熱に触れる
昼休み、いつもなら当然のようにやってくるはずの気配がなかった。
ただそれだけのことで、資料室の空気はひどく重く、無機質なものに感じられた。あの日、屋上で水瀬ノアと話して以来、椿は明らかに変わってしまった。
――放課後。
オレンジ色の夕陽が斜めに差し込み、長い影を床に落とす教室。椿は机に視線を落としたまま、ほとんど動かなかった。
誰もいない静寂の中、レイは椿の向かいに座り、机越しに視線を合わせた。
「椿、なにかあったのか?」
真っ直ぐに目線を合わせると、椿はビクッと大袈裟なほどに肩を揺らした。
「……え? あ、レイ……」
一瞬だけレイの瞳を射抜いた視線は、すぐに泳ぎ、拠り所を失ったように足元へと逸らされた。
「なんでこっち見ないんだよ。……また隠し事か?」
「そ……そういうのじゃなくて。ただ、ちょっと考えごとを……」
「お前、最近嘘つくの下手になったよな」
レイは吐き出すようにため息をつく。
今椿を支配している沈黙は、これまでの「秘密」とは明らかに色が違ってみえた。
「椿。あの日、水瀬と何を話した?」
椿は迷うように視線を彷徨わせた後、ようやく顔を上げた。
覚悟を決めたような、どこか痛々しいほどに澄んだ瞳。
「レイ。私たち……」
けれど、椿の瞳がレイを捉えた瞬間、その奥に困惑とも焦燥ともつかない激しい揺らぎが走った。
ガタッ、と大きく椅子が鳴る。椿は弾かれたように立ち上がり、一歩、後ずさった。
「おい。逃げるなって」
咄嗟に手を伸ばし、細い手首を掴む。
このまま手を離したら、取り返しがつかない気がした。
「ご、ごめん。今は……」
振り払おうとする力は弱かった。
見上げた椿の顔は、夕陽に赤く染まっていた。
斜めに差し込む光が、頬も目元も熱っぽく見せる――ただ、それだけのはずなのに。
その「熱」に当てられ、レイの掌の力が一瞬だけ緩んだ。
その僅かな隙を、椿は見逃さなかった。
「――っ」
椿はレイの手をすり抜け、逃げるように教室を飛び出していった。
廊下を駆けていく、焦燥の入り混じった足音。
ひとり残された教室で、レイは自分の掌を見つめた。
手首を掴んだ瞬間に伝わってきた、椿の早すぎる鼓動が、今も指先に残っている。
(……何なんだよ、一体)
水瀬ノアが何を吹き込んだのかは知らない。
だが、椿が自分を見る目が、決定的に変わってしまったことだけは痛いほどにわかった。




