泥水を飲む
昼を回っても、朝の椿の声が頭の中で繰り返し鳴っていた。
――いってきます。
そんな当たり前の言葉を、レイはいつの間にか忘れていた。舌打ちして打ち消そうとするのに、知らないはずの“日常”がじわじわと脳内を侵食してくる。
(……あいつ、本当に大丈夫か)
最初は椿のことを、何も知らない守られるだけの“お嬢様”だと思っていた。
夏が終わってからは、瞳の奥に怒りみたいなものを宿していると思った。
ここに来てからは、負けず嫌いで、強がりで――。
けれど今朝は、少し違った。
声が弱々しかった。姿勢はいつも通りきれいで、表情も崩していないのに、瞳だけが揺れているように見えた。
人には無茶するなと言っておきながら、自分のことは平気で後回しにする。
そういうところが、妙に腹が立つ。
ふいに、外で声がした。
内容までは聞こえないが、椿の声に聞こえた。
窓の外は見ない。自分には関係ない。――それは建前だ。
椿に言われた通り、レイは極力動かなかった。動けない理由も、動かない理由も、どちらも同じだけ重い。
少しして、隣の部屋で乱暴に扉が開く音がした。
普段ほとんど物音を立てない椿らしくない。
いくつか雑な音が続いて、唐突に静かになる。
(……やっぱり、今日はおかしい)
レイは迷った。
勝手に離れを歩き回るな、と言われたばかりだ。だが、朝の椿の声が、耳の奥でまた鳴る。
扉の前に立つと、ほんの少しだけ隙間が空いていた。
覗くだけ。そう言い聞かせて、目を向けた。
制服のまま、鞄も持ったまま、椿が倒れていた。
扉をノックしても、呼びかけても反応がない。
血の気が引いて、レイは扉を押し開けた。
……息はしている。
ただ、呼吸は荒く、汗がひどい。
一瞬躊躇って、それでも額に手を当てる。
「……熱」
掌が火傷しそうに熱かった。
よく帰ってこれたな、と本気で思う。
レイは椿を寝かせ直し、布団をかけた。抱えた体は熱くて、驚くほど軽い。
この家のどこに何があるのかも分からないまま、見つけたタオルを濡らし、額に置く。
うなされている。
レイにできることは多くない。ただ、傍で呼吸を確かめるしかなかった。――椿が、そうしてくれたように。
見ているだけで、勝手に思い出してしまう。
四月から教室で見てきた椿。
ここに来てから見てきた椿。
本当に、理解できない女だった。
どれくらいそうしていたのか。
辺りが暗くなってきた頃、レイはベッドの端に背を預け、床に座ったまま、意識を落とした。
⸻
荒い呼吸が聞こえる。
助けを呼ぶ声が聞こえる。泣き叫ぶ声が聞こえる。
目を開く瞬間、突風が髪を叩き抜けた。
瞳が焼ける。腕で庇って、そっと開けると、空気が燃えるみたいに熱い。体のどこかから血の気配が噴き出す。
路地裏。
子どもたちが横をすり抜けて駆けていく。逃げないと、と思うのに足が動かない。
「レイ!」
後ろで名前を呼ぶ声。振り返っても顔が見えない。
それでも、その“誰か”はレイの手を強く掴んで走り出す。
手のひらが熱い。血の匂いが混じる。
でも、離さない。離されたら終わりだと思った。
⸻
「……っ!」
目を開くと、夜の室内だった。暗い。
ここが椿の部屋だと理解するのに、数秒かかった。
夢だと思っていた荒い呼吸は、夢じゃない。
椿が苦しんでいる。
息がどんどん浅くなり、助けを呼ぼうとしているのは分かるのに、声にならない。
まるで泥水の中に沈んでいるみたいに、椿の胸が小さく波打つ。レイは自分の呼吸まで浅くなるのを感じた。
枕元に淡い光。椿の狐が歪んで、散りそうに揺れていた。
「……椿! どうした!?」
声をかけても反応はない。
レイは手首を掴んで引き寄せる。狐の光が分散し、力なく消えかける。
「おい、椿! こっち見ろ!」
――聞こえてない。
枕元の灯りを点ける。
ベッドに上がり、椿の肩ごと引き寄せる。
「落ち着け。……息を吐け」
言った直後に気づく。自分が全然落ち着いていない。
額に置いていたはずのタオルを掴み直し、椿の顔に当てた。冷たさでここに引き戻すみたいに。
そのまま視線を合わせにいく。
「椿。見えるか?」
真っ直ぐ目を覗き込む。
少しずつ焦点が合っていく。
「……レイ?」
か細い声が、荒い呼吸の合間に落ちた。
レイは、気づかれない程度に息を吐いて、声をかけ続ける。
「大丈夫だ。……落ち着いて息してみろ」
椿の瞳から大粒の涙が零れた。
呼吸はまだ荒い。でも――戻ってきた。
理由なんて分からない。ただ、椿の手を強く握ってしまう。肩を抱く手にも、力が入った。
どれくらいそうしていただろう。
椿が、途切れ途切れに言った。
「……暗くて……」
椿から聞いたことのない声だった。弱さを隠さない声。
続きを待ったが、言葉は続かなかった。
「……そうか」
レイは水を渡した。
さっきタオルを替えながら、椿が目を覚ましたら飲めるようにと、近くに置いておいたものだ。
怒られるかもしれない。勝手に部屋に入ったことも、勝手に触れたことも。
でも、今は――近くにいてよかった、と思ってしまった。
落ち着いた椿は、熱のせいか、またすぐ眠りに落ちた。
レイは、ふと椿の手元を見る。
椿に似合わない――短く切り揃えられた爪だった。




