桜狂い
「椿ちゃん。……そろそろ覚悟は決まった?」
ノアの声は穏やかな形をしているのに、目だけが笑っていなかった。
椿は喉の奥で、詰まった息をそっと吐き出した。
「……ノアの言いたいことはわかってる。でも……ノアが余計なこと言うから」
ノアの回帰を知った後、椿は“前の自分が何をしたのか”を聞かされた。
けれど、その内の1つがあまりにも突飛で――今の椿の胸の奥に、深く、鋭い釘のように残って離れない。
『黒川君と椿ちゃんは、たぶん“そういう関係”だったよ。……普通に、キスとかしてたし』
淡々と告げたノアのその言葉が頭から離れず、それ以来、レイの顔が見られなくなった。ぶっきらぼうな物言いも、時折見せる危うい優しさも、すべてが「特別な意味」を持って椿を襲う。
思い出すだけで、指先が微かに震え、頬が焼けるように熱くなる。
「……ごめんね、椿ちゃん。そこまで動揺すると思わなくて。前の椿ちゃんは、こういう話、顔色ひとつ変えなかったから」
「……それ、本当に私だった?」
椿は細めた瞳でノアを見つめると、彼女は困ったように眉を下げ、視線を泳がせた。
「今回もそうしてって言ってるんじゃない。黒川君が“椿ちゃんの弱点”に見えれば、やり方は何でもいいから。
でも急いで。六月には九尾が動く」
「……わ、わかった」
そう返事をしたものの、今まで灯を武器に真っ直ぐ突っ込むことしかしてこなかった椿には、これほど難解な問題はなかった。
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ノアが去った後、椿は教室の冷たい壁に背を預けた。
窓の外では、春の陽光に透けた桜が、風に煽られて狂おしく揺れている。世界はこんなに穏やかなのに、自分の内側だけが、嵐の後のようにかき乱されていた。
(そういう関係……。私と、レイが?)
一度意識してしまえば、もう「前と同じ」には戻れない。
もしノアの言うことが本当なら、前の自分は今の自分が持て余しているこの「熱」を、とうに受け入れていたということだろうか。それとも、あのぶっきらぼうなレイが、自分をそんな風に……。
「……っ、無理。考えられない」
両手で顔を覆う。掌に伝わる体温は、明らかに平熱を越えていた。
だが、時間は止まってはくれない。
六月。九尾が動き出す時。
それまでにレイを「自分の弱点」として九尾に認識させ、なおかつ正面から潜入しなければならない。
椿はゆっくりと、顔を上げた。
まだ、視線を合わせる自信はない。けれど、ノアが語った「地獄」を回避するためには、レイに全てを話して協力を得るか。
もしくは——彼にさえ何も悟らせぬまま、『恋人のフリ』という嘘で、その目を覆い隠してしまうか。




