駄菓子屋の灯
駄菓子屋の空気は、秋になると少しだけ穏やかさを増した。
放課後。椿とエマは、いつものように戸を押す。
「ただいまー」
勝手に言って、勝手に笑うのはエマの方だ。
椿はそれに乗らない。けれど、この駄菓子屋が“帰ってこれる場所”になっていたのは、同じだった。
「いらっしゃい」
レジ台に肘をついたハルが顔を上げる。柔らかい金髪が、店の蛍光灯の光を拾って、薄くあたたかく見えた。
椿は初めてハルを見た日に“桜みたいな人”だと思った。今もその印象は消えない。目を向けると、そこに必ず落ち着く場所がある。
「お、今日も来たな」
「来たよ」
椿は短く返して、棚の方へ視線を逃がした。必要以上に笑わない。必要以上に、誰かの機嫌を取らない。夏休み前と違う自分を、椿はもう隠す気がなかった。
エマは棚の前でしゃがみ込み、片手で飴の袋を掴んで、雑に覗く。
「なー、今日あいつら居ねえの?」
言いながら、外をちらりと見た瞬間。
店の前を通りかかった小学生が、待ってましたとばかりに声を上げた。
「エマ姉ー!」
「遊ぼー! 今日も!」
「鬼ごっこやろ!」
「うっせ……」
口では面倒くさそうなのに、エマの目はわずかに柔らかくなる。右手で子どもたちを追い払うふりをして、結局、戸を開けた。
「行くわ。椿、ちょっと待ってろ」
「うん」
椿は頷いた。エマの“ちょっと”が、だいたい長いことも知っている。
エマが外へ出る。左腕は相変わらず体の脇に沿わせたまま、ほとんど動かない。
戸が閉まる。
店の中に残ったのは、アイスケースの唸りと、ハルの気配と、椿の息だけだった。
椿は棚の端に指を置いて、商品を見ているふりをした。会話の糸口を探しているわけじゃない。ただ、沈黙が気まずくない相手が、ここにいることが、まだ少しだけ不思議だった。
ハルが、椿の方へ視線を寄せる。
「今日は、顔が硬いな」
「いつもだよ」
「そういう事にしておこうか?」
椿は、鼻で小さく笑いそうになって、すぐにやめた。
「……ハルさんは」
「ん?」
椿は深い意味もなく、ただ気になったことを聞いた。
「いつから、“視える”の?」
質問が店の空気に落ちた瞬間、ハルの表情がわずかに止まった。
「……うーん」
ハルは、ペンを指で転がした。視線を上げないまま、笑いもせず、ふざけもしない。
椿はその沈黙を待った。強い拒絶は感じなかった。それでも、迷いは伝わってきた。
「…まだ子供だった頃。って言っても、中学ぐらいかな」
ハルの声は静かだった。
「家出、したことがあってさ」
椿は目を瞬いた。ハルの口から出る“家出”という言葉が、あまりにも店の匂いと合わなかった。
「……家出?」
「うん。大げさに聞こえるけど、ほんとにそのまま。家から出て、戻らなかった」
ハルは床の木目を辿るみたいに視線を落とす。
「路地裏で、同じような子たちと集まって生活してた。ご飯を分けたり、寝る場所を奪い合ったり、変な“ルール”作って笑ったり」
椿は想像できなかった。
ハルの手は綺麗だ。店にいるハルは、いつも落ち着いていて、穏やかで、春の光みたいだった。
「ある日、事件に巻き込まれて」
ハルは淡々と言った。淡々と言うから、逆に重かった。
「死にかけた。……ほんとに。息ができなくて、目の前が白くなって、冷たくなって」
椿の指先が、棚を掴む。力が入るのを自覚した。
「その時、一緒にいた仲間は――もうみんな動かなかった」
言葉がまっすぐすぎて、椿の胸に刺さる。刺さって、抜けない。
ハルはそこで一度、息を吐いた。
「自分だけ生き残って、それからかな。……なんか、見えるようになった」
「見えるって、はっきり?」
椿が聞くと、ハルは首を振った。
「はっきりじゃない。うっすら。気配とか、空気の濁りとか、音が削れる感じとか。……そういうのが分かるようになった」
ハルは目線を落とす。
「でも、祓えない。視えるのに、救えないことがある。……それが一番、悔しいな」
椿は、言葉が出なかった。
慰める言葉は、簡単に用意できる。けれど、簡単な言葉で触れていい話じゃないのも分かった。
椿の中にあるものが、少しだけ揺れた。
自分は“力がある側”だ。あるくせに、その弱さのせいで大切な人を守りきれなかった。結果として誰かが生きていても、その事実が、免罪符になるわけじゃない。
でも――だからこそ。
「……ハルさん」
椿は言ってから、すぐに言い直した。
「……ハル。で、いいんだっけ」
ハルの目が上がる。少し驚いたように、そしてすぐに柔らかくなる。
「うん。みんなそう呼んでる」
「じゃあ、ハル」
椿は、自分の口から出た名前を一度だけ確かめるように飲み込んだ。
それから、少しだけまっすぐに言った。
「連絡先、教えてよ」
「…え?」
――
ハルはレジ台に肘をついたまま、椿を見た。
いつも通りの、風が通るような目。だけど今日は、その奥が少し揺れている。
椿の言葉は落ち着いているのに、逃げ道がない。
「何かあったら呼んで。……私にも、できることがあるかもしれないから」
ハルはすぐに返さなかった。
一拍、視線が逸れて、机の上の小さな傷を眺めるように落ちる。
「それは……椿を巻き込むみたいで、気が引けるな」
拒むためじゃない。躊躇いの音だった。
「君はもう、十分――」
そこで言葉が止まる。続きは飲み込んだ。
椿の周りの空気がほんの少し流れた。
匂いが混ざり直すように、店の空気がひと呼吸だけ動く。
椿の背後――肩のあたりに、淡い光がにじむ。
最初に形になるのは、耳の先。次に、細い輪郭。
光はぼやけない。崩れない。柔らかいのに芯がある。
狐だった。
椿の肩の後ろにすっと寄り添うように乗る、狐。
目の位置だけが、ほんの少し揺れて、ハルを見た――ように見えた。
ハルは息を止めた。
初めて見る光景だった。
「……」
言葉が出ないまま、目だけが追う。
“視える”だけの自分の感覚が、いきなり輪郭を持って突きつけられたみたいだった。
「……すごいな」
ハルの声は小さかった。けれど、ちゃんと届いた。
椿は狐を見ない。見せびらかすでもない。
ただ、淡々と続ける。
「すごいって言えるほどじゃないよ。……でも、助けにはなれると思う」
狐が椿の呼吸に合わせて、小さく脈打つ。
光が“そこにいる”だけで、言葉の重さが変わってしまう。
「ハルがどうしてもって時は、呼んで。……私、行くから」
ハルはしばらく黙っていた。
それから、諦めたみたいに小さく笑って、スマホを取り出す。
「……分かった。交換しよう」
椿が頷く。
連絡先が保存された瞬間、狐の光はすっと薄れて、椿の背後から消えた。
戸が開く。
「おい、二人で何してんだよ」
エマが戻ってきて、汗を雑に拭いながら言った。
子どもたちの笑い声が、外にまだ残っている。
椿は何事もなかった顔で、カウンターに肘をつく。
「別に。ちょっと話してただけ」
ハルもいつもの調子に戻して、エマに視線を向ける。
「おかえり。今日も全力だった?」
「ガキ共まじうるせぇ。椿、アイス食べよ」
「うん」
椿とエマは代金を置いて外へ出ていく。
扉が閉まって、また店の中に静けさが戻った。
「……はは」
ハルは乾いた笑いを零した。
灯郷の家の話は、噂程度なら聞いたことがある。
でも、灯が体を離れて、形になって――あんなふうに“生き物みたいに”寄り添うなんて。
とんでもない子が来た。
それだけは、もう分かった。




