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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
三章. 梓鳳学園

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焦風の煽り


九尾の最深部、空調の微かな音だけが響く一室で、大型モニターが隣町の惨状を映し出していた。

立ち昇る黒煙は空を削り、赤黒い(ほむら)が生き物のように街を舐っている。


「××町で大規模火災。現在も鎮火の目処は立っておらず――」


アナウンサーの声は淡々としているのに、映像の熱だけが生々しい。


レイはリモコンに触れたまま、指先を止めた。

ハルと逃げた“大火災の夜”の記憶が蘇り、目の奥が薄く痛む。


背後で扉が開く音。久世が、いつもの整った顔で入ってくると、テレビ画面に視線だけを投げた。


「……ご覧になりましたか、レイ」


その声は穏やかだ。けれど、その穏やかさが余計に薄気味悪い。


「レイ。カナメと一緒に現地へ向かってください。これは依頼ではありません。ですので“倒す必要”はありません」


久世は、微笑を浮かべて言った。だが、その瞳には光が一切宿っていない。


「後処理に行ってください。鎮火した地点を確認し、生存者がいれば回収。今回は遺体の処理は結構です」


画面の揺らぎが、もう一度だけ脳裏を掠める。


「カナメ。レイを、絶対に死なせないでください」


空気が一段、冷えた。

カナメは一瞬だけ瞬きをして、すぐに肩をすくめる。


「死なんように、ね。——レイちゃん、今日は“お散歩”や。死んだらアカンで? 俺、怒られるん嫌いやねん」


レイは久世を見た。普段なら有り得ないやり取り。だが久世の顔は凪いだ湖のように動かない。それが、何よりも不気味だった。


「……倒す必要がないなら、なぜ俺を行かせる?後処理なら下っ端にやらせればいいだろ」


「もちろん他のチームも向かわせます。見ての通り、この規模になると人手が必要でしょう」


淡々と言われ、レイは反論できなかった。



車内は静まり返っていた。窓の外を流れる冬の街灯が、白く、速く、レイの視界を通り過ぎる。カナメだけが、重苦しい空気を嘲笑うように軽口を投げ続ける。


「なぁ、レイちゃん。椿ちゃん、まだ連れてこーへんの?」


レイの指が、シートを握りしめる。


「早よ連れてきや。俺もう現場引退して裏方に回りたいねん〜」


瞼が僅かに動き、それを隠すように窓の外に目を向ける。


(……反応、したら駄目だ)


「カナメ。集中しろ」


カナメは不気味に笑い、それ以上追及しなかった。

その横顔に、いつもの軽薄さがない。



隣町に足を踏み入れた瞬間、酸素を奪われた肺が焼けるように痛んだ。そこは、かつて街だったものの残骸だ。

息を吐くたび、喉の奥が焦げる。


カナメが不吉に笑った。


「来た来た。ええ色してるわ」


現場は、異様なほどに静かだった。

サイレンも、救助を呼ぶ声もない。あるのは炭化した死の匂いと、風が灰を引きずる乾いた音だけ。街は焼けたというより、“焼き抜かれた”ように変貌していた。


建物の骨組みが黒く立ち尽くし、窓ガラスは溶けたまま固まり、道路には厚い灰が積もっている。金属がねじ曲がり、断末魔のまま静止している。


レイは足を踏み出しかけて、止まった。

膝が、石のように固まる。


(まただ……目の奥が、抉られるように痛む)


「レイちゃん、視線落としや」

カナメの低い声。


「……分かってる」


声が掠れた。自分の声が、どこか遠くで響いている。


二人は鎮火した区域から入った。――それでも、空気は甘ったるい重さを孕んでいた。気圧が舌に貼りつき、胸が嫌に詰まる。


レイは反射するものを避けた。思考ではなく、身体が先に覚えている。水たまり、割れたガラス、溶けた金属。そこに映るものを見てはならない。


(……いる)


“本体”が、どこかにいる。


レイが僅かに顔を上げた、その瞬間だった。

揺らめく陽炎かげろうの奥――“見てはいけない色”が、視界の端で立ち上がる。


それは炎じゃない。ただの熱でもない。

目が、勝手にそこへ寄っていく。


(……逸らせない)


瞬きが遅れる。焦点が合いかけて、世界の音が薄くなる。


視線が“吸い込まれる”手前で、後ろから乱暴に手が伸びてきた。

カナメの掌が、レイの両目を力ずくで覆い隠す。頬に食い込む爪の痛みで、かろうじて意識の輪郭を繋ぎ止める。


「アカンて、レイちゃん。三秒や。三秒越えたら、もう戻られへん」


耳元で笑ってるのに、声だけが妙に冷たい。


「見たら終わりや。レイちゃんが火種になったら、俺も巻き添えや」


レイは歯を食いしばった。戦う気なんて起きない。

網膜を焼こうとしたあの致死量の「色」は、勝てるかどうかという次元を超えている。


近づいた瞬間に思考する間もなく灰に変わる――理屈の通じない、死そのものだ。



「……今日は喧嘩せんでええ。言われてるやろ。後処理だけや」


カナメはレイを置いて、先に歩いた。足音が鈍く響く。


焼け崩れた壁の陰、倒れた車の隙間。

カナメは無言で覗き込む。しかし、“焦風(しょうふう)(あお)り”が通り過ぎた後に、生きて動く者など一人もいなかった。


声がない。看板が風に揺れる虚無の音だけ。焼けた街は、空っぽだった。

本来なら行うはずの遺体処理すら、今回は手が回らない。ただ立ち尽くし、圧倒的な死を観測するしかない虚無感。


「……全部、灰やなぁ」


カナメの声は静かで、どこか満足げにさえ聞こえる。


「ま、そらそうか。あれ見て生きてたん、レイちゃんぐらいやろなぁ」



その時、遠くで光が走った。


白い、冷たい光。炎の色と逆の灯り。空気を切り裂くように、一直線に伸びる。


レイは反射的に顔を上げそうになって、寸で止めた。


「……おっ、お出ましや。お貴族様の登場やで」


カナメが言った。声はいつも通り軽いのに、目が鋭い。


次の瞬間、熱風を物理的に押し留めるような、圧倒的な「光」が街を包んだ。


その光は柔らかいのに、力だけが暴力的だった。燃えかけた空気が上から押し潰され、視界の端でうごめいていた「揺らぎ」が、嫌そうに、けれど抗えずに縮んだ。


瓦礫の向こうに立つ影。


灯郷美鶴。


背筋の通り方、灯の扱いの正確さ。すべてが完成された、次期当主の姿。


美鶴が指先をわずかに払うだけで、街に残っていた火種が浄化されていく。


美鶴の目は、レイを捉えていなかった。まるで道端に転がる石を見るような、あるいは何も見ていないような、鋭く冷徹な眼差し。

その背中が遠ざかった後、カナメが歪んだ笑みを浮かべた。


「えげつない灯やなぁ」


カナメが笑う。レイは言葉を返せない。


「でもな、レイちゃん。今の、倒してへんで。止めただけや」


「……分かってる」


「ほんまに?」


カナメは笑いながら、優しくない声を落とした。


「今の灯郷では“無理”や。応急処置で、伝染を止めただけ。あれ、また起きるで。場所変えて、時期変えて、何回でもな」


炭化した街に、熱風が再び吹き付ける。


「ほな帰ろか。今日は“仕事”ちゃうし。レイちゃん、えらい顔してるで。生きて帰るんが任務や、任務」


レイは振り返らず、灰の降り積もる道を一歩ずつ歩き出した。


背中に、カナメの視線が刺さるように感じた。


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