再会
書庫への侵入は、拍子抜けするほど滑らかだった。
勝手口の鍵は、最初からその口を開けて待っていた。椿の手回しか、あるいは正体不明の「協力者」の仕業か。
考える余裕などない。ハルは影に紛れ、その深淵へと足を踏み入れた。
扉の向こう側は、別世界だった。
乾いた紙と墨、そして数十年分の沈黙が冷たく堆積している。最低限の灯りが、巨大な本棚の影を化け物のように長く引き伸ばしていた。
(……ここだ)
ハルは息を殺し、棚の隙間へと滑り込んだ。
目当てはただ一つ。「怪異の力を振るう人間」——その禁忌に触れる記録。
帳面、綴じ本、断片的な切り抜き。見出しを拾い、頁をめくる。指先が黒く汚れるのも構わず、情報を貪り食うように視線を走らせる。
「残り香」「憑依」「同化」……そして、「融合」。
記録は、山ほどあった。灯郷家の歴史は、血と怪異で塗り固められている。
なのに。
(……ここもか)
不自然な欠落が、ハルの指先を止めた。
重要な章の途中で、頁が乱暴に引き千切られている。綴じ糸が鋭利な刃物で断たれ、特定の情報だけが丁寧に、かつ執拗に抜き取られた痕。
燃やされたのではない。これは、誰かが「手元に置く」ために奪い去った跡だ。
(捨ててない。……隠しているんだ)
ハルはスマホのシャッターを切った。破り目の繊維、指の脂で光る端、掠れた墨の跡。画面越しに、沈黙の証言をすべて記録していく。
いつまでいられるか。心臓の鼓動が耳障りなほど大きく響く。
その時、外から微かな「音」が届いた。
……足音。
(狐の合図はない……誰だ?)
ハルは咄嗟に棚の影へ身を潜め、入口を凝視した。
重い扉が軋み、ゆっくりと開く。
「……何もいないわね」
女の声。独り言のように冷淡な響き。
ハルは背筋を走る戦慄を抑え、死角へ移動しようとした。だが——
ギ、と床が低く鳴った。
一瞬、足の裏に伝わる妙な浮遊感。
(……床下、空洞か?)
思考がそこに触れた瞬間、女の足音がぴたりと止まった。
「……誰?」
空気が凍りつく。見つかる、と確信したその瞬間。
カチリ、と硬質な音を立てて、逃げ道を塞ぐように扉が閉まった。
風が抜けるような、軽やかで暴力的なまでの速度。
女が振り向くより早く、闇から伸びた腕がその細い首筋を捉えた。
ドサリ、と重苦しい音が沈黙を上書きする。
糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた女の背後に、一人の男が立っていた。
月明かりが、ずれたフードの隙間から、彼の黒い髪を銀色に縁取る。
男は冷徹な眼差しで、気絶した女の意識を確認し——。
ハルは、その横顔から目を逸らせなかった。
脳の奥底に焼き付いた、忘れようとしても忘れられない輪郭。
「…………レイ、なのか?」
男の手が、止まった。
静寂。一拍ののち、男がゆっくりと顔を上げる。その瞳が、夜空のような深さでハルを射抜いた。
「………ハル?」
名前を呼ばれた瞬間、喉の奥が熱く、変な形に固まった。
再会を喜ぶ暇も、恨み言をぶつける余裕も与えられない。
「レイ! ハル!」
扉を蹴破るようにして、椿が飛び込んできた。
華やかな宴の装いを纏いながら、なりふり構わず二人を呼ぶ声。レイが鋭く制する。
「大きな声を出すな。話は後だ。……こいつを運び出すぞ」
レイは迷いなく女を抱え上げた。その背中には、感傷を許さない切迫感が漂っている。
ハルは頷きかけ、——けれど、先ほど踏み抜いた「床」に、強烈な違和感を覚えた。
埃が薄い。誰かが何度も踏み、隠し、開けてきた跡。
ハルは、逃げ出す足を引き止め、指先を板の隙間にねじ込んだ。
(……ここだ。ここにある)
爪が隙間に食い込む。板が、わずかに浮き上がった。
この下に、灯郷家が隠し通してきた“何か”がある。




