過保護な嘘
「椿ちゃんっ……!」
「ご、ごめん!ほんとごめん!!」
登校するなり、来栖ミアと水瀬ノアが飛び込むように椿の机へ駆け寄ってきた。ミアは必死に手を合わせ、ノアは申し訳なさそうに唇を噛んでいる。
「……どうしたの?」
椿が言うと、ミアが息を吸い込み、勢いだけで吐き出した。
「悪気はなかったの、まさか聞かれてるなんて……!」
「……椿ちゃんが、黒川くんの事好きだって…バレちゃって……」
ノアの震える声に、椿は瞬きをした。
「あぁ…そうなんだ。いいよ、気にしてないから」
椿は淡々と応じた。元々、レイを呼び止めるための、ささやかな「きっかけ」に過ぎなかったのだから。
「……あ、でもでも、黒川くん興味あるみたいだったよぉ?『詳しく聞かせろ…』って言ってた!」
「ミアちゃん、似てない」
二人のやり取りに、周囲の緊張が少しだけ解ける。
(――反応したんだ。レイが)
胸の奥に、小さな熱が灯る。拒絶され、無視され続けてきた椿にとって、それがどんな感情であれ、無関心でいられるよりは数倍マシだった。
昼休み。喧騒が教室を包み始めた頃、椿の机に長い影が落ちた。
レイが、一言も発さず椿の机を指先で二度、叩いた。
「ひっ……」
ミアが短い悲鳴を上げる。レイの瞳には、一切の温度がない。
レイは椿の返事も待たず、翻って教室を後にする。その背中には、有無を言わせぬ威圧感が漂っていた。
椿は弾かれたように椅子を引き、静かに立ち上がった。
遠ざかる背中を、見失わないように追う。
重い鉄扉が開くと、冬の乾いた風が吹き抜けた。
振り返ったレイの瞳には、隠しきれない苛立ちが宿っている。
「……なんであんな噂を流した?」
「レイが無視するのが悪いでしょ」
言い返した途端、喉の奥がひりついた。
ずっと孤独が当たり前だった離れの部屋。
あの無彩色な世界は、既に二人で塗り替えてしまった。
……それなのに、今さら自分だけ『なかったこと』にして去るなんて。そんなの、あんまりだ。
一度知ってしまった熱を、また奪われる。
「……なんで何も言わずに出ていったの?」
溢れ出した感情は、もう止まらなかった。
「私には、一人で抱えるなって言ったくせに!」
レイは沈黙を守っていた。椿は手の甲で目元を拭い、射抜くような視線を彼に向けた。
「レイ、九尾にいるって本当?」
椿が放ったその名に、レイの瞳が鋭く彼女を捉えた。
「……どこで聞いた」
「昨日、リンが言ってた。……九尾のことも、知ってる。お父様がよく話してたから。レイがどこで、何をしているのか、やっとわかった」
レイが小さく舌打ちをする。リンが椿に接触したこと、そして最悪の場所の名前を漏らしたこと。計算違いが、彼の表情を険しくさせた。
「……とにかく、もう関わるな。話しかけるのも、噂を流すのもやめろ」
レイは踵を返し、扉に向かう。
「九尾の拠点に行くから」
背後から放たれた椿の決死の宣言に、レイの足がぴたりと止まった。
振り返った彼の瞳は、椿が初めて見るほど冷たかった。
「レイが無視するなら、私が行く」
「やめろ」
「今のレイを、一人にはできない」
椿が、かつてレイが自分に言った言葉をなぞると、レイは諦めたように深く、長い溜息を吐いた。
「……何も言わずに去ったのは悪かった。……お前にちゃんと話すべきだった」
レイは苦渋を滲ませた顔で、けれど冷徹に言い放つ。
「……だから、もう近づくな」
「そんな謝罪、いらない。私はレイを見て見ぬふりなんてできない」
椿の頑なな瞳を見つめ、レイは吐き捨てるように言葉を落とした。
「……だから、関わりたくなかったんだ」
その声は、ひどく掠れていた。
「……お前と出会った事が、間違いだった」
一番、言われたくない言葉だった。
胸の奥が空洞になり、足から力が抜ける。
「……っ、……わかった」
椿は壁に背をつけ、その場にしゃがみ込んだ。
「……もういい。レイには関わらない」
視界が滲む。風が冷たい。それでも、レイを諦めるには、一緒に過ごした時間が暖かすぎた。
(——正面突破が無理なら、潜るしかない。)
レイが一瞬、目を細めた。
「……お前なぁ……」
沈黙が流れる。レイが去る足音を待っていた椿の頭上に、不意に、重くて暖かい「体温」が降ってきた。
レイが脱いだ制服の上着が、椿の肩を包み込んでいた。
「……嘘をつくなら、もう少しバレないように言え」
呆れたような声が頭上から降る。
「今夜にでも乗り込むって顔してる」
レイは椿の前に膝をつき、覗き込むようにして視線を合わせた。
「…私のことは放っといて」
「どうしたら諦めてくれるんだよ……あそこは、お前が思っているような場所じゃない。一度入ったら、もう戻れない」
椿は上着に顔を埋めた。彼の匂いが鼻腔をくすぐり、胸が締め付けられる。
「……もう無視はしないから。……だから、あそこへは来ないと約束しろ」
椿は唇を噛む。納得なんてできない。
でも、これ以上レイが折れることはない。それがわかってしまう。
「……わかった。今すぐには行かない」
レイの目が僅かに揺れた。納得していない顔で、それでも彼は立ち上がる。
「……教室では話しかけるなよ。あと、噂も否定しておけ」
いくつかの条件を付け加え、レイは屋上を去っていった。
一人残された椿は、肩に残る彼の制服をぎゅっと握りしめた。
(……今すぐには行かない。でも……)
「……九尾を先に、潰さないと」
涙の乾いた椿の瞳には、狐火のような執念が宿っていた。




