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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
三章. 梓鳳学園

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鋼の織姫


三月の雨は、街の熱を奪うには十分すぎるほど冷たかった。


九尾を潰すための計画は動かない。だから椿は夜ごと、レイの通り道に現れる怪異だけを先に消して回った。

その間にも、レイの傷は増える。――それだけが椿を焦らせた。


「……おかしい。さっきから同じ角を曲がってる」


ハルが足を止めた。

深夜の歓楽街。濡れたアスファルトに滲むネオンは、極彩色の泥水のように路地裏を埋めている。

大通りへ抜けるはずの道は、いつの間にか逃げ場のない袋小路のように、その壁を狭めていた。


雨音の隙間から、ピアノ線を弾いたような高い音が「ピン」と響く。


「ハル、あれ」


街灯の下に、影があった。

艶やかな黒髪。肩をはだけた朱の着物。現代の景色に浮き上がるほど整った輪郭は、美しさを通り越して不気味だった。

あまりに完璧すぎる「形」は、ひと目でそれが人ではないと告げている。


「……鋼の織姫」


女が、喉の奥でくすりと笑った。

音が、ワンテンポ遅れて届く。空気ではなく、何か「糸」のようなものを伝って響いているのだ。


「椿、止まれ。糸が張られてる」


ハルが手近な空き缶を路地へと放った。

カラン、と乾いた音が鳴るよりも早く、空き缶は空中で鮮やかに四分五裂し、鋭い切り口を光らせて地面に転がった。


「……見えない」


「ああ。壁から壁へ、鋼鉄より硬い極細の糸が密に張り巡らされてる。一歩でも踏み込めば――」


椿は最後まで聞かず、白銀の狐を女の喉元へ放つ。

禍級のはずの怪異は、狐に噛みちぎられると悲鳴すら上げる間もなく糸の束へと解け、霧のように霧散する。


あまりの空虚さに、椿は眉を寄せた。


「……手応えがない」


「待て、椿! 動くな!」


ハルの鋭い制止が飛ぶ。

足元へ視線を落とした瞬間、椿の背筋に冷たいものが走った。路地に張り巡らされた糸が、一本も消えていない。


それどころか、夜風に揺れた一筋が隣のビルの室外機に触れた瞬間――。それは熱したナイフでバターを切るように、音もなく両断され、遅れて激しい火花を散らした。


「……消えて、ない」


「さっきのは器だ。糸で編んだだけの抜け殻。――本体は別にいる」


笑い声が、路地の壁面から、地面から、重なり合うように響いた。


(ここで足止めを食らっている場合じゃないのに……!)


その時、影からふらふらと数人の男たちが現れた。

首と手首に、細く赤い糸が食い込み、皮膚が裂けて血が滲んでいる。焦点の合わない瞳と、軍隊のように揃った不気味な足取り。


「っ、一般人……!」


傀儡くぐつだ……糸で操られてる。椿、殺すなよ!」


「分かってる……!」


椿は出力を落とした灯をまとい、傀儡の腕を弾き、肩をいなす。傷つけないよう、最小限の力で転がす。


殺さないための手加減。それが致命的な遅れを生む。

鋼の糸が空を跳ね、椿の頬を細い線が掠める。

熱い。一拍置いて、鮮血が雨に混じって流れ落ちた。


「……っ」


椿は目を細めた。

この程度の「足止め」を許してしまった自分自身への、猛烈な苛立ち。


「邪魔しないで……!」


焼き払いたい衝動が喉までせり上がる。


「椿、左上! 避けろ!」


ハルの叫びに合わせ、首を傾けて回避した。

数本の髪が音もなく切れ、背後の鉄パイプが切断されて火花が路地を照らす。


「……ハル、見えない!」


「見なくていい。――光の歪みを見ろ!」


ハルが頭上のネオンを指差す。


「ネオンの光が、そこだけ不自然に屈折してる。……三階だ。あの古い看板の裏!」


椿が視線を跳ね上げる。

雨を撥ね退けるほどに濃い影。そこだけが、夜の闇よりも深い。


その瞬間。


――ギギッ、と。

金属が悲鳴を上げるような軋み音が、空間の奥底から響いた。


看板の影から、鋼鉄の質感を備えた禍々しく長い「脚」が、獲物を定めるようにゆっくりと突き出した。


脚は、一本ではなかった。

ギチギチと音を立てて看板を握り潰し、こちらを見下ろす“本物”の気配。


背中から生えた節だらけの鋼鉄の脚が八本、雨を切り裂いて蠢く。耳元まで裂けた口から覗く鋭い牙が、次の獲物を定めていた。


「あの蜘蛛が、本体……」


椿が踏み出そうとした瞬間、赤い糸に操られた傀儡たちが肉の壁となって立ち塞がる。最短距離は、無数の死線と人の壁によって封鎖されていた。


「ハル!」


椿が合図を送ると、彼女の傍らにいた白狐が滑るように移動し、ハルの元へ向かった。


ハルに狐の主導権を委ね、椿が「刃」に専念する。

これが、ここ数ヶ月の死闘で磨き上げた二人の型だ。


ハルが狐を宙へ放つ。

白狐は雨粒の間を縫うように走り、ハルの指示に従って目に見えない糸へ触れては火花を散らした。不可視の死線が、一瞬だけ青白く露わになる。


「右前方に五本! 」


ハルの叫びに応じ、狐が椿を先回りして糸へ噛みつく。

バチン、バチンと弾ける音。鋼鉄以上の強度を誇った糸が、灯に溶けて崩れ落ちた。


椿の進路が開かれる。


「椿、止まるな! 右から脚が来る、跳べ!」


「……分かった!」


椿は視界を埋める障害物を見ない。ハルの言葉だけを信じ、最短距離を突っ走る。


背後から迫る鋼の脚を紙一重でかわし、宙を舞う。白狐が撒き散らす残り火が傀儡たちの視覚を焼き、その動きを一瞬だけ停滞させた。


「今だ!椿、叩き込め!」


椿は灯を一点に凝縮した。

白狐が弾丸のように走り、糸の檻を突き破り、鋼の蜘蛛を真正面から貫いた。


凄まじい衝撃に看板が砕け、蜘蛛の巨体がアスファルトへと叩きつけられる。


落下した蜘蛛は、尚も醜い牙を剥いて椿へと這い寄ろうとした。


「……しつこい」


椿は踏み込み、掌を頭部へ沈めた。

凝縮した灯が内側から爆ぜる。


鋼の脚が折れ、糸の束がほどけ、認識を歪めていた結界が――一瞬の閃光とともに灰へと変わった。


路地裏が静まる。

再び支配権を取り戻した雨音だけが、コンクリートを叩いている。


役目を終えた白狐が、光の粒となって椿へと溶けていった。


「大丈夫か、椿。血が出てる」


「……平気。むしろ、これだけで済んでよかった」


強がりの混じった微かな声で椿は答え、震える足を押さえつけ、立ち上がろうとした。だが、灯を使い続けた身体は限界を迎え、ガクッと膝が折れて地面に手をつく。


呼吸は荒く、頬の傷から流れる血が、雨に混じって足元に淡く滲んでいく。


「……早く帰らないと。九尾に見つかる」


「……立てるか?」


椿は差し出された手を握り、縋るようにして立ち上がる。


ハルは何かを言いかけて――結局、その言葉を飲み込んで視線を逸らした。


ここで止めれば、椿が一人で危険に立ち向かうことを、彼は誰よりも理解していた。


雨はどこまでも冷たい。

ふと、静かな、けれど迷いのない足音が、この路地裏に向かって近づいてくるのが聞こえた。


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