殻渡りの人喰(2)
川沿いの道に、変な静けさが落ちていた。
夕方の風は冷たくないのに、皮膚の上だけが薄く粟立つ。ハルは自転車を押しながら、鼻の奥に残る焦げた匂いを辿っていた。
最初に気づいたのは、足音だった。
一定の速さで、同じ幅で、同じ角度で。
急いでもいないのに止まれもしない、妙な歩き方。
橋の下、コンクリートの影。
そこに、男が立っていた。
スーツの袖が片方だけ破れている。手の甲には擦り傷。けれど痛がる様子がない。視線は宙を見ていて、瞬きだけが遅い。
「……すみません」
声をかけても、男は反応しない。
それなのに、口だけが少し動いて、何か言いかける。喉が鳴る。音にならない。
ハルは息を吸って、吐いた。
見たくないものほど、目に入ってしまう。
男の背中に、薄い影が残っていた。
煙じゃない。濡れた布を床に引きずった跡のような、黒の“擦れ”。まだ温度がある。さっきまで何かがそこに乗っていた。
――殻。
言葉が、頭の底から浮かぶ。
人が抜けたあとに残る、形だけの動く器。ふらつきながらも、まだ立ってしまう。
「……聞いたことがある」
殻を作る怪異。
宿主を捨て、次へ渡る。渡った数だけ空っぽの殻が増える。
「人喰……なのか?」
小さく呟くと、喉がからりと鳴った。
確かめないといけない。見間違いならそれでいい。違うなら――時間がない。
ハルは男に近づかず、近くの交番に通報だけして、その場を離れた。
自転車を押しながら、足裏に残る違和感を振り払うように、ペダルを踏み込む。
戻る道の途中、灯郷に関わりのある神社が視界に入った。
古い石段。鳥居。境内の端に、誰も寄らない外れ道。
“灯郷の封”の話は、この町じゃ昔話みたいに残っている。
子どもの頃、怖がらせるために聞かされた。悪いものは祠に閉じ込めた、と。
でも、さっき見た影の“擦れ”は、ただの怪談の匂いじゃない。
ハルは店へ帰ると、祖父母に「少し裏の倉庫見てくる」とだけ言って、店の奥へ入った。
祖父の「気ぃつけるんだぞ」という声が、いつもより遅れて聞こえた気がした。
倉庫の一番上。
埃をかぶった木箱に、古い帳面が束になって入っている。駄菓子屋は古い。祖父がつけてきた仕入れ帳とは別に、先代からの“残りもの”も多い。
紙の匂い。墨の匂い。
ハルは一冊ずつ開いて、必要なものだけ拾う。
封印について。人喰について。殻について。
書かれていたのは、奇妙に“冷たい”事実だった。
――人喰は殻渡りで増える。
――封印は、完全に消すものではなく、弱体化させて隔離する型。
消えない。だから封じる。
その割り切りが、灯郷のやり方なのだと分かった。
ページをめくる指が、途中で止まった。
祠の位置を示すような、雑な図。神社の外れ、小さな祠。そこに“隔離”の印。
ハルは本を閉じた。
「……行くしかない」
外に出ると、空がもう暗くなりかけていた。
店を出る前、祖母が「遅くなるなら言いなさい」と言った。
ハルは「すぐ戻る」と笑って、嘘をついた。自分の声が少し乾いて聞こえた。
神社の外れ道は、人の通らない草の匂いがする。
土の湿り気。古い木の皮。
足元の小石が鳴る音だけが、やけに大きい。
祠はあった。
小さい。傾いていて、扉の木が少し浮いている。
近づいた瞬間、空気の温度が一段落ちた。春のはずなのに、そこだけ薄い氷を噛んだみたいに冷える。
封札の下、祠の隙間に髪の毛ほどの亀裂が走っていた。
そこから、黒い影が滲み出ている。
煙みたいに薄いのに、やけに重い。
地面に落ちるでも、空に散るでもなく、亀裂の縁からじわりと外へ広がって――次の瞬間、すっと形を変えた。
滲みが、一本にまとまる。
細い黒が糸みたいに伸びて、祠の外へ流れていく。
風に揺れるわけじゃない。水が低い方へ落ちていくみたいに、迷いなく、一定の速さで。
その先は暗くて見えない。
けれど、それがどこかへ戻っているのだけは分かった。あれが戻るほど、人喰の力も増すのだろう。
亀裂を塞がないといけない。
ハルは鞄の内ポケットから、薄い紙束を取り出した。
駄菓子屋の倉庫で見つけた古い本――そこに挟まっていた札の型を、何度か真似して作っておいたものだ。
祖母は昔から「変なのに触るときは、これ持っときな」とだけ言って、同じような札を引き出しにしまっていた。
意味は聞かない。聞けば、店の“普通”が崩れそうで。
紙束の一枚に指を滑らせる。
墨の線は雑でも、形だけは守ってある。
継ぎ札。
“裂け目を縫い直す”ための札。
ハルは封札の上から、亀裂の位置に合わせて継ぎ札を重ねた。
ぺたり、と貼った瞬間。
滲みが嫌がるみたいに、いちど膨らんだ。
同時にハルの胸にも激しい痛みが走る。
黒い影が、木目を這って外へ逃げようとする。
ハルは逃がさない。
誰かを失う夜は、もう繰り返さない。
もう一枚。もう一枚。
縫い目を跨ぐように、細く、重ねていく。縫い糸を通すように。
お札を1枚貼る毎に身体が重みを持つ。
灯郷の先祖でも浄化できずに封印するしかなかった程の怪異、人喰。
ハルにそれを再び封印する力はない。
時間稼ぎのお札を貼るだけで、肺の奥が握りつぶされるように苦しい。
目の端が暗くなる。指先が氷みたいに冷えて、関節が痺れる。
影が蠢く音はしない。音がないのに、耳の奥で何かが擦れるような錯覚がする。
最後の一枚を貼り終えたところで、ハルは息を止めた。
胸が潰れる。
それでも、視線を逸らさない。
街に向かって流れる滲みが、確かに止まる瞬間を見届けなければならなかった。
黒い影は亀裂へ吸い込まれかけて――そこで、止まった。
縫い目の周りに薄く溜まって、じたばたと小さく震える。
逃げ場を失った影が、ようやく静かになる。
ハルは息を吐いた。吐いた途端、膝が笑った。
……この、髪の毛ほどの小さな亀裂を塞ぐだけで、これだ。
喉の奥に鉄の味が広がる。視界が揺れる。
止められる時間は長くない。もしかすると数分。よくても一時間程度かもしれない。
でも、自分には倒す力がない。
特別な能力もない。ここでできるのは、増強を止めることだけ。
人頼みだ。情けないほど。
それでも、この僅かな時間が――誰かの役に立つなら。
そう思った瞬間、足元の地面が遠のいた。
耳の奥で、川の音が一度だけ大きくなって、
次の瞬間、世界が暗く落ちた。




