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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
三章. 梓鳳学園

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四時四十四分の四時限目

特別編


始業式の翌朝、教室の空気は埃っぽく、かすかに(かび)の匂いが混じっていた。


冬の低い光が窓から差し込み、白く照らされた(ちり)が静かに宙を舞う。冬服の硬い布が擦れる音が、水瀬ノアの耳には妙に尖って聞こえた。


——日常の皮が一枚めくれるような、そういう「嫌な綻び」に、昔からノアだけが先に気づいてしまう。理屈ではない。ただ、彼女の中の警鐘が外れたことは、ほとんどなかった。


「椿ちゃ〜ん。感謝してよねぇ」


来栖ミアが、椿の机に腰を下ろした。甘く弾む声。けれど、その手は手際よくプリントを広げ、折り目の位置まできっちり揃えて置いている。


「図書委員のシフト、ちょっとだけ……“調整”しといたの。ほら。椿ちゃんと黒川くん、木曜ペア」


椿はペンを止めた。

一瞬、肺の中の空気を全部吐き出してしまったように固まり、やがてその横顔に、隠しきれない驚きが浮かぶ。


「……え、すごい。ミア」


「でしょ?」


ミアは得意げに笑った。可愛く見せる角度も、声の高さも、いつも通り。


だが椿はすぐに視線を落とし、細い指先で机の端をトントンと打った。落ち着こうとしているのに、落ち着けない音。


「でも……レイ、ちゃんと来るかな? 今日もチャイムぎりぎりだったし……委員会とか興味なさそう」


「そこは大丈夫だよぉ。やる気なさげだけど、内申絡むことは意外とちゃんとやるタイプ。提出物とか、実はきっちりしてるし」


さらっと投げられた言葉に、椿の眉が、ほんのわずかに跳ねた。

自分が知らない「黒川レイ」を、ミアが平然と知っている。その事実が、椿の胸の奥で湿った何かを蠢かせるのを、ノアは肌で感じ取る。


「……詳しいんだね」


椿の声は軽いはずなのに、どこか薄く冷えている。ノアは椿の指先から目を逸らせなかった。


「椿ちゃん。ミアはね、イケメンの情報収集が“生活の一部”なの」


ノアが茶化すと、椿は不思議そうに小首を傾げた。


「イケメン……?」


「えっ!? 椿ちゃん、そこから!? あんな無愛想な奴の、顔じゃないなら――どこが好きなのよぉ」


ミアの直球に、椿は一度、窓の外を見た。冬の校庭。誰もいない白い地面。そこを見つめたまま、少し遅れて言葉を落とす。


「…秘密」


短く言って振り向いた椿は、ほんの少しだけ口角を上げた。


「えぇ……これだけ協力してるのに、教えてくれないのぉ?」


ミアの不満げな声と笑い声が届く。そのノアの耳奥で、細い針が肉を深く掻くような嫌な音が聞こえた気がした。


鉄に似た、かすかな匂いも。

何かが、決定的に狂い始めている。そんな予感が、冬の陽だまりの中で背中を冷たく撫でていった。




放課後。図書室の奥にある資料室の整理が始まった。

窓の外はまだ薄明るい冬の夕暮れで、灰色の空の下、遠くの街灯がぼんやりと灯り始めている。


「あー、黒川くん遅いねぇ。椿ちゃん、今のうちに棚の掃除終わらせとこ? 来たらすぐ“二人きり”にしてあげるからさぁ」


ミアは明るく言って、わざとらしく肩を寄せた。

ノアは古い本の背を拭きながら、ふと窓に目を向けた。


……何かが、動いた。

淡い影が視界の端をかすめ、窓ガラスに吸い付くように落ちてくる。

桜の花びらだった。一枚、また一枚。ゆっくりと増えていく季節外れの色が、夕陽に透けて妙に鮮やかだ。


「え……」


ノアが呟くのと同時に、花びらはガラスに触れ、溶けるように広がり始めた。薄い膜になって窓を覆い、外の景色を不気味なピンク色に塗り替えていく。

「……なに、これ。今、1月だよね」


ミアが近づき、指先でガラスを突く。


「ん、なんか……ぬるっとしてる」


ノアは反射的に一歩下がった。思考より先に、本能が“それ”を合図として受け取っていた。


——その瞬間、世界の音が遠ざかった。ページをめくる音も、ミアの息さえも、厚い水の底に沈んだみたいに。


ノアは咄嗟に壁の時計を見た。秒針が、逆方向へ動き始めている。

一秒、二秒。そして――四時四十四分。そこで針が、ぴたりと止まった。


ガチリ。

骨を無理やり噛み合わせるような硬い音が、どこかで鳴った。


同時に、書架の奥から水音がする。

ぴちゃ……ぴちゃ……。

振り返ると、床に黒い粘液が一滴落ちていた。それは不定形に広がり、細い指のような形を成して、這う。


「……ミア」


ノアの声が喉の奥で震える。

ミアはまだ窓に指を当てたまま、笑っていた。けれどその笑顔は仮面のように固まり、白目が濁り、気味の悪い黄に滲み始めていた。


「ノアちゃん……なんか、授業の時間みたい」


「……なに?授業……?」


ミアの声は低く、湿った響きを帯びる。机の上の古い教科書が、ぱたりと開いた。

勝手にページがめくられ、赤い文字がじわりと浮かび上がる。


――灯郷 椿。来栖 美亜。水瀬 乃愛。

名前を見て、はっと顔を上げる。椿の姿だけが、どこにもない。


扉が、ゆっくりと開く。蝶番が骨の軋む音を立て、仕立ての良いスーツの男が入ってきた。

首から上には、何もない。


断面から黒い粘液が滴り落ち、床に触れるたび「ぴちゃ、ぴちゃ」と楽しげに鳴る。

『……四時限目を始めましょう』

顔のない教師が、チョークを握った。空間が布を裂くように歪み、黒板に何かを書き殴る音が、耳の芯まで突き刺さった。


いつの間にか席に着いたミアの指がペンを走らせる。指先から薄い血が滲む。


(……出なきゃ。ミアを連れて……!)


ノアは震える手で、ミアの腕を掴んだ。だが、ミアの体は床に根を張ったみたいに動かない。椅子と床の隙間から粘液が溢れ、吸盤みたいに彼女を固定していた。


「ミア! お願い、ミア!!」


揺さぶっても、ミアはペンを止めない。


(……ごめん。助けを呼んでくるから……!)


罪悪感に心臓を抉られながら、ノアは出口へ縋り付いた。ドアノブは冷たく湿って、柔らかい。獣の皮を掴んでいるみたいな感触が手のひらを這い上がる。


扉を開く。――それなのに。

そこはまた、「四時限目が始まる直前」の図書室だった。

同じ角度で、同じミアが座っている。違うのは一つ。戻るたび、ミアの首の傾きが、少しずつ深くなっていることだ。


ピキ。

骨が軋む乾いた音。十五度、三十度、四十五度。

ループを繰り返すたび、彼女の頭は重力に負けるみたいに肩へ近づき、生気が削られていく。


(ミアが……)


喉が乾き、吐き気がこみ上げる。

時計は四時四十四分のまま、秒針だけがかすかに逆へ引き戻され続けている。


顔のない教師が、教壇を降りた。


一歩。

また一歩。


歩くたび、チョークが粉々に砕け、そこから黒い粘液がどろりと落ちる。床の染みが生き物みたいに広がり、ノアの足元を舐めた。


頬に、首筋に、冷たい触手が触れるような感覚。

世界が遠のいていく。存在そのものが、この四時限目に溶けて消えそうだった。


(逃げられない……)


世界が遠のき、存在そのものが溶けそうになった、その時だった。



ガラスが砕け散るような轟音が響き、空間そのものが引き裂かれた。


空中に亀裂が走り、そこから白光が溢れ出す。


「……うるさい」


冷えた声が、歪んだ空気を一刀で切った。

裂け目から現れた細い指先が、古い紙を破るように世界をこじ開ける。踏み込んできたのは、灯郷椿だった。


周囲に淡い光が漂い、蛍のように瞬いている。


椿が床に足を下ろした瞬間、窓を覆っていた桜の膜が一気に(しお)れ、黒い塊になって落ちた。甘酸っぱい腐敗臭が鼻を突き、同時に粘液の死臭が霧散していく。


椿は舞うように身を引き、掌を掲げた。

白い光が狐のような形を成し、滑るように飛んで教師の首の断面に寄り添う。


次の瞬間、狐は黒い粘液を“喰らい”始めた。

激しい熱も衝撃もない。ただ、存在そのものを静かに飲み込み、溶かしていく。


教師の体が激しく震え、輪郭を失い、崩れた。


「“おままごと”してる場合じゃないの」


椿は四時四十四分のまま動かない針を、苛立たしげに、けれど冷静に見つめた。


「……時間止めたらレイに会えないでしょ」


ノアは息を呑んだ。この子は、この状況でも「誰か」を優先している。


彼女は穏やかな顔のまま、しかし一歩ごとに法則を塗り替えるような足取りで進む。


床に残った粘液の残りかすがなおも蠢き、椿の足元へ這い寄る。触れる寸前、それは淡い光に押し潰されるように飲まれて消えた。



気づくと、図書室は元の静寂を取り戻していた。窓の外には一月の、正しく冷え切った冬の夕暮れが横たわっている。


ミアは机に突っ伏して眠っていた。


「……こんなとこで寝たら風邪ひくよ」


椿が、いつもの顔でミアの肩を揺すっている。

完璧なお嬢様の横顔。けれど前髪が、ほんの少し乱れていた。


「あれ……私、寝てた……? いつの間に……」


ミアが重い瞼をこじ開け、ぼんやりと周囲を見渡す。


椿は淡々と本を棚に戻し、ノアを振り返った。


「……ノア、顔色悪いよ?変な夢でもみた?」


(——夢のわけがない)


ノアは、もう二度と、椿の瞳の奥を覗こうとは思わなかった。


時計は動き出していた。

ただ、秒針が時折、ほんの一瞬だけ逆へ跳ねる音がする。

誰にも聞こえない、細い、骨の軋む音が。

部屋の隅で、黒い粘液が、一滴、ぴちゃ、と落ちる音が。


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