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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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駄菓子屋の書庫


ハルは品出しの終わった段ボールを潰していた。


リズミカルな音だけが、無人の店内に響く。手を動かしている間だけは、思考のノイズを止められた。


だが、作業が途切れた瞬間、結局そこに行き着く。


毎日エマと顔を出していた椿が、今週は一度も姿を見せていない。


『椿の様子がおかしい。……家の厄介事かも』


月曜にエマが残していった言葉が、胸を掠める。


「用事があるんだろう」と割り切るには、彼女が背負う「灯郷」という名は重すぎた。


ハルは軍手を脱ぎ、スマホを取り出した。


打っては消し、数秒迷ってから、短く打ち直す。


『最近見てないけど、元気か? 時間ができたらまたおいで』


送信ボタンを押し、深く息を吐く。


数分後、震えた画面には一言だけ返信があった。


『行く』


凝り固まっていた肺の奥が、ようやく解けた気がした。



入り口の引き戸が開き、冬の冷え切った空気が足元を滑った。


「いらっしゃ――」


顔を上げたハルの言葉が止まる。


椿だった。制服の着こなしも、整えられた髪もいつも通り。だが、その瞳には、隠しきれない疲労が見てとれた。


「……来てくれたんだ」


椿は小さく頷き、店内をゆっくりと見渡した。誰もいないことを確かめるような、落ち着かない視線。


「急にごめん。迷惑じゃなかった?」


「呼び出したのは俺だよ」


ハルはあえて軽いトーンで返し、カウンターに肘をついた。


「忙しかった?」


椿は一拍、間を置いた。嘘をつく時か、言葉を慎重に選ぶ時の癖だ。


「……ちょっと、ね」


「そっか」


深追いはしない。代わりに、彼女の顔を覗き込むようにして言葉を継いだ。


「エマが心配してた。月曜の椿は、少し変だったって」


椿は小さく息を吐いて、肩をすくめる。


「……心配性」


「椿のことに関しては、特にね」


椿の口元が、わずかに緩んだ。


「最近……猫を拾ったの」


「猫?」


「怪我をしていて。放っておけなくて……少し、手がかかってるだけ」


「それは大変だな。……隠さなきゃいけないような猫なの?」


椿の眉がピクリと跳ねた。肯定と同じ反応だったが、ハルは追及を飲み込み、棚の下に手を伸ばした。


「なら、これ持っていきなよ。猫用じゃないけど、味の薄い魚の缶詰。非常食になる」


椿は耐えきれないみたいに、ふっと笑った。


「……ありがとう。もらっていこうかな」


笑い声が消えると、店内の空気がふっと密度を増した。


椿が視線を落とし、指先でカウンターの縁をなぞる。


「……ハル。少し、聞いてもいい?」


「ああ」


彼女は一度だけ入り口を振り返り、声を潜めた。


「人間が、怪異と同じ力を使うところ、見たことある?」


ハルの背筋に、冷たい感触が走った。


「……人間が?」


「うん。昨日、学校の前で見たの。…でも気配はあっても、取り憑かれてる感じはしなかった」


「そんなこと……」


言いかけて、ハルは無意識に右手のひらを握りしめた。


皮膚の下に、古傷の疼きが蘇る。


燃えるような闇に引きずり込まれそうになった記憶。

離したら終わる、と直感した誰かの手の熱。


「……断言はできないけど」


ハルは努めて冷静な声を出す。


「強い怪異に当てられた人間が、その欠片を“残す”ことはあるかもしれない。……一種の後遺症として」


「もしかして…ハルも?」


「どうかな。ただ、俺も一度死にかけた。それ以来、見えるようにはなった。……力とは呼べない、不便なものだけど」


それ以上は語らなかった。彼女の顔色がこれ以上白くなるのは避けたかった。


「それを調べてるのか?」


椿は頷く。


「灯郷の書庫なら何かあるかもしれないけど、簡単には入れなくて…」


ハルはカウンターの奥に回り、重いキーホルダーを取り出した。


「うちのは、灯郷ほど立派じゃないけど。……少しは役に立つかもしれない」


椿は目を見開いたあと、ふっと納得したように微笑んだ。



店の奥、古い襖を引いた先。


カビと古い紙、それから乾いた墨の匂いが充満する小部屋。


「……すごい」


壁一面を埋める歪な背表紙の群れに、椿が息を呑む。


分厚い帳面、手書きの図解、意味をなさない記号の羅列。


「先代からの貰い物ばかりだけどね。適当に座って」


二人は埃っぽい机を囲み、手分けしてページをめくった。

指先を走らせるが、肝心な部分が空白になっているような、もどかしい感覚だけが募る。


椿のページをめくる速度が上がる。焦りが、紙を擦る音に混じり始めた。



「……ない。どこにも」


椿が力なく呟き、開いたままの本に視線を落とす。

ハルは自分の手元にあった分厚い帳面を閉じ、まっすぐに彼女を見た。


「灯郷の歴史には、うちの蔵書じゃ敵わないか」


「これだけ古い資料が集まっている場所なら、断片くらいは残っててもいいのに」


「……それだけ珍しい事例なのか、それとも」


ハルは一度言葉を切った。埃の舞う空気の中で、あえて声を低く落とす。


「もし、人間が怪異の力を使えた前例があるとして。……それが誰かにとって『不都合な事実』だったとしたら?」


椿がはっとして顔を上げた。その瞳に、灯りに照らされた書架の影が落ちる。


「まさか、意図的に?」


「可能性はゼロじゃない。少なくとも、この『駄菓子屋』に流れてくる程度の情報からは、注意深く間引かれているのかもな」


沈黙が部屋を支配する。二人の間で、見えない巨大な壁がそびえ立ったような感覚。


「……行くしかないんだな。本丸に」


ハルの言葉に、椿はゆっくりと、重い頷きを返した。その表情には、覚悟と、隠しきれない忌避感が混ざり合っている。


「……気が進まないけど、作戦がないわけじゃないの」


「作戦?」


「クリスマスは、母屋に灯郷の関係者が集まるの。人が多ければ、書庫の警備も薄くなるはず」


計算を始めた彼女の瞳に、鋭い光が戻る。


「……ちょうど、終業式の日」


椿は、縋るような視線をハルに向けた。


「……一緒に、来てくれる?」


予想外の言葉だった。

常に凛として、一人で立とうとしていた彼女が、初めて見せた隙。


「わかった。その代わり、準備は徹底しよう。出入り口、時間、引き際。……絶対に無茶はしないこと」


椿は、ようやく長く、深い息を吐き出した。


「……うん」


帰り際、ハルは約束通り缶詰を袋に入れて渡した。


「これ、本当にくれるんだ?」


椿の表情が緩む。


「猫によろしくね」


そう言って、袋を握らせる。

椿は一瞬だけ戸惑い、それから大切そうに袋を抱えた。


「……ありがとう」


彼女が去ったあとの冷たい空気の中で、ハルは自分のスマホを見つめた。


連絡してよかったのかは、まだわからない。


ただ、彼女が一人で闇に飛び込むことだけは、阻止できた。


きっとまた、大きな事件が起きようとしている。


その予感だけが、冬の空気みたいに、静かに残っていた。


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