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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
四章. ノアの方舟

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ノアの覚醒


ノアには、いつもの穏やかさが微塵もなかった。

ひどく浅い呼吸。焦点の定まらない瞳。差し出した椿の手を認識しているのかさえ怪しいほど、彼女は激しく震えている。


椿は努めて声を低く、静かに語りかけた。

だが、ノアは安らぐどころか、まるで信じていた者に突き放されたかのような、悲痛な表情で椿を見つめる。


「……どうして?」


その一言が、静かな屋上に不自然に響いた。


「……え?」


「いつもなら、すぐわかってくれるのに……。どうして、そんな顔をしてるの?」


言葉の意図が、どうしても掴めない。

ノアの瞳に溜まった涙が、今にも溢れ出しそうだった。椿の胸の奥で、正体の知れないざらついた違和感が広がる。


「ノア。まずは話してくれないと、伝わらないでしょ。……何があったの?」


ノアが、震える声で話し始める。

その内容は、あまりに非現実的で、椿の理解を静かに拒絶していた。


「私、戻ってきたの。この一年を……ずっと繰り返してる」


「……どういうこと? 繰り返す、って……時間を?」


そんなことがあり得るのだろうか。

あまりに荒唐無稽な告白。だが、ノアは必死に、縋り付くように椿の袖を握りしめた。


「椿ちゃんが教えてくれたんだよ。私の中に残った怪異……『刻澱こくおり』が、時間を巻き戻してるって。そう、教えてくれたじゃない……っ」


「……私が?」


記憶にない自分の言葉。ノアの言葉には、妄執とも呼べるほどの切実さが宿っていた。


「刻澱って……あの時、図書室に出た怪異……だよね。あの日、私が確実に消し去ったはずだけど」


「怪異が消えても、禍級(かきゅう)以上のものなら、澱みとして残ることがあるって……。椿ちゃんが、そう言ったの……!」


椿は沈黙し、思考を巡らせる。

リンのような例外を知っている以上、ありえない話ではない。けれど、今のノアからは、忌まわしい怪異の気配など、これっぽっちも感じられなかった。


「……なんで、信じてくれないの?」


捨てられた子供のような、掠れた声。

椿は言葉に詰まり、せめてもの安らぎを与えるように、ノアを抱き寄せた。背中に回した手に力を込める。


「……信じるから、まずは落ち着いて」


「嘘だ! 椿ちゃん、全然信じてない……!」


ノアが、悲鳴のような声を上げて椿を突き放した。

突き飛ばされた椿の胸に、ノアの絶望が冷たく突き刺さる。


「九尾を潰す作戦は、失敗するの。……お願い、私の話を聞いて。全部、見てきたの!」


「――っ。なんで、その作戦を?」


椿の瞳から温度が消え、鋭い眼光がノアを射抜いた。

その作戦はノアが知るはずのない情報だ。

だが、今のノアは、その威圧感に怯むことさえなかった。


「このままじゃ、また同じことが起きる。また……皆いなくなっちゃう……!」


ノアが嘘をついているようには見えなかった。

喉の奥で鳴る、悲鳴に近い震え。

けれど、椿の直感は、冷徹に「根拠」を求めてしまう。


「椿ちゃん、私に……『刻澱』の気配があるよね? 視えるんでしょ?」


願うような、救いを求めるようなノアの問い。

椿は、ノアの瞳を覗き込む。

けれど――。


「……気配なんて、どこにもないよ。ノア」


ノアの息が、ぴたりと止まった。

その顔から、急速に血の気が引いていく。


「……え? なん……で? 視えるはずだよ、椿ちゃんなら。今まではずっと……っ」


「今まで?……それも、私が言ったの?」


「……椿ちゃんは、いつもそう言ってた。だから、一人にしないって、言ってくれたのに……!」


その言葉が、ノアの喉から絞り出されるように震えていた。


「……私も怪異の能力については、よくわからないけど。今まで使えてたのなら……ノアがその能力を失った、とか?」


ノアの瞳から、急速に光が失われていく。

その顔に広がったのは、世界にたった一人取り残されたような、果てしない虚無だった。


「……ねぇ、椿ちゃん」


ノアが、幽霊でも見るような虚ろな目で椿の背後――先ほどまでレイが立っていた場所を見つめた。


「……このままだと、黒川君も死ぬの」


「……っ!」


「今すぐ信じて、なんて言わないから……でも、それだけは覚えておいて。」


ノアはそれだけ言い残すと、ふらつく足取りで鉄扉へと向かった。

引き留める言葉を、椿は持ち合わせていなかった。


一人残された屋上に、春の風が吹き抜ける。

満開の桜の香りが、今はひどく、血の匂いのように鼻をついた。


(レイが、死ぬ……?)


ありえない。そんなことは、私が絶対にさせない。

けれど、先ほどのノアの瞳――あれほどの絶望を、偽物だと言い切れるほど、椿は強くはなかった。


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