隙間の眼(スキマノメ)
禍級…中級
災級…上級
美鶴との誓約、ハルとの作戦会議。
すべて整ったはずなのに、一月半ばの夜は残酷なほど静かに過ぎていった。
椿は自室のベッドで、動かないスマホを睨みつけていた。三日。ハルからの連絡がないまま、三日が過ぎた。
(……禍級以上が出てないといいけど)
焦燥が指先を凍らせ、不安が喉を焦がす。
日付が変わる少し前、枕元で待ちわびた振動が響いた。画面に浮かぶ「ハル」の二文字。椿は一秒も置かず、応答ボタンを押した。
「……怪異が出たの?」
『…………』
受話器の向こうで、ハルが小さく息を呑む音がした。友人としての“いつもの距離”を、自ら踏み越えることへの躊躇いが、沈黙になって伝わってくる。
『……駅北の再開発地区だ。工事が止まったままの雑居ビル』
声がいつもより低い。
『……嫌な感じがする。かなりデカそうだ。……なあ椿。本当に、やるのか?』
「もちろん」
迷いなど、椿には一欠片もなかった。
椿は音もなくベッドを抜け出した。美鶴との契約以来、屋敷の警備は不思議なほど彼女に甘い。意図は分からない。だが今の椿には、その「隙」さえ好都合だった。
現場で合流したハルは、ノートを片手にビルの入口で待っていた。
「……準備はいいか」
「うん。それで、相手は?」
ハルが黙って指差した先。ビル脇の自動販売機の裏――わずか数センチの隙間に、頭ほどもある巨大な眼球がひとつ、こちらを凝視していた。
ぎょろり、と瞳孔が動く。椿と目が合った。
「……気持ち悪い」
「『隙間の眼』だ。都市伝説の“隙間女”が、空間の歪みそのものに変質した禍級。街中のあらゆる隙間が、奴の胃袋に繋がってる」
その説明が終わるより早く、椿の足元のマンホールから青白い腕が何本も伸び上がった。
「っ!」
椿は灯を纏った足で、伸びてきた腕を踏み砕く。ボキリ、と生々しい音。だが手応えは驚くほど軽い。砕かれた腕は黒い霧となって消え、コンクリートに一点のシミも残さない。
「……っ、また!」
背後――ハルのすぐ横、壁の「ひび割れ」から、巨大な三本の指が這い出してきた。ハルの首を刈り取ろうとする動きを、椿は咄嗟に灯を放って焼き切る。
だが、焦りが椿の指先を狂わせていた。
(禍級は、九尾が動く……)
「消えて……!レイがここに来る前に……!」
両手から溢れんばかりの灯が放たれる。白銀の奔流が路地裏をなめ尽くし、あらゆる隙間を焼き潰そうとする。
――吸われた。
灯は「隙間」へ飲み込まれ、別の場所から無害な熱風となって吐き出される。まるで街そのものが、椿の火力をどこかへ逃がしているように。
「椿、やめろ! 灯を使いすぎるな!」
ハルが叫ぶ。
「こいつの空間は繋がってる。正面から焼いても、エネルギーを別の隙間に逃がされるだけだ!」
「じゃあ、どうすればいいの!? 全部焼けば、いつかは――」
「無理だ。灯が先に尽きる!」
その時、頭上の配管の継ぎ目から、巨大な眼球が幾つも現れた。独立して動き、椿とハルを品定めするように見つめている。視線が肌を刺すたび、身体の内側が“狭い場所”へ引きずり込まれるような圧迫感が走った。
「カチ、カチカチッ」
歯ぎしりのような音が、周囲の隙間から一斉に響く。
次の瞬間、椿の足元のわずかなアスファルトの亀裂から、無数の細い「指」が糸のように伸び、足首に絡みついた。
「っ……!」
灯で振り払おうとするが、指は次々に増える。椿の身体は亀裂の中――たった数ミリの隙間へ、物理法則を無視して沈み込み始めた。
「椿!!」
ハルが咄嗟に腕を掴み、引き戻す。引き剥がされた瞬間、椿の足首に冷たい痛みが走った。皮膚が少し、持っていかれている。
「……神出鬼没だな」
ハルが荒い息のまま周囲を見回す。
「椿、むやみに焼いてもキリがない。出口は無数にあるけど、核は一つだ」
椿は喉の奥の熱を飲み込んで、もう一度、自販機の隙間を見る。あそこが“窓”なら、内側に道はあるはずだ。
「ねぇ、ハル。これ……私が中に入れる?」
突拍子もない提案に、ハルが目を見開く。
「は? 何言ってんだ。そんなこと試した奴は――」
「じゃあ試してみる」
制止を聞かず、椿は自販機の隙間に灯を灯した右腕を突き入れた。ジュ、と焼ける音がして、腕が闇に飲み込まれる。
「……大丈夫そう」
椿は息を吐いた。声が少し掠れる。
「灯を纏えば、入れる。……でも、長くは無理そう。まとわりついてくる」
ハルの表情が歪む。椿の指先が白い。灯の消費が目に見えている。
「椿、よせ!」
ハルが腕を掴もうとした瞬間――
椿は身体を捻り、わずか数センチの隙間へ吸い込まれるように姿を消した。
「おい、椿!!」
数秒後。ハルの背後、十メートルほど離れたエレベーターの半開きのドアから椿が転げ出る。
「……ダメみたい。適当に入っても、別の出口から吐き出されるだけ。うう……気持ち悪い」
服についた灰を払い、椿は悔しそうに唇を噛む。「核」を見つけない限り、内側から叩くことはできない。
「……無茶苦茶しやがって。心臓に悪いだろ」
ハルは荒い息を整えながら、ノートを地面に広げた。
「いいか。腕の出方が見えた。あいつは、光が届かない場所から伸びてくる。それと――間隔が一定だ。空間を繋ぎ直すのに、数秒のクールタイムがある」
ハルの視線が、周囲の“濃淡”を追う。眼の数が異様に多い場所がある。視線が集まっている場所。
「あそこだ……椿。ビルの地下へ続く階段の隅。ひび割れを見ろ」
そこだけ闇が重い。どろりとして、光を返さない。周囲の気配を吸い込む“底”。
「起点だ。……そこからなら、直で行けるはずだ」
「分かった。ハル、注意を引いて」
「……ああ。倒せないと思ったら、すぐに出てこい。約束だぞ」
ハルが石を投げ、周囲の隙間にわざと音を立てる。反応した腕が一斉にハルへ向かう。
その瞬間――椿は地下のひび割れへ飛び込んだ。
内側は、壁一面が眼球で埋め尽くされた肉の迷宮だった。「ここから出たい」という囁きと、触れようと伸びてくる無数の手。視線が皮膚の上を這い、骨の内側まで覗き込んでくる。
(……戻れる、のかな)
その恐怖が妙に冷静に頭に浮かび、指先だけが細かく震えていた。
息が浅く、喉の奥が締め付けられるように痛い。
だが、すぐにそれを塗りつぶす。椿の脳裏にあるのは、あの日見たレイの傷だらけの姿だけだった。
「私の邪魔を、しないで」
椿は灯を一点に凝縮させる。爆発的な光が迷宮を内側から焼き払い、空間そのものを融かしていく。
バリバリ、とガラスが割れるような音。再開発地区を支配していた歪みが、一気に霧散した。
(……早く、出ないと……)
灯を使いすぎた。指先の感覚が薄い。膝が笑い、足元が崩れそうになる。その瞬間、外側から伸びた手が椿の手首を掴んだ。
「――椿!」
ハルの手だ。
静まり返ったビルの一室。椿は膝をつき、激しい呼吸を繰り返していた。
「……無茶するなって言っただろ」
椿は答えず、指先の震えを押し殺す。
「でも、倒せた」
「……お前のその度胸には、正直ついていけそうにないよ」
ハルは呆れたように笑いながらも、ノートに短く書き足した。
『隙間の眼:完遂』
椿は立ち上がりかけたが、わずかに体勢を崩す。
すぐに何事もなかったように姿勢を正した。
「……次に備えよう」
ハルは一瞬、何か言いかけてやめた。
椿は闇の外へ目を向ける。
「……まだ、夜は長い」




