静かな浸食
侵入の夜から、数日が経った。
今日で、今年が終わる。離れの外では、朝から降っていた冷たい雨が、いつの間にか音もなく白い雪へと変わっていた。
しんしんと冷え込む空気の中で、椿の思考はまた、あの日で止まっていた。
小夜に投げつけられた「同情」という言葉。あの朝以来、その二文字は耳の奥にこびりついて離れない。
「……椿。また、手が止まってる」
すぐ隣で、レイの低い声がした。
椿はハッとして、膝の上に広げていた古書の写真に視線を落とした。ハルが命懸けで撮ってきた、灯郷家の禁忌に触れる記録。
そこから少しでも情報を拾わなければならないのに、活字が滑って、どうしても頭に入ってこない。
「あ、ごめん。……少し考え事をしてたの」
椿は写真を置き、気分を変えようと立ち上がろうとした。冷めた紅茶を淹れ直そうと、ローテーブルのティーポットに手を伸ばす。
だが、椿の指先が陶器の冷たさに触れるより早く、横から伸びてきた大きな手がそれを制した。
「……いい。俺がやる」
レイは当然のようにポットを奪い、キッチンへ向かった。
「…これくらい自分でできるよ。レイだってあまり寝てないでしょ?」
「いいから座ってろ」
短く、拒絶の余地を与えない口調。
あの日以来、レイの「世話」は、献身というより、どこか強迫めいた熱を帯び始めている。
お茶を淹れる、本を片付ける、カーテンを閉める。
椿が何かをしようと身を動かすたびに、レイは敏感に反応し、先回りしてそれを奪い去る。
それは椿を大事に思うがゆえの行動だと分かっているけれど。
(……レイ。最近、私を甘やかしすぎじゃない?)
戻ってきたレイが、湯気の立つカップを椿の前に置いた。
「ありがとう。……ねえ、最近おかしくない?こんなに世話焼きだった?」
レイは椿の隣に腰を下ろし、じっと彼女の横顔を見つめた。
「……おかしいのはお前だ。あの日、あのメイドに何を言われた?……お前、あれからずっと、どこか遠くにいるみたいだ」
椿の喉が、きゅっと締まる感覚がした。
誰にも言えなかった虚しさ。自分を「無知なお荷物」と憐れんだ小夜の視線。完璧に演じているつもりだったのに、レイには、その仮面の下の震えが筒抜けだった。
「……なんでも、ない。本当にただ疲れただけだよ」
強がろうとした声が、不自然に掠れる。
椿は逃げるように視線を逸らしたが、レイの手が椿の頬を包み込み、ゆっくりと自分の方へと引き戻した。
掌から伝わるレイの体温が、やけに熱い。
「……バレバレの嘘つくなよ」
「……前までは、何も聞いてこなかったくせに」
少しだけ子供じみた反論が口をついて出た。以前の彼は、椿が引いた境界線を越えようとはしなかった。
「聞かねぇと、またお前は一人で抱え込んで、無茶するだろ」
「別に無茶なんてしてないけど…」
心配されることに慣れていなくて、つい言葉を返してしまう。けれどレイの瞳は、椿の心の奥底まで全てを見透かしているようで、結局は目を逸らすしかなかった。
「…買い物行ってくる」
椿は気分を変えるために立ち上がり、上着を手に取った。
「……今からか? 雪がひどくなってる」
レイが窓の外を見やりながら、険しい顔をする。
「大丈夫。私、雪は好きだし」
椿が玄関へ向かおうとすると、レイはそこにあった椿のマフラーを手に取り、彼女の首元に丁寧に巻き付けた。
「人通りの少ない場所には行くなよ」
レイの指が椿の顎に微かに触れ、そのままマフラーの形を整える。
「暗くなる前に戻れ」
「…わかってるって」
椿が戸を開けようとした瞬間、レイがもう一度、手を伸ばしてきた。
黒いキャップ。
「……それ、いらない」
「…いるんだよ」
返事は短い。レイは椿の頭にキャップを被せ、つばを指でぐい、と押し下げた。
目元が影に沈む。視線ごと、彼以外の誰からも隠される。
椿は何か言おうと口を開いて、結局、そのまま閉じた。
「いってきます」
外気は刺すように冷たいはずなのに、雪の中に踏み出した椿の首元には、レイの手で巻かれたマフラーが驚くほど温かかった。
本当は、一人でなんでもできると強がるのにも、少し疲れていたのかもしれない。
その一方的なまでの過保護が、本当はたまらなく心地よかった。
独りで戦うことに慣れすぎていた身体に、レイから与えられる体温が馴染んでしまう。
かつては自分が彼を守っているつもりだった。けれど今は、彼に守られ、甘やかされているこの時間が、何物にも代えがたい安らぎになっていた。




