駄菓子屋の書庫
ハルは品出しの終わった段ボールを潰していた。
リズミカルな音だけが、無人の店内に響く。手を動かしている間だけは、思考のノイズを止められた。
だが、作業が途切れた瞬間、結局そこに行き着く。
毎日エマと顔を出していた椿が、今週は一度も姿を見せていない。
『椿の様子がおかしい。……家の厄介事かも』
月曜にエマが残していった言葉が、胸を掠める。
「用事があるんだろう」と割り切るには、彼女が背負う「灯郷」という名は重すぎた。
ハルは軍手を脱ぎ、スマホを取り出した。
打っては消し、数秒迷ってから、短く打ち直す。
『最近見てないけど、元気か? 時間ができたらまたおいで』
送信ボタンを押し、深く息を吐く。
数分後、震えた画面には一言だけ返信があった。
『行く』
凝り固まっていた肺の奥が、ようやく解けた気がした。
⸻
入り口の引き戸が開き、冬の冷え切った空気が足元を滑った。
「いらっしゃ――」
顔を上げたハルの言葉が止まる。
椿だった。制服の着こなしも、整えられた髪もいつも通り。だが、その瞳には、隠しきれない疲労が見てとれた。
「……来てくれたんだ」
椿は小さく頷き、店内をゆっくりと見渡した。誰もいないことを確かめるような、落ち着かない視線。
「急にごめん。迷惑じゃなかった?」
「呼び出したのは俺だよ」
ハルはあえて軽いトーンで返し、カウンターに肘をついた。
「忙しかった?」
椿は一拍、間を置いた。嘘をつく時か、言葉を慎重に選ぶ時の癖だ。
「……ちょっと、ね」
「そっか」
深追いはしない。代わりに、彼女の顔を覗き込むようにして言葉を継いだ。
「エマが心配してた。月曜の椿は、少し変だったって」
椿は小さく息を吐いて、肩をすくめる。
「……心配性」
「椿のことに関しては、特にね」
椿の口元が、わずかに緩んだ。
「最近……猫を拾ったの」
「猫?」
「怪我をしていて。放っておけなくて……少し、手がかかってるだけ」
「それは大変だな。……隠さなきゃいけないような猫なの?」
椿の眉がピクリと跳ねた。肯定と同じ反応だったが、ハルは追及を飲み込み、棚の下に手を伸ばした。
「なら、これ持っていきなよ。猫用じゃないけど、味の薄い魚の缶詰。非常食になる」
椿は耐えきれないみたいに、ふっと笑った。
「……ありがとう。もらっていこうかな」
笑い声が消えると、店内の空気がふっと密度を増した。
椿が視線を落とし、指先でカウンターの縁をなぞる。
「……ハル。少し、聞いてもいい?」
「ああ」
彼女は一度だけ入り口を振り返り、声を潜めた。
「人間が、怪異と同じ力を使うところ、見たことある?」
ハルの背筋に、冷たい感触が走った。
「……人間が?」
「うん。昨日、学校の前で見たの。…でも気配はあっても、取り憑かれてる感じはしなかった」
「そんなこと……」
言いかけて、ハルは無意識に右手のひらを握りしめた。
皮膚の下に、古傷の疼きが蘇る。
燃えるような闇に引きずり込まれそうになった記憶。
離したら終わる、と直感した誰かの手の熱。
「……断言はできないけど」
ハルは努めて冷静な声を出す。
「強い怪異に当てられた人間が、その欠片を“残す”ことはあるかもしれない。……一種の後遺症として」
「もしかして…ハルも?」
「どうかな。ただ、俺も一度死にかけた。それ以来、見えるようにはなった。……力とは呼べない、不便なものだけど」
それ以上は語らなかった。彼女の顔色がこれ以上白くなるのは避けたかった。
「それを調べてるのか?」
椿は頷く。
「灯郷の書庫なら何かあるかもしれないけど、簡単には入れなくて…」
ハルはカウンターの奥に回り、重いキーホルダーを取り出した。
「うちのは、灯郷ほど立派じゃないけど。……少しは役に立つかもしれない」
椿は目を見開いたあと、ふっと納得したように微笑んだ。
⸻
店の奥、古い襖を引いた先。
カビと古い紙、それから乾いた墨の匂いが充満する小部屋。
「……すごい」
壁一面を埋める歪な背表紙の群れに、椿が息を呑む。
分厚い帳面、手書きの図解、意味をなさない記号の羅列。
「先代からの貰い物ばかりだけどね。適当に座って」
二人は埃っぽい机を囲み、手分けしてページをめくった。
指先を走らせるが、肝心な部分が空白になっているような、もどかしい感覚だけが募る。
椿のページをめくる速度が上がる。焦りが、紙を擦る音に混じり始めた。
「……ない。どこにも」
椿が力なく呟き、開いたままの本に視線を落とす。
ハルは自分の手元にあった分厚い帳面を閉じ、まっすぐに彼女を見た。
「灯郷の歴史には、うちの蔵書じゃ敵わないか」
「これだけ古い資料が集まっている場所なら、断片くらいは残っててもいいのに」
「……それだけ珍しい事例なのか、それとも」
ハルは一度言葉を切った。埃の舞う空気の中で、あえて声を低く落とす。
「もし、人間が怪異の力を使えた前例があるとして。……それが誰かにとって『不都合な事実』だったとしたら?」
椿がはっとして顔を上げた。その瞳に、灯りに照らされた書架の影が落ちる。
「まさか、意図的に?」
「可能性はゼロじゃない。少なくとも、この『駄菓子屋』に流れてくる程度の情報からは、注意深く間引かれているのかもな」
沈黙が部屋を支配する。二人の間で、見えない巨大な壁がそびえ立ったような感覚。
「……行くしかないんだな。本丸に」
ハルの言葉に、椿はゆっくりと、重い頷きを返した。その表情には、覚悟と、隠しきれない忌避感が混ざり合っている。
「……気が進まないけど、作戦がないわけじゃないの」
「作戦?」
「クリスマスは、母屋に灯郷の関係者が集まるの。人が多ければ、書庫の警備も薄くなるはず」
計算を始めた彼女の瞳に、鋭い光が戻る。
「……ちょうど、終業式の日」
椿は、縋るような視線をハルに向けた。
「……一緒に、来てくれる?」
予想外の言葉だった。
常に凛として、一人で立とうとしていた彼女が、初めて見せた隙。
「わかった。その代わり、準備は徹底しよう。出入り口、時間、引き際。……絶対に無茶はしないこと」
椿は、ようやく長く、深い息を吐き出した。
「……うん」
帰り際、ハルは約束通り缶詰を袋に入れて渡した。
「これ、本当にくれるんだ?」
椿の表情が緩む。
「猫によろしくね」
そう言って、袋を握らせる。
椿は一瞬だけ戸惑い、それから大切そうに袋を抱えた。
「……ありがとう」
彼女が去ったあとの冷たい空気の中で、ハルは自分のスマホを見つめた。
連絡してよかったのかは、まだわからない。
ただ、彼女が一人で闇に飛び込むことだけは、阻止できた。
きっとまた、大きな事件が起きようとしている。
その予感だけが、冬の空気みたいに、静かに残っていた。




