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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
三章. 梓鳳学園

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黄昏の密約


「……ほんと、信じらんなぁい。せっかく黒川くんと二人きりにしてあげたのに、なぁに呑気に寝てんのよぉ」


ミアの高い声が、耳の奥を不快に揺らした。

椿はゆっくりと上体を起こす。視界が激しく揺れ、こめかみを焼くような痛みが走った。灯を酷使した代償だ。


「……え? レイが、来てたの?」


「椿ちゃん、全然起きなかったもんね。黒川くん、一言も喋らずに黙々と仕事片付けて帰っちゃったよ」


隣でノアが、どこか落ち着かない様子で相槌を打つ。その瞳には、隠しきれない懸念の色があった。


(……どのみち今会っても、まともに話せたとは思えない)

今の自分は、きっと鏡を見るまでもなく酷い顔をしている。


「……ごめん。二人とも、先に帰ってて。私、鍵を返して帰るから」


「えぇ……。私、まだ納得いってないんですけどぉ」


不満げに頬を膨らませるミアの背を、ノアが促すように押す。


「ありがとう、椿ちゃん。また明日ね」


「うん、また明日。……ありがとう、ノア。ミアも」


二人の足音が遠ざかり、静まり返った資料室に椿のため息が落ちた。


重い体を引きずり、事務室へ鍵を返却する。一刻も早く横になりたい。けれど、冷え切った廊下を歩く椿の鼻腔を、不意に「甘ったるい、粘りつくような匂い」が掠めた。


校門を出た瞬間、その匂いは暴力的なまでに濃度を増した。

視界が急激に混濁する。膝の力がふっと抜け、思考が温い泥の中に溶けそうになった時、誰かが背後から椿の体を支えた。


「おねーさん、大丈夫?」


心配する言葉とは裏腹に、弾むような、楽しげな声。

椿はその「音」に縋るように顔を上げた。


「……レイ……?」


「……なぁんだ。やっぱり兄ちゃんのこと、知ってるんだ」


その瞬間、椿の血の気が引いた。

恐怖が背を駆け上がり、無理やり内側から「灯」を絞り出した。


「――っ!」


白光の狐が、弾かれたように椿と男の間に割り込む。

男――リンは、熱を避けるようにひらりと手を離し、数歩下がった。


「――リン」


椿の意識が、鮮明に、かつ冷酷に引き戻される。

魅了に当てられかけていた。この少年の周囲だけ、空気が蜜のように甘く、重い。

リンは月明かりの下で、レイと瓜二つの顔に、残酷なほど無邪気な笑顔を浮かべていた。


「へぇ、おねーさんが『灯』なんだ? それ、思ってたよりずっと綺麗だね」


椿は震える足に力を込め、もう一歩距離を取った。

狐を維持するだけでも、今の彼女には苦行に近い。


「そんなに警戒しないでよ。なにもしないからさぁ」


「……なんで、レイを探しているの?」


「弟が兄ちゃんを探すのに、理由がいる? 寂しいんだよ。僕も、兄ちゃんもさ」


口ではそう言いながら、リンの顔に寂しさは一片も浮かばない。

あまりに空虚で、あまりに甘い毒。


『単独行動は避けること』


ハルの忠告が脳裏をかすめる。


けれど、今駄菓子屋にこの怪物を連れて行けば、灯が切れた瞬間に間違いなく2人とも終わる。——今ここで少しでもこの「毒」の正体を暴かなければならない。


「……なんで、そんな力を——」


言い切る前に喉が焼け、椿は息を吸った。


「あなたは、何なの?」


「うーん。質問攻めだねぇ。…ねぇおねーさん、質問の前に、もう少しお互い仲を深める必要があると思わない?」


リンがじり、と間を詰める。

彼の瞳が、椿の精神の隙間を抉ろうと怪しく光る。


「……私を能力で操ろうとする人間と、どうして仲良くなれるの?」


「あはっ! 最高。……わかった、おねーさんにはもう使わないよ。どうせ効きそうにないしね」


その言葉と同時に、まとわりついていた甘い匂いが、ふっと薄れた。椿は息を詰めていたことに気づき、喉の奥で小さく唾を飲む。


椿は、自分を震わせる恐怖を無理やり抑え込み、淡々と告げた。


「……明日、また来て。今度は裏門へ」


「わぁ、いいね。密会みたいで楽しそう。次は逃げないでくれる?」


「逃げないよ。私も――あなたに興味があるの」


声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて殺した。

リンは喉を鳴らして笑う。


「おねーさん、可愛いね。怯えてるのバレバレなのに。……いいよ。じゃあ、明日を楽しみにしてるね」


闇の中に溶けるように、リンの姿が消える。

一人残された椿は、狐が消えた瞬間に激しい吐き気に襲われ、その場に崩れ落ちた。


鼻の奥に残る粘つく残り香と、心臓を鷲掴みにするような恐怖。


——それでも。

(リンを、人間に戻す)


彼女の瞳には、かつてレイと交わした「約束」が、消えない灯火のように宿っていた。


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