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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
二章. 椿の屋敷

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泥水を飲む


昼を回っても、朝の椿の声が頭の中で繰り返し鳴っていた。


――いってきます。


そんな当たり前の言葉を、レイはいつの間にか忘れていた。舌打ちして打ち消そうとするのに、知らないはずの“日常”がじわじわと脳内を侵食してくる。


(……あいつ、本当に大丈夫か)


最初は椿のことを、何も知らない守られるだけの“お嬢様”だと思っていた。

夏が終わってからは、瞳の奥に怒りみたいなものを宿していると思った。

ここに来てからは、負けず嫌いで、強がりで――。


けれど今朝は、少し違った。

声が弱々しかった。姿勢はいつも通りきれいで、表情も崩していないのに、瞳だけが揺れているように見えた。


人には無茶するなと言っておきながら、自分のことは平気で後回しにする。

そういうところが、妙に腹が立つ。


ふいに、外で声がした。

内容までは聞こえないが、椿の声に聞こえた。


窓の外は見ない。自分には関係ない。――それは建前だ。

椿に言われた通り、レイは極力動かなかった。動けない理由も、動かない理由も、どちらも同じだけ重い。


少しして、隣の部屋で乱暴に扉が開く音がした。

普段ほとんど物音を立てない椿らしくない。

いくつか雑な音が続いて、唐突に静かになる。


(……やっぱり、今日はおかしい)


レイは迷った。

勝手に離れを歩き回るな、と言われたばかりだ。だが、朝の椿の声が、耳の奥でまた鳴る。


扉の前に立つと、ほんの少しだけ隙間が空いていた。

覗くだけ。そう言い聞かせて、目を向けた。


制服のまま、鞄も持ったまま、椿が倒れていた。


扉をノックしても、呼びかけても反応がない。

血の気が引いて、レイは扉を押し開けた。


……息はしている。


ただ、呼吸は荒く、汗がひどい。

一瞬躊躇って、それでも額に手を当てる。


「……熱」


掌が火傷しそうに熱かった。

よく帰ってこれたな、と本気で思う。


レイは椿を寝かせ直し、布団をかけた。抱えた体は熱くて、驚くほど軽い。

この家のどこに何があるのかも分からないまま、見つけたタオルを濡らし、額に置く。


うなされている。

レイにできることは多くない。ただ、傍で呼吸を確かめるしかなかった。――椿が、そうしてくれたように。


見ているだけで、勝手に思い出してしまう。

四月から教室で見てきた椿。

ここに来てから見てきた椿。

本当に、理解できない女だった。


どれくらいそうしていたのか。

辺りが暗くなってきた頃、レイはベッドの端に背を預け、床に座ったまま、意識を落とした。



荒い呼吸が聞こえる。

助けを呼ぶ声が聞こえる。泣き叫ぶ声が聞こえる。


目を開く瞬間、突風が髪を叩き抜けた。

瞳が焼ける。腕で庇って、そっと開けると、空気が燃えるみたいに熱い。体のどこかから血の気配が噴き出す。


路地裏。

子どもたちが横をすり抜けて駆けていく。逃げないと、と思うのに足が動かない。


「レイ!」


後ろで名前を呼ぶ声。振り返っても顔が見えない。

それでも、その“誰か”はレイの手を強く掴んで走り出す。


手のひらが熱い。血の匂いが混じる。

でも、離さない。離されたら終わりだと思った。



「……っ!」


目を開くと、夜の室内だった。暗い。

ここが椿の部屋だと理解するのに、数秒かかった。


夢だと思っていた荒い呼吸は、夢じゃない。


椿が苦しんでいる。


息がどんどん浅くなり、助けを呼ぼうとしているのは分かるのに、声にならない。

まるで泥水の中に沈んでいるみたいに、椿の胸が小さく波打つ。レイは自分の呼吸まで浅くなるのを感じた。


枕元に淡い光。椿の狐が歪んで、散りそうに揺れていた。


「……椿! どうした!?」


声をかけても反応はない。

レイは手首を掴んで引き寄せる。狐の光が分散し、力なく消えかける。


「おい、椿! こっち見ろ!」


――聞こえてない。


枕元の灯りを点ける。

ベッドに上がり、椿の肩ごと引き寄せる。


「落ち着け。……息を吐け」


言った直後に気づく。自分が全然落ち着いていない。


額に置いていたはずのタオルを掴み直し、椿の顔に当てた。冷たさでここに引き戻すみたいに。

そのまま視線を合わせにいく。


「椿。見えるか?」


真っ直ぐ目を覗き込む。

少しずつ焦点が合っていく。


「……レイ?」


か細い声が、荒い呼吸の合間に落ちた。


レイは、気づかれない程度に息を吐いて、声をかけ続ける。


「大丈夫だ。……落ち着いて息してみろ」


椿の瞳から大粒の涙が零れた。

呼吸はまだ荒い。でも――戻ってきた。


理由なんて分からない。ただ、椿の手を強く握ってしまう。肩を抱く手にも、力が入った。


どれくらいそうしていただろう。

椿が、途切れ途切れに言った。


「……暗くて……」


椿から聞いたことのない声だった。弱さを隠さない声。

続きを待ったが、言葉は続かなかった。


「……そうか」


レイは水を渡した。

さっきタオルを替えながら、椿が目を覚ましたら飲めるようにと、近くに置いておいたものだ。


怒られるかもしれない。勝手に部屋に入ったことも、勝手に触れたことも。

でも、今は――近くにいてよかった、と思ってしまった。


落ち着いた椿は、熱のせいか、またすぐ眠りに落ちた。


レイは、ふと椿の手元を見る。

椿に似合わない――短く切り揃えられた爪だった。


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