(番外編) ノアの秘密
噂が黒川くんの耳に届き、椿ちゃんが屋上へ呼び出されたあの日。
「何があったの? 喧嘩? それとも告白!?」と捲したてるミアちゃんに、椿ちゃんは「何もないよ」とだけ言って、笑った。
でも、あの日から何かが変わった。
昼休みになると、椿ちゃんはふらりと席を立つ。戻ってくるのは早かったり遅かったりで、理由は決して口にしない。
ミアちゃんが「ねぇどこ行ってたの?」と肩を揺らしても、「ちょっとね」と微笑んでおしまい。
その笑い方が、前よりも少しだけ、硝子の向こう側を覗くような秘密の色を帯びていることに、私は気づいていた。
午後の授業中、ふと視界の端で紙が揺れた。
黒川くんの机の上。配られたばかりのプリントの角が、誰かに指で撫でられたみたいに、ふわりと浮いて、また落ちた。
窓は閉まっている。風なんて、どこからも入っていないのに。
黒川くんは、ペンを止めない。
でも視線だけが、時折、机の端の――“何もないはずの空間”へと落ちて、そこにじっと留まった。
(……何か、いる)
ほんの一瞬。
頬杖をついた彼の指の角度が変わり、冷徹だった目が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
本当に“気がした”だけ。彼は相変わらず無表情で、誰とも言葉を交わさない。
それでも、あの視線は、拒絶じゃなかった。
椿ちゃんの方を見ると、彼女はノートを開いたまま、何でもない顔をして前を見ている。けれどペン先が一度だけ止まり、指先が小さく動いた。
机の下で、密かな合図を送るみたいに。
その直後だった。
黒川くんの机の端の“空気”が、また嬉しそうに揺れる。
会話だ。
そこには、私たちには聞こえない、声のない対話がある。
私は図書室の一件以来、たまに“気配”だけを拾うようになった。
あれが何かは、はっきりとは言えない。言葉にした瞬間、あの二人の間に流れる平穏が壊れてしまいそうで。
「最近さ、椿ちゃん恋バナしてくれないの。寂しくない?」
ミアちゃんが小声でぼやいた。私は、黒川くんの横で微かに揺れ続ける“空気”を見つめたまま、静かに頷くだけにした。
「……たぶんあの二人、うまくいってるよ」
「えっ、どこが!? 何があったの!?」
ミアちゃんが身を乗り出す。
でも私は首を横に振る。
聞いたら、だめだ。
見えないふりをしてるから、続いてる時間がある。
あれは、恋みたいに穏やかで――
恋より、危うい。
だから私は、ただ口を閉じる。
椿ちゃんが、やっとの思いで掴み取った大切な“居場所”を、誰にも踏ませないために。




