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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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灯郷の宴


母屋はいつもより灯りが多かった。


——宴会が始まる


椿が襖をくぐった瞬間、ざわめきが一段低くなる。


「……椿様」「お久しぶりですね」「まあ、お綺麗になられて」


笑い声に混じる視線が、肌を撫でるみたいにまとわりつく。


椿は口元だけを整え、完璧な角度で頭を下げた。


父が立ち上がる気配。杯を置く音。話の中心が一箇所に集まっていく。


「……この場を借りて、ひとつ知らせておく」


椿は瞬きを一度だけする。胸の奥が遅れて跳ねた。


「椿の縁談を進める。相応しい相手を、ここで見定める」


父の言葉が、祝杯の音と共に広間に響き渡る。


「まあ!」「いよいよですか」「ご立派なお話で……」


湧き上がる拍手。

品評するような無数の視線。椿は胃の奥がせり上がるような不快感を、微笑みの下に押し込めた。


「ありがとうございます。お父様」


自分の声が、どこか遠い場所から聞こえる気がした。



来客達の挨拶が始まった。途切れない。


「椿さん、覚えておいでかな。叔父の——」


「お母上に似て綺麗になったな」


「背は伸びたか? 勉学はどうだ」


差し出される杯。椿は両手を添えて、柔らかく首を振る。


「申し訳ございません。未成年ですので」


「ああ、そうだったな。では水を」

「ありがとうございます」


口を潤すだけ。それでも喉は乾く。


(今は時間を稼ぐ)


突如、脳裏をかすめたのは、陶器が砕ける乾いた音。


目の前の男が喋り続ける「灯郷家への貢献」という退屈な言葉の裏で、狐の鋭い感覚がレイの動向を伝えてくる。


——始まった


男の言葉に深く頷きながら、椿は心臓の鼓動を一定に保つことに全神経を注いだ。


狐の目と耳が、情報を拾う。——『止まるな』。


椿は袖の中で指を動かし、狐の尻尾を揺らす。合図になる、それだけを。


すぐ、別の感覚が返ってきた。

狐に触れる空気が変わる。


(……書庫に入った)


椿は息を整えた。いま頬が強ばったら終わりだ。



そのうち、ひとつの家門が前に出たとき、空気が変わった。

父の声が滑らかになる。笑みが深くなる。椿の背中が冷える。


「遠いところをよく来てくれた。いや、君の父上にはいつも——」

「恐れ入ります。こちらこそ、今宵はお招きいただき光栄でございます」


(……本命か)


相手の男が語り始めた。長い。丁寧すぎて、終わりが見えない。


「……灯郷家の益は、いずれ——」

「我が家としても、ぜひ——」


椿は笑顔のまま頷き続ける。爪が皮膚に食い込むのが分かる。


視線を上げる。壁の時計。ハルが書庫に入ってから二時間を越えている。

その瞬間、兄の美鶴と目が合った。


笑っているようで、笑っていない目。


椿はすぐに視線を戻した。戻したはずなのに、遅かった。


「父上」


美鶴が、自然な声で言った。


「椿が少し疲れているようです。席を外させてもよろしいでしょうか」


「……そうか」父は上機嫌のまま頷く。「無理はさせるな」


椿は一礼し、美鶴の後に続いた。


「まぁ、兄妹仲のよろしいこと――」


背中に視線が刺さる。見送る視線と、測る視線が混ざっている。


廊下に出ると、喧騒が遠のいた。灯りの数が減り、空気が冷たくなる。

美鶴が足を止め、椿を振り返る。


「……なにを企んでいる」


椿は呼吸を乱さない。立ち止まったまま、視線だけをまっすぐ返す。


「なんのことでしょう。企んでいるのは、お兄様の方では?」


美鶴の口元が僅かに動く。笑う寸前で止まった。


「俺は当主の座以外に興味はない」


「……なぜ、それほどまでに当主の座にこだわるのですか」


声は丁寧なまま、体の軸だけは崩さない。


「お前が知る必要はない」


美鶴は視線だけを廊下の先へ向ける。


「最近、屋敷が騒がしいな」


視界の端が、ちりちりと焼け落ちるような感覚がした。


宴会の喧騒など、彼にとっては背景の雑音に過ぎない。その彼がわざわざ口にした「音」が何を指しているのか、椿には嫌というほど理解できた。


(……まさか、気づいてる?)


気づいていて、放っておくはずがない。

それでも今、動かない。止めない理由があるのか。


椿は微笑みを保ったまま、美鶴の意図を探る。


「宴会ですから。人が増えれば、騒がしくもなります」


美鶴は椿を見ている。皮膚の下を探るみたいに。


「……戻れ。父の機嫌を損ねるな。お前が人形を演じている間は、平和なのだから」


美鶴の言葉には、慈悲も憎悪もなかった。ただ、使い古された道具を見るような、絶対的な無関心。


「はい。失礼いたします」


優雅に一礼してその場を去る。だが、踵を返した椿の胸中は嵐のような焦燥に支配されていた。


(これ以上動くのは危険だ)


「人形を演じろ」という命令を無視し、椿は最短距離で広間へ戻った。


父や客たちに、微塵の動揺も見せずに「体調が優れないため」と別れの挨拶を告げる。


父の機嫌が良いうちに、正式な手順を踏んで「舞台」を下りる。それが、怪しまれずに母屋を動くための唯一の鍵だ。


広間を出た瞬間、椿は影に滑り込んだ。


袖の中で、もう一度指を動かす。狐の尻尾を立てる。


(ハル、レイ。作戦中止。すぐに引いて!)


——反応は、返ってこない。


書庫の曲がり角。そこに、張られているはずの「護符糸」の感触がない。


レイの放つ鋭い殺気も、闇に溶けるような微かな呼吸音も、何ひとつ伝わってこない。


(レイ……? どこにいるの?)


見張りがいない。それは、この場所がすでに無防備なのか、あるいは。


今更、周りの目を気にしても意味はない。

椿は祈るような心地で、重い扉を押し開けた。

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