蘇る暗闇
火曜日の朝、椿は体のだるさで目を覚ました。
眠れたはずなのに、芯だけがずっと重い。連日の寝不足が、遅れて押し寄せたみたいだった。指先を動かすだけで関節が軋む。
布団の中で一瞬だけ「今日はやめよう」と思いかけて、すぐに打ち消す。
学校には行く。
普段と違う動きをして、ほんの少しでも父や兄にレイの存在を匂わせないように。
離れの薄い空気の中で、椿はゆっくり起き上がる。立ち上がると、背骨の一本一本が痛むようだった。肩も、首も、重い。
……痛い。
けれど、支度はいつも通りに済ませた。鏡の前で表情を整える。声の温度も、呼吸の速さも、いつも通りに見えるように揃える。幼い頃から繰り返してきた手順だ。台本をなぞるみたいに、体が勝手に動く。
そして、いつも通り――レイの部屋へ声をかけに行く。
「レイ。私、学校行ってくるね」
返事は少し遅れて返ってきた。寝起きの掠れた声。呆れたように。
「……お前さぁ」
椿が振り向くより先に、続きが落ちてくる。
「体調悪いなら寝てろよ」
「……え?」
言われた瞬間、椿は固まった。
“いつも通り”のはずだった。自分の異変なんて、誰にも分からないはずだった。
心臓の鼓動が一段跳ねるのを、椿は呼吸で押し潰す。声が揺れないように、いつもより丁寧に言葉を選んだ。
「体調?私、怪我人に心配されるほど貧弱じゃないよ」
言いながら、自分でも笑えないと思った。強がりが、下手になっている。
レイは小さく舌打ちして、面倒くさそうに目を逸らした。
「とにかく。動けるようになったからって無茶したら……」
椿は“脅し文句”を必死に探した。救急車、は昨日使った。次の手札が出てこない。焦って、口から出たのはおかしな言葉だった。
「……縛るよ?」
言った本人が一番驚いた。
レイは一拍止まって、それから盛大にため息を吐いた。
「……勝手にしろ。行くなら早く行け」
レイは追い払うように手をひらひら振った。冷たいのに、どこか面倒見のいい優しさが混ざっていて、椿は少しだけ息が抜けた。
椿は心の中でレイを黒猫と呼んだ。
この猫はなかなか懐かない。
少し近づいて来たかと思うと、すぐにまた爪を見せる。
ただ、椿が踏み込みすぎる前に、目と気配で“線”を引く。噛みつかない距離だけは、ちゃんと残してくれる。
「はいはい。……いってきます」
――いってきます。
この数日で当たり前になったその言葉が、椿の凍えきった心をほんの少しだけ温めた。
椿は靴を履いて外に出た。離れから一歩外に出ると、決して笑顔は見せない。家が見えなくなるまでは。淡々と、決められたスケジュールに従うふりをして、父と兄を欺く。
⸻
学校に着いた瞬間、椿の体から力が抜けた。
緊張の糸だけで立っていたのだと、ここでやっと分かる。教室の喧騒は遠く、先生の声は子守唄みたいに平らだった。ノートを開く。ペンを握る。字は書ける。書けるのに、意識が薄い膜を挟んで離れていく。
(……だめ)
そう思った時には遅かった。
机と椅子がガタン、と大きな音を立てた。自分の体が崩れる音だったのか、誰かが支えた音だったのか分からない。視界が白く弾けて、遠くで誰かが椿の名前を呼ぶ声がした。
⸻
白い天井。白いカーテン。
一瞬、病院に戻ったのかと思って血の気が引いた。
違う。保健室だ。消毒の匂いが薄い。先生が誰かと話している声が、カーテン越しに聞こえる。
椿は上体を起こそうとして、頭がぐらりと揺れた。喉が渇く。息が荒くなる。
その時、カーテンが開いた。
見慣れた顔が立っていた。
父の側近だ。
ひゅっと、息が喉で音を立てた。汗に制服が張り付く。――家に連絡がいった。
側近は、何も驚いた様子もなく椿を見下ろす。
「お嬢様。お迎えに参りました」
椿は唇を噛んで、一呼吸置いた。声を落ち着ける。これも“いつも通り”だ。波風を立てない。
「……迷惑かけました」
それから、恐る恐る聞く。
「……父は、このこと……?」
側近は涼しい顔のまま言い放った。
「お耳に入れるほどのことではございません」
父は椿に興味がない。
その事実に、いまはほっとしてしまう自分がいる。腹が立つのに、助かる。ここで下手に波風を立てない方がいい。今は、家に帰るべきだ。
車の中は静かだった。側近は前を向いたまま一言も発しない。
窓の外を流れる景色が、どんどん馴染みのあるものに変わっていく。
門が見えた瞬間、椿の呼吸は浅くなった。
門を潜った瞬間、空気が重くなる。戻ってきてしまった――その感覚だけで、体の奥が冷える。
そして、そこに兄がいた。
美鶴。
「椿。倒れたそうだな」
椿は反射で背筋を伸ばした。
父は椿に関心がない。でも兄は違う。兄はいつも、椿の“ズレ”を見逃さない。
美鶴は椿の顔を、じっと見つめた。瞳が笑っていない。
「昨夜、遅くまで勉強していて……」
言葉を遮るように、美鶴の視線が椿の首筋を滑る。寝不足の跡を探すように。
椿は用意してきた台詞を、表情ひとつ崩さずに口にする。
「お騒がせしてごめんなさい。これ以上学業に影響が出ないように気をつけます」
何でもない顔をした。
けれど足元はふらついていて、もう限界だった。
「……失礼します」
椿は丁寧に頭を下げた。散々体に刻み込まれた角度の“正しさ”で。
そのまま離れへ戻り、扉を閉めた途端、力が抜けた。
部屋に入ると倒れ込むようにベッドへ横たわる。布団をかける体力もない。息が荒い。目を閉じると、意識がそのまま底へ落ちた。
⸻
どれくらい眠ったのか分からない。
次に目を開けた時、部屋は真っ暗だった。
指先が熱を失う。体の中の酸素が抜ける。
「…っ!」
――暗い。怖い。
椿はあの出来事の後から、部屋の電気を消せなかった。夜も明かりが消えることはなかった。
窓のない部屋での記憶が土砂のようになだれ込む。耳元で、過去の鍵の音が響く。ガチャン、と金属の冷たい音。
肌に張り付く湿った空気。壁が迫ってくるような息苦しさ。
闇に溺れるような感覚がして、椿は必死に息をした。
吸っても吸っても足りない。胸の奥が狭い。壁が近い。
時間が消えていく。
指が床を掻く。爪が布を引っ掻く音が、耳に刺さる。
あの時と同じ音。
あの時と同じ、爪が欠ける痛み。
「……だ、誰か……っ」
声が掠れて、喉で途切れた。
狐が出てきた。淡い灯が広がり、椿を包み込む。
薄い光が“ここにいる”と教えてくれる。
でも呼吸は戻らない。怖さが先に増える。
(また、だ。また一人で……)
泥水の中にいるみたいに、両手で口を塞いだ。
泥が入らないように。肺に流れ込まないように。
吐いたら、酸素が全部抜けて、3日間が永遠に繰り返される気がする。
闇はまだ、そこにあった。




