境界線の夜
路地裏のネオンが水たまりに滲み、赤と青がぬるく揺れている。
椿は息を整える間もなく顔を上げた。
曲がり角の向こう、こちらへ向かってくる足音。一定で、迷いがない。
影が街灯を横切った瞬間、椿は確信する。
(レイだ)
椿の心臓が跳ね、ハルの手首を縋るような強さで掴んだ。
「ハル!こっち」
雑居ビルの狭い隙間へ、逃げ込むように飛び込む。
背後のコンクリート壁は、雨を吸って氷のように冷たかった。
「……椿。何を……」
至近距離で重なるハルの視線に、椿の肩がびくっと揺れる。けれど、視線はすぐにハルの背後――路地の入口へ跳ねる。
「……レイがいる。早く、隠れて」
もし見つかれば、レイはまた一人で離れていくだろう。
(そうなれば、また振り出しに戻る)
椿は思考を焼き切るようにして、ハルの胸元へ額を深く押し当てた。
ハルは短く息を呑んで一瞬だけ固まったが、すぐに諦めたように腕を回し、椿の顔を自分の体で覆い隠す。
耳に届くのは、雨音と、ハルの鼓動。そして、すぐ外を通り過ぎるレイの足音。
永遠にも思える沈黙の後、椿は震える呼吸を漏らして顔を上げた。
「……もう、行った?」
「……たぶん――」
ハルが答えようとした瞬間、頭上からその声が降りてきた。
「……こんな時間に、こんな所で。何をしてる?」
椿の背筋に、氷水を流し込まれたような衝撃が走った。
路地の入り口に、レイが立っていた。九尾の装束は雨に濡れて黒く沈み、その瞳だけが刃物のように鋭く二人を射抜いている。
「……離れろ。今すぐ」
短く、刺すような声に、足が1歩引く。
「……レイには、関係ないでしょ」
椿は逃げ場がないことを悟り、ハルの手を引きながら、レイの横を通り過ぎようとした。
だが、一歩目でその目論見は砕かれる。
レイの手が椿の手首を掴み、強引に引き戻した。
椿がバランスを崩してよろめいた瞬間、反射的に彼女を支えたレイの手がぴたりと止まる。
レイの視線が、一点を見つめている。
白い頬に走る、細い赤い線。雨に滲んでも消えない、隠しようのない戦いの痕。
レイは空いた指先でその傷をそっとなぞった。指に、紅い血がつく。
「……痛いか?」
その声が、あまりにも優しかった。椿がずっと守りたかった、あの日のままのレイの声。
その温度に触れた瞬間、椿の瞳に熱いものが込み上げる。
「……ううん。痛くない」
レイの視線が、ハルへと突き刺さる。
「……お前がそばにいて、なんで椿が怪我をしている」
レイの瞳が、一瞬だけ揺れた。次の瞬間、怒りが刃のように鋭くなった。
「ハル。まさかお前、椿に協力してないだろうな」
「違う!私が、ハルを無理やり——」
「お前の方こそ、まだわからないのか?」
ハルが静かに、けれど明確な拒絶を込めて言い返す。
「お前がどれだけ遠ざけても、椿は止まらない。こいつを一人で戦わせる気か?」
「…ハル!」
椿はハルを目だけで制止した。これ以上、自分たちの「作戦」の深淵に触れさせるわけにはいかない。
空気が音を立てて割れそうになる中、椿は自分を掴むレイの手を、ゆっくりと、けれど確実にほどいた。
「……レイ」
真っ直ぐにレイを見上げ、最後の一線を引く。
「明日、学校で話すから。……お願い、今日は帰らせて」
レイは何も言わなかった。
「帰るよ、ハル」
椿は走り出す。ハルが半拍遅れて、彼女を追う。
背後で、レイの足音は増えなかった。追ってくる気配もない。
冷たい雨の中、ネオンの滲みだけが、戻れない道の上に長く尾を引いていた。




