凍てつく境界線
私立 梓鳳学園の三学期は、凛と張り詰めた冷気の中で幕を開けた。
始業式の最中、椿の視線は無意識に生徒の列を彷徨っていた。体育館にも、その後の教室にも、彼女が待ち望んだ人影はない。
(……やっぱり、もう戻ってこないの?)
「接触のチャンスは冬休み明けだ」というハルの言葉だけを支えに、この日を待っていた。だが、目の前の空席は、触れれば指先が凍りつきそうなほどに、ただ空虚だった。
クラスメイトたちが再会の喧騒に興じる中、椿は窓の外を眺め、感覚の失せた指先を握りしめていた。
後方の扉が静かに開いた。
雑踏に紛れるような小さな音だったが、近くに座っていた生徒数人の話し声が、ふっと途切れる。
入ってきたのは、黒川レイだった。
目に鋭い影を落とし、その冷たさは、この平穏な教室では異様なほどに浮き上がって見えた。
「レイ!」
椿は弾かれたように立ち上がった。
レイの足がわずかに止まり、ゆっくりと椿に視線を向けた。けれど、そこに再会を喜ぶ情などは宿っていない。
レイは一言も発さないまま、椿という存在がそこにはいないかのように、再び歩き出した。
「待って、レイ。話が――」
椿が食い下がり、その腕に手を伸ばそうとした瞬間。
レイは、触れられることすら拒むように、わずかに身を引いた。椿の指先が、空を切る。
完全に心を閉ざしたその背中に、それでも声をかけようとした時。
「黒川。……ちょっといいか」
担任の声が、教室の音を切った。
レイは顔を上げた。伸びかけた指先だけを視界に入れて、外す。椿を振り返らないまま、教師の後に続いて教室を出て行った。
「あ……」
伸ばした手が、行き場を失って力なく下りる。会話を成立させることすら叶わなかった拒絶の余韻が、指先から熱を奪っていく。
「……ちょっとちょっと! 椿ちゃん、今の、何!?」
甘い香りと共に、ミアがひょいと顔を覗かせた。
その背に隠れるように、ノアが控えている。
一学期はよく話していたのに、夏以降、まともに目を合わせていなかった友人だ。
「……え?」
レイ以外を排除していた椿の視界に、ようやくノイズのような他人の姿が入り込んだ。顔を背けようとした椿を、ミアの執拗なまでの上目遣いが逃さず捉えた。
「とぼけないでよぉ! 椿ちゃんが男子を追っかけるなんて……。しかも黒川君って…怖くないの?」
「……レイの何が怖いの?」
「え?すごい殺気じゃん!さっきだって……。もしかして、二人って付き合ってたりする?」
ミアは自分で言っておいて、わざとらしく驚く素振りを見せる。
「ミアちゃん、そんなはっきり聞いたらダメだよ……」
ノアが慌ててミアを宥めるが、ミアは止まらない。
(……しょうもないな)
「付き合っている」だの「恋」だのという安っぽい言葉で括られることに、椿は嫌悪を覚えた。
「……付き合ってないけど」
「えー、そうなの!? じゃないってことは、椿ちゃんの片想い系? ……わかった、ミアが協力してあげるよぉ!」
「……協力?」
「そう! 黒川くんってさ、全然喋らないし近づくの難しいじゃん? だから、二人きりになれるようにミアが空気作ってあげたりとかさ!」
おもちゃを見つけた子どものようにはしゃぐミアの横で、ノアが眉を下げて椿を見た。
「ご、ごめんね、椿ちゃん。ミアちゃん、悪気はないの……!」
これ以上話すこともないと、椿は席に戻ろうとして、ピタッと足を止めた。
レイには、あんなにも冷たく拒絶された。
今の彼に近づくには、使えるものはすべて使うべきではないか。
椿はもう一度ミアの顔をまじまじ見つめると、灯郷家で叩き込まれた笑顔を浮かべた。
「……うん。好きだよ」
「……えっ?」
「レイが好きなの。だから、協力してくれる?」
ミアの言葉が止まった。ノアもまた、驚きに目を見開いている。
「あ、の……椿ちゃん? 意外とストレートだね……? 照れたりしないの?」
「照れる? なんで?」
天気の話でもするかのように放たれた、迷いのない肯定。
その笑顔のまま一歩も引かない椿の迫力に、ミアは一瞬、返す言葉を失ったように立ち尽くした。
「……そ、そうなんだ……。椿ちゃん、夏からキャラ変しててちょっと怖かったけど……今の方がおもしろいかも」
ミアはスキャンダルを見つけた野次馬のように、いたずらっぽく笑う。
「ごめんね。怖がらせてたと思ってなくて。ノアも、また仲良くしてくれると嬉しいな」
ノアの肩がびくりと微かに跳ねるのを椿は見逃さない。
「……あ、うん。よろしくね、椿ちゃん」
ノアは恐る恐る返事をした。
椿はその声を背中で受け止めながら、レイが消えた廊下をただ見つめた。
利用できるものは、何でも使う。それが、彼をこの日常に繋ぎ止めるための、椿の戦い方だった。




