表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/44

殻渡りの人喰(2)


川沿いの道に、変な静けさが落ちていた。


夕方の風は冷たくないのに、皮膚の上だけが薄く粟立つ。ハルは自転車を押しながら、鼻の奥に残る焦げた匂いを辿っていた。


最初に気づいたのは、足音だった。


一定の速さで、同じ幅で、同じ角度で。

急いでもいないのに止まれもしない、妙な歩き方。


橋の下、コンクリートの影。

そこに、男が立っていた。


スーツの袖が片方だけ破れている。手の甲には擦り傷。けれど痛がる様子がない。視線は宙を見ていて、瞬きだけが遅い。


「……すみません」


声をかけても、男は反応しない。

それなのに、口だけが少し動いて、何か言いかける。喉が鳴る。音にならない。


ハルは息を吸って、吐いた。

見たくないものほど、目に入ってしまう。


男の背中に、薄い影が残っていた。

煙じゃない。濡れた布を床に引きずった跡のような、黒の“擦れ”。まだ温度がある。さっきまで何かがそこに乗っていた。


――殻。


言葉が、頭の底から浮かぶ。

人が抜けたあとに残る、形だけの動く器。ふらつきながらも、まだ立ってしまう。


「……聞いたことがある」


殻を作る怪異。

宿主を捨て、次へ渡る。渡った数だけ空っぽの殻が増える。


「人喰……なのか?」


小さく呟くと、喉がからりと鳴った。

確かめないといけない。見間違いならそれでいい。違うなら――時間がない。


ハルは男に近づかず、近くの交番に通報だけして、その場を離れた。

自転車を押しながら、足裏に残る違和感を振り払うように、ペダルを踏み込む。


戻る道の途中、灯郷に関わりのある神社が視界に入った。

古い石段。鳥居。境内の端に、誰も寄らない外れ道。


“灯郷の封”の話は、この町じゃ昔話みたいに残っている。

子どもの頃、怖がらせるために聞かされた。悪いものは祠に閉じ込めた、と。


でも、さっき見た影の“擦れ”は、ただの怪談の匂いじゃない。


ハルは店へ帰ると、祖父母に「少し裏の倉庫見てくる」とだけ言って、店の奥へ入った。

祖父の「気ぃつけるんだぞ」という声が、いつもより遅れて聞こえた気がした。


倉庫の一番上。

埃をかぶった木箱に、古い帳面が束になって入っている。駄菓子屋は古い。祖父がつけてきた仕入れ帳とは別に、先代からの“残りもの”も多い。


紙の匂い。墨の匂い。

ハルは一冊ずつ開いて、必要なものだけ拾う。


封印について。人喰について。殻について。


書かれていたのは、奇妙に“冷たい”事実だった。


――人喰は殻渡りで増える。

――封印は、完全に消すものではなく、弱体化させて隔離する型。


消えない。だから封じる。

その割り切りが、灯郷のやり方なのだと分かった。


ページをめくる指が、途中で止まった。

祠の位置を示すような、雑な図。神社の外れ、小さな祠。そこに“隔離”の印。


ハルは本を閉じた。


「……行くしかない」


外に出ると、空がもう暗くなりかけていた。

店を出る前、祖母が「遅くなるなら言いなさい」と言った。

ハルは「すぐ戻る」と笑って、嘘をついた。自分の声が少し乾いて聞こえた。


神社の外れ道は、人の通らない草の匂いがする。

土の湿り気。古い木の皮。

足元の小石が鳴る音だけが、やけに大きい。


祠はあった。

小さい。傾いていて、扉の木が少し浮いている。


近づいた瞬間、空気の温度が一段落ちた。春のはずなのに、そこだけ薄い氷を噛んだみたいに冷える。


封札の下、祠の隙間に髪の毛ほどの亀裂が走っていた。

そこから、黒い影が滲み出ている。


煙みたいに薄いのに、やけに重い。

地面に落ちるでも、空に散るでもなく、亀裂の縁からじわりと外へ広がって――次の瞬間、すっと形を変えた。


滲みが、一本にまとまる。


細い黒が糸みたいに伸びて、祠の外へ流れていく。

風に揺れるわけじゃない。水が低い方へ落ちていくみたいに、迷いなく、一定の速さで。


その先は暗くて見えない。

けれど、それがどこかへ戻っているのだけは分かった。あれが戻るほど、人喰の力も増すのだろう。


亀裂を塞がないといけない。


ハルは鞄の内ポケットから、薄い紙束を取り出した。

駄菓子屋の倉庫で見つけた古い本――そこに挟まっていた札の型を、何度か真似して作っておいたものだ。


祖母は昔から「変なのに触るときは、これ持っときな」とだけ言って、同じような札を引き出しにしまっていた。

意味は聞かない。聞けば、店の“普通”が崩れそうで。


紙束の一枚に指を滑らせる。

墨の線は雑でも、形だけは守ってある。


継ぎ札。

“裂け目を縫い直す”ための札。


ハルは封札の上から、亀裂の位置に合わせて継ぎ札を重ねた。


ぺたり、と貼った瞬間。


滲みが嫌がるみたいに、いちど膨らんだ。

同時にハルの胸にも激しい痛みが走る。


黒い影が、木目を這って外へ逃げようとする。


ハルは逃がさない。

誰かを失う夜は、もう繰り返さない。


もう一枚。もう一枚。

縫い目を跨ぐように、細く、重ねていく。縫い糸を通すように。


お札を1枚貼る毎に身体が重みを持つ。


灯郷の先祖でも浄化できずに封印するしかなかった程の怪異、人喰。


ハルにそれを再び封印する力はない。

時間稼ぎのお札を貼るだけで、肺の奥が握りつぶされるように苦しい。


目の端が暗くなる。指先が氷みたいに冷えて、関節が痺れる。


影が蠢く音はしない。音がないのに、耳の奥で何かが擦れるような錯覚がする。


最後の一枚を貼り終えたところで、ハルは息を止めた。


胸が潰れる。


それでも、視線を逸らさない。


街に向かって流れる滲みが、確かに止まる瞬間を見届けなければならなかった。


黒い影は亀裂へ吸い込まれかけて――そこで、止まった。

縫い目の周りに薄く溜まって、じたばたと小さく震える。

逃げ場を失った影が、ようやく静かになる。


ハルは息を吐いた。吐いた途端、膝が笑った。


……この、髪の毛ほどの小さな亀裂を塞ぐだけで、これだ。


喉の奥に鉄の味が広がる。視界が揺れる。

止められる時間は長くない。もしかすると数分。よくても一時間程度かもしれない。


でも、自分には倒す力がない。

特別な能力もない。ここでできるのは、増強を止めることだけ。


人頼みだ。情けないほど。


それでも、この僅かな時間が――誰かの役に立つなら。


そう思った瞬間、足元の地面が遠のいた。


耳の奥で、川の音が一度だけ大きくなって、

次の瞬間、世界が暗く落ちた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ