策略の檻
ハルに椿を託し、雪の街を抜けたレイが向かったのは、「九尾」の拠点だった。
目的地が近づくにつれ、泥の中を歩いているような不快な重圧が足を搦めとった。
この場所に、自分の足で戻ることになるとは思ってもみなかった。
「あれぇ? レイちゃ〜ん」
雑居ビルの入り口。聞き慣れた声が耳に届くと同時に、背後からぬるりと重い腕が肩に回された。
カナメだ。逃亡生活の微かな温もりを上書きするように、安物のタバコの匂いと湿った体温がレイの神経を逆なでする。
「おかえり。早かったなぁ。もうちょっとゆっくりしとってもよかったのに」
カナメが、蛇のように鋭い目つきのまま口角を上げた。
「せっかく感動の再会やのに、また無視するん? ま、ええけど。久世さんがレイちゃん褒めとったで。はよ行きや」
(……褒める?)
嫌な予感が、心臓を冷たく撫でた。
レイは応えず、地面に縫い付けられたように重い足を動かす。久世に、会わなければならない。
部屋の重厚な扉を開くと、久世は窓の外を眺めていた。こちらに振り向く前から、その背中が機嫌の良さを雄弁に語っていた。
「お帰りなさい、レイ。そろそろ迎えに行こうかと思っていたところでした」
久世は振り返ったが、レイと視線を合わせようとはしなかった。椅子に深く腰掛け、手元の書類を無造作にめくる。レイを人間としてではなく、戻ってきた「備品」の不具合でも確認するかのような、傲慢な無関心。
「そんなに警戒しなくても、何もしませんよ。……怪我の具合はいかがですか?」
久世の声は不気味なほど穏やかだ。だが、その瞳の奥には底知れない暗闇が横たわっている。
「……灯郷椿とは、親しくなりましたか?」
その瞬間、久世が初めて顔を上げた。
射抜くような鋭い視線が、レイの瞳の奥をじっと見据える。隠しきれない動揺や、微かな心の揺らぎを、極上のご馳走として味わうかのような残忍な眼差し。
レイは自分の背筋が凍りつくのを感じた。最初から、すべては久世の手のひらの上だったのだ。わざとあの離れに留まらせ、絆が深まる「その時」を、彼はじっと愉しみながら待っていた。
(……やられた)
レイは奥歯を噛み締め、感情を殺した声で短く返した。
「親しくはない。怪我で動けなかっただけだ」
「……そうですか。まあ、それはどちらでもいいです」
久世は満足そうに口角をわずかに上げると、興味を失ったように再び書類へ視線を落とした。
「顔見知りになった。それだけで、チャンスはいくらでもありますからね」
その言葉が、レイの心に深い爪痕を残す。
「話は以上です。ゆっくり休んでください」
レイは踵を返し、部屋の扉に手をかけた。その背中に、冷ややかな氷の礫が突き刺さる。
「レイ。次に逃げたら……その時は、"連帯責任"です」
レイは一瞬だけ指を止めた。
(…椿のことか?)
椿の話題に、決して反応してはいけない。
レイは何も言わず、ただ拳を握りしめて部屋を出た。
廊下に出ると、壁に背を預けていたカナメが、再び獲物を見つけたように近づいてきた。
逃がさないという意思表示のように、レイの進路を塞ぐようにして顔を近づけてくる。
「寂しかったわぁ。レイちゃんおらん間、ずっと一人で任務行ってたんやで?」
カナメがニヤニヤと笑いながら、距離を詰めてくる。
「ええなぁ。俺が必死こいてる間に、椿ちゃんとぬくぬくしとったんやろ?」
「…は?」
「あ、ちゃうか。ほな、まだ触れてへんの?レイちゃん奥手やなぁ」
耳元で響く粘りつくような笑い声。相手をしては駄目だ。
レイは視線を合わせず、強引にカナメの肩を突き抜けるようにして通り過ぎた。
今の自分に許されるのは、感情を殺し、再び組織の「道具」として牙を研ぐことだけだ。すべては、椿に「連帯責任」という名の毒が及ばないようにするために。




