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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
三章. 梓鳳学園

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悪魔との取引


椿は、使用人たちの動線を外れた一角へ向かった。

凍てついた廊下の隅、かすかな灯りの下に、影のように佇む女がいる。小夜だ。彼女は椿の接近を察しながらも、微動だにせず冷ややかな警戒を解かない。


「……小夜。九尾について、知ってることを教えて」


自分でも驚くほど声が落ち着いていた。

小夜の睫毛が、微かな嫌悪と共に跳ねる。


「……お嬢様。このような時間に歩き回るのはお控えください」


「質問に答えて」


小夜はすぐに表情を戻し、静かに首を振った。


「余計なことはしないでください」


「耳を塞ぐなと言ったのはあなたでしょ。私が何も知らないのが、都合悪いんじゃないの」


小夜の指先が、ぴたりと止まった。

視線は逸らさない。逸らした方が負けだと知っている目だ。


「……言ったはずです。それをあなたに話すことは、美鶴様の意思に反します」


「……お願い。もう、守られるだけは嫌なの」


小夜の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「今日はお引き取りください。……美鶴様がお戻りになります」


その一言に、椿の背中を冷たい汗が走った。

息を吸い直そうとした、その時。


「いつから小夜と仲良くなった」


振り返るより早く、背後から声が届いた。

温度を削ぎ落とした低い響き。その音だけで、椿の肺が凍りつく。美鶴は、外気の冷たさをそのまま纏ってそこにいた。


「……なぜ九尾の情報を追っている?」


(……聞かれてた)


答えを躊躇えば、終わる。

椿は唇を噛んで、視線を上げた。


「必要だからです」


美鶴の目が、わずかに細まる。


「離れに忍び込んだ鼠のためか?」


鼠。その言葉に、椿の喉が鳴った。書庫への侵入だけではない、レイの潜伏。……この男の瞳から逃れられる場所など、この屋敷にはどこにもなかったのだ。


椿は震えそうになる膝を押さえつけ、言葉を投げ返した。


「……知っていたのに、どうして何もしなかったのですか」


美鶴は問に答えない。ただ、椿の「価値」を測るような、絶対者の沈黙。


美鶴は、凪いだ水面のような声だけを落とした。


「何度も伝えたはずだ。お前が当主になろうとせず、灯郷から離れれば――何もしない」


椿は笑いたくなった。当主? 私が? 格の違いは明白なのに、それでもこの男は私を「異物」として追い出したがっている。


「……なぜ私を警戒するのですか。私が当主を目指したところで、なれるわけがないのに」


美鶴の瞳が、ほんの僅かに動いた。否定でも肯定でもない。ただ、答えを与えないまま、椿を黙らせる目。


椿は息を整える。逃げない。


「……わかりました。お兄様の望み通り、家を出ます。その代わり、協力してほしいことがあります」


美鶴の目が、わずかに細まった。


「九尾にいる彼を……助けたいです」


沈黙が、重く、長く廊下を支配した。


「駄目だ。お前はもうすぐ縁談が正式に決まる。他の男のことは忘れろ」


結婚。その単語が、椿の耳の中で死刑宣告のように反響した。一生、この男の監視下で、望まぬ鳥籠に閉じ込められること。それが椿にとっての「死」だと知っていて、彼はそれを命じている。


「結婚なんて、絶対にしません」


椿は恐怖を押し殺し、美鶴の冷徹な瞳を射抜くように見つめ返した。


「今彼を助けられないなら……どんな罰を受けようと、死ぬまでここに残るから」


美鶴は初めて、何かを計算するように思考の深淵へと目を向けた。


「っ!美鶴様は、あなたの事を——」


小夜の声が悲鳴のように響く。


「小夜」


美鶴の声に、小夜はさっと一歩下がる。

それは忠誠を超えた、条件反射の服従だった。


「戻っていろ。椿と話す」


小夜は唇を噛み、椿を見た。彼女が影の中へ引くのを見届けると、美鶴は椿に視線を戻した。


「……お前にそこまでの覚悟があるのなら、九尾を潰してやってもいい」


椿は息を止めた。


「ただし、途中で折れることは許さない」


椿の胸の奥で、どす黒い熱が弾けた。

レイを救うためなら――椿は鎖を、自ら首に巻き付けた。


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