体の知れない「熱」に浮かされている。
レイは苛立ちと共に、激しく掌を握りしめた。




