春霞の彼方
三月の柔らかな陽光が、埃の舞う資料室を白く照らしている。
レイは窓際の机に伏せ、微睡の中で昨夜の雨音を思い出していた。
ハルの言葉が、鼓膜にこびりついて離れない。
『お前がどれだけ遠ざけても、椿は止まらない。……このまま、あいつを一人で戦わせる気か?』
教室に行く気にはなれなかった。椿にすべてを話したところで、彼女を「九尾」の血なまぐさい連鎖に巻き込むだけだ。けれど、遠ざければ彼女はより深く、自分の知らない暗闇へ潜っていく。
微かな足音が聞こえ、資料室の重い扉が開く。
気配だけで、それが誰か分かった。
レイは顔を上げる勇気が持てず、寝たふりをして固まる。
隣の椅子が引かれ、椿が机に伏せるような微かな音がした。
薄く目を開けると、すぐそこに、椿の瞳があった。同じ高さで視線が絡み、逃げ場を失う。
「おはよ。今日、休みかと思った」
椿の声は、昨夜の雨の中とは違って、いつものように穏やかだった。
その穏やかさが、レイの胸を余計に抉った。レイは何も言わず、彼女の頬に走る赤い傷跡を凝視した。
「……これ、治るのか?」
「別に治らなくてもいいよ。それに、そんなに深くもないし」
椿は事もなげに、他人事のように言う。その無頓着さが、彼女が一人でくぐり抜けてきた修羅場を物語っているようで、胸が締め付けられた。
「……今までずっと、お前がやってたんだな」
レイの低い問いに、椿の眉が微かに揺れる。
夜な夜な現れる怪異を、人知れず消していた存在。レイがずっと追い、案じていたその「影」の正体。
「違う……って言っても、もう信じないよね?」
「無理だな」
椿は困ったように、控えめに笑った。その微笑みが、レイには残酷なほどの絶別に見えた。彼女はもう、レイに守られるだけの少女ではない。
「……また、私を避ける?」
椿の問いは、逃げようのない真っ直ぐな矢となってレイの心臓を貫く。答えはまだ出ない。けれど、もう昨日までのように彼女を突き放すことだけはできなかった。
「……避けはしない。でも、昨日みたいな危ない真似は、もうやめろ」
「私には『灯』もあるし、だいぶ強くなったよ? レイを助けられるくらいには」
「怪我、してるだろ」
言葉を遮るように、レイは椿の頬の傷に触れた。
指先に伝わる体温と、皮膚の硬い感触。
あの日、託して消えたはずの彼女を、結局自分のせいで傷つけてしまった。
「それに……」
「それに?」
言いかけて、レイは口を閉ざした。
(いつの間に、ハルと……)
かつて自分がハルに「椿を頼む」と託したはずなのに、いざ二人の間に自分だけの入り込めない空気があることを知ると、言葉にできない焦燥が込み上げる。
「……なんでもない」
「なにそれ」
椿は小さく笑い、視線を窓の外へと移した。少し開いた窓から春の予感を含んだ生ぬるい風が入り込み、彼女の髪を揺らす。
「もうすぐ春休みだね。……またしばらく、レイに会えない?」
「……会えないな」
レイは自分に言い聞かせるように言った。
これ以上彼女に近づけば、自分も、彼女も、すべてを壊してしまう。
椿は寂しげな色を見せなかった。
ただ、遠くを見つめるその瞳の中に、レイの知らない深い決意が宿っていることだけを、彼は痛烈に感じていた。




