焦風の煽り
九尾の最深部、空調の微かな音だけが響く一室で、大型モニターが隣町の惨状を映し出していた。
立ち昇る黒煙は空を削り、赤黒い焔が生き物のように街を舐っている。
「××町で大規模火災。現在も鎮火の目処は立っておらず――」
アナウンサーの声は淡々としているのに、映像の熱だけが生々しい。
レイはリモコンに触れたまま、指先を止めた。
ハルと逃げた“大火災の夜”の記憶が蘇り、目の奥が薄く痛む。
背後で扉が開く音。久世が、いつもの整った顔で入ってくると、テレビ画面に視線だけを投げた。
「……ご覧になりましたか、レイ」
その声は穏やかだ。けれど、その穏やかさが余計に薄気味悪い。
「レイ。カナメと一緒に現地へ向かってください。これは依頼ではありません。ですので“倒す必要”はありません」
久世は、微笑を浮かべて言った。だが、その瞳には光が一切宿っていない。
「後処理に行ってください。鎮火した地点を確認し、生存者がいれば回収。今回は遺体の処理は結構です」
画面の揺らぎが、もう一度だけ脳裏を掠める。
「カナメ。レイを、絶対に死なせないでください」
空気が一段、冷えた。
カナメは一瞬だけ瞬きをして、すぐに肩をすくめる。
「死なんように、ね。——レイちゃん、今日は“お散歩”や。死んだらアカンで? 俺、怒られるん嫌いやねん」
レイは久世を見た。普段なら有り得ないやり取り。だが久世の顔は凪いだ湖のように動かない。それが、何よりも不気味だった。
「……倒す必要がないなら、なぜ俺を行かせる?後処理なら下っ端にやらせればいいだろ」
「もちろん他のチームも向かわせます。見ての通り、この規模になると人手が必要でしょう」
淡々と言われ、レイは反論できなかった。
車内は静まり返っていた。窓の外を流れる冬の街灯が、白く、速く、レイの視界を通り過ぎる。カナメだけが、重苦しい空気を嘲笑うように軽口を投げ続ける。
「なぁ、レイちゃん。椿ちゃん、まだ連れてこーへんの?」
レイの指が、シートを握りしめる。
「早よ連れてきや。俺もう現場引退して裏方に回りたいねん〜」
瞼が僅かに動き、それを隠すように窓の外に目を向ける。
(……反応、したら駄目だ)
「カナメ。集中しろ」
カナメは不気味に笑い、それ以上追及しなかった。
その横顔に、いつもの軽薄さがない。
隣町に足を踏み入れた瞬間、酸素を奪われた肺が焼けるように痛んだ。そこは、かつて街だったものの残骸だ。
息を吐くたび、喉の奥が焦げる。
カナメが不吉に笑った。
「来た来た。ええ色してるわ」
現場は、異様なほどに静かだった。
サイレンも、救助を呼ぶ声もない。あるのは炭化した死の匂いと、風が灰を引きずる乾いた音だけ。街は焼けたというより、“焼き抜かれた”ように変貌していた。
建物の骨組みが黒く立ち尽くし、窓ガラスは溶けたまま固まり、道路には厚い灰が積もっている。金属がねじ曲がり、断末魔のまま静止している。
レイは足を踏み出しかけて、止まった。
膝が、石のように固まる。
(まただ……目の奥が、抉られるように痛む)
「レイちゃん、視線落としや」
カナメの低い声。
「……分かってる」
声が掠れた。自分の声が、どこか遠くで響いている。
二人は鎮火した区域から入った。――それでも、空気は甘ったるい重さを孕んでいた。気圧が舌に貼りつき、胸が嫌に詰まる。
レイは反射するものを避けた。思考ではなく、身体が先に覚えている。水たまり、割れたガラス、溶けた金属。そこに映るものを見てはならない。
(……いる)
“本体”が、どこかにいる。
レイが僅かに顔を上げた、その瞬間だった。
揺らめく陽炎の奥――“見てはいけない色”が、視界の端で立ち上がる。
それは炎じゃない。ただの熱でもない。
目が、勝手にそこへ寄っていく。
(……逸らせない)
瞬きが遅れる。焦点が合いかけて、世界の音が薄くなる。
視線が“吸い込まれる”手前で、後ろから乱暴に手が伸びてきた。
カナメの掌が、レイの両目を力ずくで覆い隠す。頬に食い込む爪の痛みで、かろうじて意識の輪郭を繋ぎ止める。
「アカンて、レイちゃん。三秒や。三秒越えたら、もう戻られへん」
耳元で笑ってるのに、声だけが妙に冷たい。
「見たら終わりや。レイちゃんが火種になったら、俺も巻き添えや」
レイは歯を食いしばった。戦う気なんて起きない。
網膜を焼こうとしたあの致死量の「色」は、勝てるかどうかという次元を超えている。
近づいた瞬間に思考する間もなく灰に変わる――理屈の通じない、死そのものだ。
「……今日は喧嘩せんでええ。言われてるやろ。後処理だけや」
カナメはレイを置いて、先に歩いた。足音が鈍く響く。
焼け崩れた壁の陰、倒れた車の隙間。
カナメは無言で覗き込む。しかし、“焦風の煽り”が通り過ぎた後に、生きて動く者など一人もいなかった。
声がない。看板が風に揺れる虚無の音だけ。焼けた街は、空っぽだった。
本来なら行うはずの遺体処理すら、今回は手が回らない。ただ立ち尽くし、圧倒的な死を観測するしかない虚無感。
「……全部、灰やなぁ」
カナメの声は静かで、どこか満足げにさえ聞こえる。
「ま、そらそうか。あれ見て生きてたん、レイちゃんぐらいやろなぁ」
その時、遠くで光が走った。
白い、冷たい光。炎の色と逆の灯り。空気を切り裂くように、一直線に伸びる。
レイは反射的に顔を上げそうになって、寸で止めた。
「……おっ、お出ましや。お貴族様の登場やで」
カナメが言った。声はいつも通り軽いのに、目が鋭い。
次の瞬間、熱風を物理的に押し留めるような、圧倒的な「光」が街を包んだ。
その光は柔らかいのに、力だけが暴力的だった。燃えかけた空気が上から押し潰され、視界の端でうごめいていた「揺らぎ」が、嫌そうに、けれど抗えずに縮んだ。
瓦礫の向こうに立つ影。
灯郷美鶴。
背筋の通り方、灯の扱いの正確さ。すべてが完成された、次期当主の姿。
美鶴が指先をわずかに払うだけで、街に残っていた火種が浄化されていく。
美鶴の目は、レイを捉えていなかった。まるで道端に転がる石を見るような、あるいは何も見ていないような、鋭く冷徹な眼差し。
その背中が遠ざかった後、カナメが歪んだ笑みを浮かべた。
「えげつない灯やなぁ」
カナメが笑う。レイは言葉を返せない。
「でもな、レイちゃん。今の、倒してへんで。止めただけや」
「……分かってる」
「ほんまに?」
カナメは笑いながら、優しくない声を落とした。
「今の灯郷では“無理”や。応急処置で、伝染を止めただけ。あれ、また起きるで。場所変えて、時期変えて、何回でもな」
炭化した街に、熱風が再び吹き付ける。
「ほな帰ろか。今日は“仕事”ちゃうし。レイちゃん、えらい顔してるで。生きて帰るんが任務や、任務」
レイは振り返らず、灰の降り積もる道を一歩ずつ歩き出した。
背中に、カナメの視線が刺さるように感じた。




