折れた忠誠
「椿、疲れてるなら少し寝ろ。お前の兄だって、いつ動き出すかわからないだろ」
レイが促すと、ハルも隣で頷いた。
「そうだね。俺たちで見張っておくから、今のうちに休んだ方がいい」
「そういう訳には……」
拒もうとする椿の肩を、レイは強引に押し込んだ。
「今お前に倒れられたら困るんだよ。いいから寝ろ」
椿はしばらく不満げにレイを見たが、やがて折れたようにソファを背もたれにして目を閉じた。
静寂が落ちる。
椿の呼吸だけが、少し遅れて部屋の空気を柔らかくした。
「……椿、いろいろと抱え込む子だとは思ってたけど、ここまでとはな」
ハルが苦く笑いながら、寝顔を見つめる。
レイは椿から視線を外さずに言った。
「……ハル。お前はなんで今回、協力したんだ?」
レイがずっと気になっていたことを口にすると、ハルは少し遠くを見る目をした。
「椿が一人で危険なことをするのを、見て見ぬふりしたくなかった。……でも、本当は俺も知りたいんだ。なんで、見えなかったはずの『もの』が見えるようになったのか」
「そういえば、お前も見えるんだったな。いつからだ?」
「……『あの大火災の夜』だよ。レイも?」
レイは無言で頷いた。あの紅蓮の炎が、自分たちの世界を塗り替えた。
「他人事じゃないんだ。俺たち自身も、知らなきゃいけない」
ハルのその言葉に、レイは胸の奥を突かれた気がした。
同じ船に乗った以上、黙っていられる話じゃない。レイは一度息を飲み、事の発端であるリンが――自分の弟だと告げた。
ハルは眉を寄せて、痛みを飲み込むみたいに頷く。
「……尚更、急がないとな」
空が白み始めた頃、部屋の隅でメイドが動いた。
「椿お嬢様……御手洗に行きたいのですが……」
レイはため息をついた。
「逃げようとしてるのか?」
ハルが苦笑いを浮かべる。
「椿から逃げられるとは思えないけどね……」
寝ている椿を揺り起こすのは気が引けたが、背に腹は代えられない。レイは椿の肩に軽く触れた。
「……椿、起きれるか?」
椿がゆっくりと目を開ける。光のない瞳が、一瞬だけレイを捉えた。
「……ごめん。結構寝てた?」
「大丈夫だ。あいつが呼んでる」
椿がメイドの耳栓を外した。
「……なに?」
「椿お嬢様、あの……御手洗に……」
その瞬間、椿の目の奥から温度が抜け、鋭く研がれていくのをレイは見た。
「そんなの、行かなくても死ぬわけじゃないでしょ」
メイドが息を呑む。
(まただ。昨日から、ずっと)
レイが思わず「……椿」と嗜めるように名を呼ぶと、彼女は長く、冷たいため息をついてメイドの腕を掴んだ。
「……行ってくる」
その背中には、光が一切なかった。
二人が部屋を出ていくと、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「レイ。椿とあのメイド、引き離した方がいいかもしれない」
ハルの言葉にレイも同意した。今の椿は、何をするか分からない危うさがある。
だが、目撃者であるメイドを野放しにすれば、椿が危ない。
時計の針の音が、やけに大きい。
10分、15分と時間が過ぎる。
「……何かあったか?」
焦れ始めたレイが腰を浮かせたとき、扉がゆっくりと開き、椿が戻ってきた。
見れば、メイドの目元も手首も、拘束が外れていた。
「……椿?」
部屋に入ったメイドは、力が抜けたように床に手をつき、座り込んだ。
「……今回のことは、誰にも言いません」
掠れた声で、メイドが話し出す。
「美鶴様も……元から当主様に話すつもりはありません」
(何があった……?)
レイの脳裏を疑問がよぎる。椿が外で何をしたのか、何を話したのか。
「なぜ話すつもりがないとわかる? 美鶴は何を企んでるんだ」
「……美鶴様の本意だけは、私からは言えません。それでも、昨夜のことは口外しません」
メイドの目は、恐怖ではなく、何か別の「絶対的なもの」を飲み込んだような目をしていた。椿を見ると、彼女は小さく頷いた。
「このまま帰すのか?」
「早朝の方が目立ちにくいから」
椿はそのまま、玄関までメイドを送りに行った。
後に残されたのは、レイとハル、そして不自然なほどの沈黙だけだった。
「……何がどうなって……」
ハルの呟きが虚しく響く。
椿は戻ってきた。だが、レイの知っている「椿」とは、どこか別の何かにすり替わってしまったような、得体の知れない不安が胸にこびりついて離れなかった。




