不在の灯
夕方が早くなった。
駄菓子屋のガラス戸の向こうはまだ明るいのに、光の色だけが薄い。
ハルは棚の前でしゃがみ込み、駄菓子の箱を入れ替えていた。指先で値札をまっすぐに直す。
入口の引き戸がゆっくり開いた。
「いらっしゃい」
入ってきたのはエマだった。派手な髪。乱暴な足取り。右手でポケットを探りながら、左腕は冬になった今も、体の脇に沿わせたまま。
「……今日はひとり?」
ハルがそう言うと、エマは「ん」とだけ返して、棚の前で立ち止まった。
「椿は?」
エマは肩をすくめる。
「しばらく遊べないって言って、走って帰ってったよ」
言いながら、エマはラムネの瓶を一本取ってカウンターへ置いた。いつもの瓶だ――ビー玉が落ちる音が好きなんだろう。
「走って?」
「うん。なんか、変だった」
その「変」が、いつものエマの雑な言い方じゃないことに、ハルは気づいた。誤魔化してるというより、言葉を選んでる。
ハルが栓抜きを取ろうとすると、エマが先に言った。
「開けなくていい。あとで外で飲む」
「そう?」
ハルは瓶をそのまま返した。エマは受け取り、ふと、目だけを上げて言った。
「……男かもな」
ハルの手が止まった。
「え?」
「男。たぶん」
「……いや、まだ早いでしょ」
素で声が出て、エマが即座に噛みついた。
「早いってなんだよ」
「いや、だって――」
「いつもいつもガキ扱いしやがって」
エマはラムネ瓶を軽く振って、ビー玉を鳴らした。音は明るいのに、顔は少しだけ不機嫌だ。
「たいして歳変わんねぇくせに」
「そんなことないでしょ」
「3つだけだろ」
「……あぁ、3つだっけ」
「うっざ」
言葉はいつも通り乱暴だった。ハルはそれに合わせて、いつもの調子で笑おうとした。
「椿に彼氏疑惑、ね。」
ハルは、椿が恋愛に興味があるようには見えなかった。
「知らねぇよ。つーか、彼氏とかじゃねぇかも。なんとなく、椿の空気がいつもと違っただけ」
「空気って」
「雰囲気。……つーか、そもそも椿がハル以外の男と話してるとこ見たことねぇし」
エマは棚の前へ戻って、飴の袋を片手で掴む。左腕は相変わらず動かない。動かさないのが癖になりすぎて、本人ももう意識していないみたいだった。
「でもさ」
エマは袋を戻しながら、ぽつりと言った。
「……男でもなんでも、別にいい」
その声が、少しだけ低かった。
ハルは何も言わずに、エマの横顔を見た。エマは続ける。誰にも聞かせないつもりの声だ。
「また家の厄介事に巻き込まれてなければ、それでいいんだけどな」
ハルは、一瞬言葉を失った。
“家の厄介事”。
あの家は、外から見えるほど穏やかじゃない。
エマはそれ以上言わなかった。言ってしまったことを、言い直すみたいに乱暴に息を吐く。
「……ま、いいや。ラムネだけ買う」
「はいはい」
ハルは代金を受け取って、袋に入れた。エマは受け取ると、戸に手をかける。
「またな」
「外、寒いから気をつけて」
「ガキじゃねぇって言ってんだろ」
そう返しながらも、エマは少しだけ口元を緩めて、外へ出ていった。
戸が閉まる。
夕日の色が、店の床に薄く伸びていた。
賑やかな声が去って、お店の中に静けさが戻ってくる。
(……椿)
椿は強い。強いから、放っておいても平気だと人は思う。実際、椿はそういう顔をする。だからこそ、誰も踏み込まない。
踏み込まれないことが、救いになるときもある。
それでも、エマの一言が耳に残る。
「家の厄介事」
ハルはポケットのスマホに触れた。椿の連絡先は、秋に交換したまま、画面の奥にある。指が勝手に動きそうになる。
――今、どうしてる?
打ちかけて、止まる。
“心配してる”という言葉は、椿にとって刃になることがある。優しさが、逃げ道を奪うことがある。ハルはそれを知っている。あの子は、誰かの手を取るより先に、自分の足で立ってしまうから。
画面を閉じた。
送らない。今日は。
ハルはスマホを伏せて、息を吐いた。
(視えるのに、救えない)
自分の言葉が、今になって戻ってくる。
人を救える力がある子が、救われなきゃいけない場所にいる。
そんなの、まともじゃない。
「……何も起きてなきゃいいけど」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ハルはいつも通りに店の掃除を始めた。
普段と同じ手順で、普段と同じ動きで。
ただひとつ違うのは、気づけば視線が何度もスマホへ戻ってしまうことだった。




