雪底の初雷
最近、現場に着く前から結果が見えることが増えた。
重く淀んでいた空気が、ふっと軽くなる瞬間がある。――それは、怪異が消え、“もう終わっている”時の匂いだ。
路地に入った瞬間、案の定だった。
騒ぎも、悲鳴も、火花もない。残っているのは壁際にこびりついた煤と、歪みがほどけた後の、薄く冷たい寒気だけ。
「……あれぇ? また先越されとるなぁ、レイちゃん」
隣でカナメが肩を揺らす。わざとらしい軽口が、今はひどく耳障りだった。
レイは答えず、煤の残る地面に片膝をついた。コンクリートを指でなぞると、爪の先が微かな熱を拾う。
――灯。
ほんの、わずかな。けれど、確かにそこにあった熱。
派手に燃やし尽くした痕ではない。乱暴に削り取った痕でもない。無駄がなく、最短距離で核を貫いたような、冷徹で効率的な浄化の跡。
(……灯郷家か?)
一瞬、冷徹な灯郷美鶴の顔が浮かぶ。だが、すぐに否定が走る。
灯郷家は、いつも遅い。
ある程度怪異に暴れさせてから“鎮圧”という形で現れる。自らの権威を知らしめるために。
なのにこれは、暴れきる前に、芽を摘むように消している。やり方が根本的に違う。
「灯郷ちゃうん?」
カナメが、レイの沈黙を透かしたように言った。
「違う」
「ほな誰やろ。正義の味方でもおるん?」
レイは立ち上がり、周囲を一度だけ見回した。
逃げ惑う人間の気配も薄い。怪異の残骸も、驚くほどきれいに“片付けられて”いる。
(……誰だ)
喉まで出かかった名前を、レイは無理やり噛み殺した。
椿は夜、出歩けないはずだ。離れに閉じ込められ、屋敷の鎖に繋がれている。
なのに、毎回残るこの灯の痕だけが引っかかる。
「誰やろなぁ、九尾の仕事奪ってるん」
カナメの声が、いつもより低く響いた。
レイは踵を返す。追う情報がない。
ただ、胸の奥に小さな棘が残ったままだった。
⸻
翌日の昼休み。いつもの古びた資料室。
椿は窓際に寄りかかり、レイを見るなり小さく笑った。ここで会う椿は驚くほど「普通」で、だからこそ引っかかる。
「……変なこと、してないよな」
九尾の任務の話はできない。その名前を出せば、椿を闇に引き込んでしまう。
レイは、椿に一滴の汚れもつけたくなかった。
椿は一拍だけ視線を外し、すぐに戻した。
「してないよ」
言い切るその声が、わずかに固い。
レイがさらに問い詰める前に、椿はポケットから小さな包みを取り出した。
掌に乗る程度の、飾り気のない包み。
「はい」
「……何だ、これ」
「甘いやつ。今日はそういう日なんだって」
カレンダーを思い出す。二月十四日。椿が最も興味を示しそうにない、世俗の行事。
レイはそれを受け取った。軽い。なのに、受け取った指先から胸の奥までが、鉛のように重くなる。
「……珍しいな」
「そういう時もあるでしょ?」
椿は、何でもない顔で何かを隠す。その表情を、レイは嫌というほど知っていた。
レイは椿の髪に指を通す。乱すのではなく、ただ、縋るように整えるだけ。
癖のような触れ方で、釘を刺すように言葉を落とした。
「無茶すんなよ」
「してないって言ったでしょ」
「……ならいい」
レイはそれ以上、踏み込めなかった。
密会の時間は短い。この静かな時間を壊す勇気は、今のレイにはなかった。
「帰ったら、食べる」
「うん」
椿の頷きは、レイが“無事に帰る”ことを、当たり前の前提として置いていた。
今のレイには、それが救いのようで、同時に怖かった。




