偽りの恋心
三階の校舎の窓から、粘りつくような甘い気圧が立ち昇るのを感じ、レイは視線を外へと投げた。
——リンが近くにいる。
裏門。そこには、あってはならない光景が広がっていた。
白光の狐を掲げる椿と、その前に立ち塞がるリン。そして、椿の前へ割り込むように立つハルの背中。
(あいつら、また余計なことに首を突っ込みやがって――。)
あの時、自らの手で切り離したはずの呪縛。それなのに、当然のようにリンは今もその力を使っている。その事実が、レイの胸に言いようのない不吉な予感を突きつけた。
理由を考えるより先に踵を返し、階段を駆け降りる。
一刻も早く、あの二人をあの場所から引き剥がさなければならない。だが、二階の踊り場で不意に耳に届いた声が、レイの足を強引に止めた。
「椿ちゃん、本当に黒川君のこと好きなのかなぁ? はっきり言い切った割には、なんだか淡々としすぎじゃなぁい?」
来栖ミア。
隣には水瀬ノアもいる。妙なことに、二人とも外の騒ぎに引き寄せられていない。その異質さを記憶の隅に放り込み、レイは耳を澄ませた。
「うーん……私も最初は疑ってたんだけど。なんていうか……本当、だと思う」
ノアが静かに、けれど確信を込めて応じる。
(椿が……なんだって?)
一瞬にして全身の血の気が引く。
もしこの噂に尾ひれがつき、久世の耳にでも入れば、潜伏していた「九尾」の計画は一気に加速するだろう。
椿の『執着』は、最悪のトリガーになりかねないのだ。
「え、ほんと? ノアがそう言うなら――」
「……来栖」
低く鋭い声が、ミアの明るい響きを切り裂いた。
振り返ったミアの表情が瞬時に凍りつき、隠しきれない焦りが滲み出す。
「やば……」
「詳しく話せ。椿が、そう言ったのか?」
レイは逃げ場を塞ぐように間を詰め、ミアの目の奥を覗き込む。
「ミアちゃん……これは、言い逃れできないかも……」
ノアが困ったように呟くと、ミアは諦めたように小さく「椿ちゃんホントごめん」と手を合わせた。それから、開き直ったような笑みを無理やり作ってレイに向き直る。
「で……でも、やっぱり黒川君も気になるんだぁ? 椿ちゃんみたいな子に好かれて、嫌なわけないよねぇ」
レイは短く息を吐き、視線を逸らした。
リンといい、この不気味な噂といい、また椿が何かを企んでいる。
これ以上踏み込ませるわけにはいかない。
そして、何も告げずに屋敷を去り、結果として彼女をこの危うい状況に放り込んだ自分にも、その一因がある。その自責の念が、レイの心をじりじりと焼く。
窓の外を再び見やると、既にリンの気配は消えていた。
甘ったるい毒が霧散し、正気に戻った生徒たちが、何事もなかったかのように窓から外を眺めている。
逃げ続けても埒が明かない。
恋心という盾まで使い、執拗にこちら側の境界線を越えようとする彼女に、正式な「拒絶」を突きつける必要がある。
(……椿と、一度向き合わなければならない)
それが、彼女をこの深淵から遠ざける、唯一の手段だと信じて。




