出会い
目が開いた瞬間、レイの目には知らない天井がうつった。空気が薄く温い。薬品でも煙草でもない、乾いた布と木の匂い。窓が少しだけ開いていて、外の冷気が細い線みたいに入ってくる。
息を吸うと、胸の奥が痛んだ。
遅れて、脇腹の鈍い熱と、肩の焼けるような痛みが追いかけてくる。服の下で何かが巻かれている感触があった。止血の布――
(……拠点じゃない)
首を動かそうとして、目の端が揺れた。
淡い光。
小さな狐の形をした灯が、枕元の少し上で揺れている。火じゃない。熱を持たない光。なのに、妙に生々しい。目の錯覚や夢の残りじゃないと、直感が言った。
この狐は……
その時、床の方から小さく衣擦れの音がした。
ベッドの脇、床に座ったまま眠っている人影。艶のある髪が、蛍光灯ではなく灯に照らされて淡く縁取られる。
灯郷椿。
学校で何度も見た横顔が、ここにいる。
……何で。
喉が鳴った。声にしたくなかったのに、息が漏れた。
狐が揺れ、椿のまつ毛がぴくりと動いた。次の瞬間、椿がはっと顔を上げる。寝不足の目だ。驚いているのに、姿勢だけは崩れない。
「……起きた?」
寝ぼけた声が耳に届く。
レイは返事の代わりに、体を起こそうとした。
肩が引き裂かれる。
「……っ」
椿の手がすぐに伸びて、レイの肩口を押さえた。力は強くない。止めるというより、“今はそれ以上動くな”と言っているようだ。
「無茶しないで。傷口が開く」
「……ここ、どこだ」
椿は一瞬黙って、窓の外を見た。
「……家の、離れ」
答え方が簡潔すぎて、余計に現実味が増す。レイは舌打ちしそうになって飲み込んだ。
椿の家――灯郷。
嫌な単語が頭の中で音を立てる。だが、視界に映る椿からは“灯郷家”の空気を感じない。息の仕方が違う。目が違う。
レイは狐を見た。
狐は椿の肩のあたりにふわりと寄り、そこから動かない。守りでも飾りでもなく、椿の呼吸の延長みたいにそこにいる。
レイの視線が、そこに吸われた。
椿はレイの目線の先を辿って狐を見ると、一瞬表情が固まる。
「……もしかして」
椿の声が、少しだけ低く落ちる。
「これ、見えてるの?」
レイは答えなかった。なんて答えるべきか、わからなかった。
けれど、その沈黙がそのまま肯定になる。
椿の目がわずかに見開かれる。
「……じゃあ、怪異も?」
レイの喉が小さく鳴った。否定する理由がない。否定したところで、今さら誤魔化せない。
「……見える」
椿は息を吸って、吐いた。驚いているのに、騒がない。そこが椿らしいと思ってしまうのが腹立たしい。
「……そうなんだ」
椿は狐ではなく、レイの顔を見た。
「だから、たまに私のこと見てたんだ」
レイは眉を寄せた。
「……見てない」
椿は小さく鼻で笑うように息を吐いて、すぐに話を切り替えた。
「ところで」
間の取り方が妙に現実的で、レイは少しだけ身構える。
「なんで、あんなところで倒れてたの?」
レイの胸の奥が、きしんだ。
途端に、腐った甘さと鉄の匂いが喉の奥に蘇る。
視界の隅に、床に落ちた影が刃みたいに伸びた気がして、反射で肩が強張った。
——「兄ちゃん」
幼い声が混ざった瞬間、指先が冷える。
「……関係ないだろ」
冷たく突き放す。
昨日の出来事が急に現実味を帯びて、蘇る。
悪い夢であってほしかった。もう戻らないと思っていた家。それでも、いざ家族を失ってしまうと、自分にはもう本当に帰る場所がないという現実に、心が折れる。
リンは、誰かに見つけられただろうか。治療を受けただろうか。
「ごめん。言いたくないなら、言わなくていい」
椿は淡々と言った。
「なんで助けた?」
これは八つ当たりだ。椿は関係ない。
わかっていても、止められなかった。
「……ほっとけばよかっただろ。助けろなんて言ってない」
椿の目が細くなる。
「……はぁ?」
短い。尖っている。椿の見た目からは想像もつかない声だった。
その瞬間、狐の光が、ふっと強く脈打った。尾の輪郭が鋭く揺れて、空気がわずかに動く。怒りに呼応している。
狐は椿の感情で動くようだった。
「……そういう言い方」
椿は息を吐いて、言い直すみたいに少しだけ声を落とした。
「とにかく。動いて傷が開いたら、救急車呼ぶから。あなたが昨日止めたんだよ。救急車は呼ぶなって。でも、呼ぶから」
脅し方が、妙に真面目だ。子どもみたいに単純で、だから厄介だった。
「……なんなんだよ」
レイの声は掠れて、小さかった。
「どいつもこいつも」
幼き日の家族の顔が浮かぶ。久世の顔が浮かぶ。カナメの嫌な笑い方が浮かぶ。全部がまとわりついて、息が浅くなる。
目頭が熱を持つ。いっそそのまま消えてしまいたかった。今回ばかりは立ち直る自信がなかった。
椿はベッドの脇から動かずに、レイの目をまっすぐに見た。
「今は、しゃべらなくていい。……でも、無理に起きないで。せっかく生き延びたのなら、こんな所で死なないで」
椿の声は、怒りを閉じ込めているように鋭かった。
どっちみち体は動かない。
レイは睨むように椿を見て、それでも結局、横になる以外の選択肢はなかった。




