届かない手
閉店後の駄菓子屋は、一月の寒さをそのまま閉じ込めたように静まり返っていた。
ハルは古い帳簿に目を落としながらも、その意識は数時間前からずっと、椿へと向けられていた。胸のざわつきが、どうしても消えない。
その時、机の上でスマホが震えた。表示された「灯郷 椿」の名前。
反射的に通話ボタンを押し、耳に当てた。
『……ハル?』
通話越しに届いた彼女の声は、薄い氷のように今にも砕けそうな、痛々しい疲労を含んでいた。
「椿、どうした?まだ寝てなかったのか」
『今日、学校にリンが来たの』
心臓が跳ねた。ハルは無意識にスマホを握りしめ、立ち上がる。
「――大丈夫だったのか!? 怪我は? すぐに連絡してくれれば、俺が行ったのに」
焦燥に駆られるハルの声を、椿は遮るように、静かに続けた。
『ごめんね、余裕がなくて。……でも大丈夫。明日、放課後に学校の裏門で会うことになったから』
「放課後か。俺も行くよ。一人で行かせるわけにはいかない」
『だめ』
きっぱりとした拒絶に、ハルは言葉を失った。
『いきなり行けば、警戒させちゃう。……ハルは近くで待機しててほしい。何かあったら、すぐに呼ぶから』
「相手は魅了を使うんだろ?椿一人にそんな危険なこと——」
『今日、灯で魅了を弾けることはわかった。リンも、私にはもう使わないって言ったの。嘘を言うような空気じゃなかった』
椿の言葉は論理的だった。けれど、その声の端々から漏れ出す吐息が、彼女の肉体が限界を超えていることを告げている。
ハルは、奥歯を噛み締めた。
本来なら、彼女を守り、支えるべきなのに、自分には彼女のように怪異を焼き払う力も、レイのように影を駆ける術もない。
彼女が一人で毒を喰らい、心身を削っている間、こうして安全な場所から声をかけることしかできない。その無力感が、重く胸の底に溜まっていく。
「……油断した隙に、やられる可能性はないか?椿には使わなくても、周りの人間を動かす危険もある」
ハルは、必死に声を絞り出した。
『それなら、今日やられていたと思うの。危害を加えるなら、今日がチャンスだった。でもリンは、レイのことか、私の灯の力か……何かに強い興味を持っているみたい。それが何なのかは、まだわからないけど』
「……どっちも、だろうね」
ハルは呟いた。リンという名を纏った怪物が、ただの気まぐれで動いているとは思えない。そこには必ず、歪んだ意図があるはずだ。
電話の向こうで、椿が短く息を吐く音がした。
『今すぐリンを救うのは、難しいかもしれない。けど、聞けることはすべて聞き出す。この街で起きている怪異のこと。そして、レイのこと』
「ああ。わかった。無理だけはするなって言っても、聞かないだろうけど……」
ハルは視線を落とした。暗い店内に、古時計の刻む音だけが虚しく響く。
「……信じてるよ、椿。明日は必ず、俺もすぐそばにいるから」
『ありがとう、ハル。おやすみなさい』
通話が切れた後も、ハルはしばらくスマホを離せなかった。
手のひらに残るスマホの熱。それが、命を削って灯を灯し続ける彼女の、微かな体温のように感じられてならなかった。
明日。裏門。
ハルは夜の闇を睨みつけた。彼女を一人、魅了という猛毒の前に立たせてしまった己の不甲斐なさを、冷たい怒りに変えて。




