孤独な年明け
目が覚めたとき、視界に入ったのは白く濁った窓だけだった。
離れの中に、熱はない。吐き出す息が白く染まるほどの冷気が、皮膚を刺すように浸食していた。
「……レイ?」
呼んでも、返事はない。
最近は、同じ空気を吸っているだけで彼がそこにいると分かった。ソファのあたりから衣擦れの音がして、短く、ぶっきらぼうな返事が返ってくる。その体温が、この数日間で椿の「当たり前」を塗り替えてしまっていた。
(……なんで。どうして、いないの?)
家の中を、狂ったように探し回った。リビング、バスルーム、玄関の鍵——。
どこにも、彼の熱はない。
心臓の鼓動が早くなる。昨夜の彼の様子が、あまりに不自然だったことを思い出した。
あの時、レイは明らかに何かを隠していた。けれど椿は、彼が引いた境界線を越えてはいけないと、踏み込むことを止めたのだ。
激しい後悔が押し寄せる。
嫌われても、鬱陶しがられても、もっとレイの話を聞けばよかった。
彼の傷に触れることを躊躇わなければよかった。
指先が冷たさで感覚を失っていく。
一人で立ち尽くす離れは、昨日までとは比べ物にならないほど広く、静まり返っていた。
この静寂こそが、かつての椿の日常だったはずなのに。今では、耳の奥が痛くなるほどの孤独が、彼女を壊そうとしている。
どれほどの間、そこに立ち尽くしていただろう。
静寂を切り裂くように、スマホの着信音が鳴り響いた。
凍えきった指先は思うように動かず、何度も画面を滑らせ、ようやく繋がった。
『椿、あけましておめでとう。今近くにいるんだけど、ちょっと出てこれないか?』
「……ハル……っ、レイが……レイが、いないの……!」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。絶望を吐き出す椿に、ハルは落ち着いた、けれど少しだけ重みのあるトーンで返した。
『そのことで……朝方まで、レイが店に来てたんだ』
「レイが……?」
雪道を、感覚のない足で走った。靴の中に雪が入り込み、指先が凍えるが、そんな痛みはどうでもよかった。
「レイは、どこ……? どこに行ったの?」
「……行き先は、教えてくれなかった。ただ、もうここには戻れないって」
ハルの言葉に、椿の喉がひゅっと鳴った。
「私には、……何も言ってくれなかった。…レイに何があったの? 」
ハルは少し視線を落とし、言葉を選びながら口を開いた。
「それも、詳しくは知らない。……でも、レイを探す『誰か』に、見つかったみたいだ。椿を巻き込みたくないって、心配してた」
「そんなの、いらない!!」
椿の叫びが、雪の中に溶けて消えた。
「心配なんて、いらない……! 巻き込まれたってよかったのに。どうして、私に何も言わずに、一人で勝手に……!」
涙が頬を伝うそばから、冷たい風に冷やされていく。
椿には「一人で抱えるな」と言っておいて、彼は結局一人で闇の中へ戻ってしまった。どんなに恐ろしいことに巻き込まれたとしても、レイと一緒に戦いたかった。
けれど、これは自業自得だ。境界線を守るという名目で、彼の傷に触れることを躊躇った自分の臆病さが、今のこの孤独を招いたのだ。
「昨日のレイ、様子がおかしかったのに……私、何も聞かなくて」
ハルが静かにハンカチを差し出した。
「…落ち着いて。レイは元いた場所に戻るだけだって言ってた」
"レイのいた場所"
椿は出会う前のレイの事を何も知らなかったのだと突きつけられる。
離れの外に、レイの居場所があるなんて、考えたくなかった。
——けれど、「………学校」
離れの外……あの教室、あの廊下。そこにも、彼の日常は続いていたのだ。
「…冬休みが明けたら、会えるかもしれない」
——それでも、もう椿の「ただいま」に、返事が返ってくることはない。
「それでも辛くなったら、また店においで。椿は一人じゃない」
ハルは一歩前を歩きながら、続ける。
「それは、レイも同じだ。……探そう。レイを縛っているものが何なのか」
その言葉は、凍てついた椿の心の中に、一筋の希望となって落ちた。
「…探す……そっか」
喉の奥で、乾いた笑いが漏れそうになった。
小夜の言葉が蘇る。
『……そうやって耳を塞いでいるのは、楽だったでしょうね。あなたにはわからない。目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざしてきたあなたには……!』
その意味が、やっと少しわかった。
まだ、終わっていない。
レイを見つけた夜、酷い怪我を負い、生きることさえ諦めようとしていた彼の姿を思い出す。
「………ハル。私もう、逃げるのはやめる。どれだけ拒まれても、レイを連れ戻す」
椿は涙を拭い、ハルの背中を追った。
次にレイに会えた時は、もう二度と、境界線なんて引かせない。
たとえ彼がどんな地獄に繋がれていたとしても、今度は一人にしない。




