黄昏の密約
「……ほんと、信じらんなぁい。せっかく黒川くんと二人きりにしてあげたのに、なぁに呑気に寝てんのよぉ」
ミアの高い声が、耳の奥を不快に揺らした。
椿はゆっくりと上体を起こす。視界が激しく揺れ、こめかみを焼くような痛みが走った。灯を酷使した代償だ。
「……え? レイが、来てたの?」
「椿ちゃん、全然起きなかったもんね。黒川くん、一言も喋らずに黙々と仕事片付けて帰っちゃったよ」
隣でノアが、どこか落ち着かない様子で相槌を打つ。その瞳には、隠しきれない懸念の色があった。
(……どのみち今会っても、まともに話せたとは思えない)
今の自分は、きっと鏡を見るまでもなく酷い顔をしている。
「……ごめん。二人とも、先に帰ってて。私、鍵を返して帰るから」
「えぇ……。私、まだ納得いってないんですけどぉ」
不満げに頬を膨らませるミアの背を、ノアが促すように押す。
「ありがとう、椿ちゃん。また明日ね」
「うん、また明日。……ありがとう、ノア。ミアも」
二人の足音が遠ざかり、静まり返った資料室に椿のため息が落ちた。
重い体を引きずり、事務室へ鍵を返却する。一刻も早く横になりたい。けれど、冷え切った廊下を歩く椿の鼻腔を、不意に「甘ったるい、粘りつくような匂い」が掠めた。
校門を出た瞬間、その匂いは暴力的なまでに濃度を増した。
視界が急激に混濁する。膝の力がふっと抜け、思考が温い泥の中に溶けそうになった時、誰かが背後から椿の体を支えた。
「おねーさん、大丈夫?」
心配する言葉とは裏腹に、弾むような、楽しげな声。
椿はその「音」に縋るように顔を上げた。
「……レイ……?」
「……なぁんだ。やっぱり兄ちゃんのこと、知ってるんだ」
その瞬間、椿の血の気が引いた。
恐怖が背を駆け上がり、無理やり内側から「灯」を絞り出した。
「――っ!」
白光の狐が、弾かれたように椿と男の間に割り込む。
男――リンは、熱を避けるようにひらりと手を離し、数歩下がった。
「――リン」
椿の意識が、鮮明に、かつ冷酷に引き戻される。
魅了に当てられかけていた。この少年の周囲だけ、空気が蜜のように甘く、重い。
リンは月明かりの下で、レイと瓜二つの顔に、残酷なほど無邪気な笑顔を浮かべていた。
「へぇ、おねーさんが『灯』なんだ? それ、思ってたよりずっと綺麗だね」
椿は震える足に力を込め、もう一歩距離を取った。
狐を維持するだけでも、今の彼女には苦行に近い。
「そんなに警戒しないでよ。なにもしないからさぁ」
「……なんで、レイを探しているの?」
「弟が兄ちゃんを探すのに、理由がいる? 寂しいんだよ。僕も、兄ちゃんもさ」
口ではそう言いながら、リンの顔に寂しさは一片も浮かばない。
あまりに空虚で、あまりに甘い毒。
『単独行動は避けること』
ハルの忠告が脳裏をかすめる。
けれど、今駄菓子屋にこの怪物を連れて行けば、灯が切れた瞬間に間違いなく2人とも終わる。——今ここで少しでもこの「毒」の正体を暴かなければならない。
「……なんで、そんな力を——」
言い切る前に喉が焼け、椿は息を吸った。
「あなたは、何なの?」
「うーん。質問攻めだねぇ。…ねぇおねーさん、質問の前に、もう少しお互い仲を深める必要があると思わない?」
リンがじり、と間を詰める。
彼の瞳が、椿の精神の隙間を抉ろうと怪しく光る。
「……私を能力で操ろうとする人間と、どうして仲良くなれるの?」
「あはっ! 最高。……わかった、おねーさんにはもう使わないよ。どうせ効きそうにないしね」
その言葉と同時に、まとわりついていた甘い匂いが、ふっと薄れた。椿は息を詰めていたことに気づき、喉の奥で小さく唾を飲む。
椿は、自分を震わせる恐怖を無理やり抑え込み、淡々と告げた。
「……明日、また来て。今度は裏門へ」
「わぁ、いいね。密会みたいで楽しそう。次は逃げないでくれる?」
「逃げないよ。私も――あなたに興味があるの」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて殺した。
リンは喉を鳴らして笑う。
「おねーさん、可愛いね。怯えてるのバレバレなのに。……いいよ。じゃあ、明日を楽しみにしてるね」
闇の中に溶けるように、リンの姿が消える。
一人残された椿は、狐が消えた瞬間に激しい吐き気に襲われ、その場に崩れ落ちた。
鼻の奥に残る粘つく残り香と、心臓を鷲掴みにするような恐怖。
——それでも。
(リンを、人間に戻す)
彼女の瞳には、かつてレイと交わした「約束」が、消えない灯火のように宿っていた。




