微かな違和感
椿が腕に抱えてきたのは、数冊の分厚い本だった。どれも古びているが、その背表紙からは大切に扱われてきたことが伺える。
離れの一室。薄いカーテンを透かした冬の光が、床の上に頼りなく落ちている。
「……それ、なんだよ」
ソファの端に腰を下ろした彼女に、レイは視線だけで問いかけた。
「友達に、借りたの」
椿は視線を合わせず、膝の上でページを開く。
「自分の部屋で読めばいいだろ」
「……こっちの方が、落ち着くから」
それ以上の会話はなかった。
紙をめくる規則正しい音だけが、砂時計のように時を刻む。指先でページの端を揃え、じっと行を追う。少しの沈黙の後、急にページが数枚めくられる。
気にかけているわけじゃない。だが、彼女の読書のリズムが、レイの脳裏に刻まれていく。
――ちり、と腕の内側が鳴った。
仕込まれた護符糸が、異物の接近を報せる。
「……誰か来た」
レイが背筋を伸ばすと、椿の指が止まった。
次の瞬間、彼女の瞳から温度が消える。すっと、目の奥が「灯郷の人間」に変わる。
「母屋からだ。こっちに向かってる」
「……わかった」
椿の動きは、迷いがなかった。本を閉じて立ち上がると、クローゼットの扉を滑らせる。
「レイ、こっち。早く」
「……は?」
「いいから、早く」
抵抗する間もなく袖を掴まれ、押し込まれる。レイの背中を無理やり押し込み、持ってきた本も一緒に滑り込ませた。
扉が閉まる。
暗闇。古い木の匂いと、微かに残る彼女と同じ匂い。
クローゼットの中で、レイは手に残った本の重みを確かめた。捲れた表紙の端から、見慣れた二文字が覗く。
――『怪異』。
喉の奥が、砂を飲んだように乾いた。
(本当にリンの事を調べてるのか?)
外で足音が止まる。冷徹で、迷いのない歩調。
「椿」
男の声が、クローゼットの中にも僅かに届いた。
「……はい。お兄様」
椿の声が、一瞬で「形」を変えた。
丁寧で、淀みなく、けれど血の通っていない温度。それはレイが知る彼女の声ではなく、灯郷という檻が作らせた「模範回答」だった。
「父上からの伝言だ。クリスマスの宴会には必ず出席しろ」
「……出席、ですか」
「相手を選ぶ場だ。政略結婚。お前もわかっているだろう」
クローゼットの隙間から、部屋の空気が凍りついていくのがわかった。
「……嫌です」
椿の声が、きっぱりと落ちる。
「これは命令だ。それとも――また『あの部屋』に入るか?」
椿の呼吸が、かすかに乱れた。
クローゼットの壁一枚を隔てて、彼女の心臓の鼓動が激しくなったのが、レイの指先にまで伝わってくる気がした。
「……その話は、やめてください」
拒絶。けれど、そこには隠しきれない怯えが混ざっていた。
「いいか。灯郷の恥になることだけは、許さない」
足音が遠ざかり、廊下の板が鳴る。気配が完全に消えた後、椿が扉に鍵をかける音がした。
しばらくして、クローゼットの扉がゆっくりと開く。
「……もう、大丈夫」
椿はレイを見ようとしなかった。
外に出たレイも、伸びをしようとして腕を下ろす。視線のやり場に困り、彼女の横顔を盗み見るのが精一杯だった。
「……閉じ込めて、ごめん」
「別に、気にしてない」
椿は何も説明しなかった。
ソファに戻り、また本を開く。ページをめくる速度は、さっきよりずっと速い。
落ち着いているふりだけは、残酷なほどに上手かった。
レイは静かに椿の隣に座って、本を1冊手に取った。
椿が一瞬ぴくりと揺れて、レイを見る。
「…俺も読む」
椿は少し表情を緩め、また本に視線を落とした。
今は何も言わない。触れない。
部屋には本を捲る音だけが静かに響いた。




