嵐の前の静けさ
教室の空気は、まだ夏のままだった。
窓が開いていても風は重い。湿った熱が机の脚に絡みついて、カーテンが揺れているのに、涼しさだけが入ってこない。
「……出欠とるぞ。――灯郷……出席」
その名前が落ちた瞬間、レイの視線だけが動く。
椿が来ている。
久しぶりだ。――そう思うより先に、違和感が刺さる。
姿勢は変わらない。背筋の伸び方。歩幅の揃い方。鞄の持ち方。全部、いつも通りに整っているのに。
目つきだけが、冷たい。
丁寧な口調も消えていた。誰かに返事をする時の声が、短く、素の温度になっている。それでも瞳は陰っていない。真っ直ぐ前を見据えている。
……怒っているみたいだ、とレイは思った。
誰かを睨むわけじゃない。何かを訴えるでもない。ただ、燃やすものを決めて、それだけを見ているような目だった。
レイは自分が椿を見ていることに気づいて、視線を外した。
他人への興味なんて、とっくに失くしたはずだった。
ここにいるのも、久世に言われたからだ。椿を監視する――ただそれだけ。
なのに。
椿が席に座って、ペンを持つ。その動きひとつで、教室の景色が変わるみたいに感じる。
(……何があったんだ)
問う理由はない。
答えが返ってくるとも思わない。
それでも、目が離れない。
⸻
授業が始まる。
黒板にチョークが走り、白い粉が落ちる。
その粉の落ち方だけが、ふっと変わった。
ほんの一瞬。空中で迷うみたいに滞って、教室の隅の空気が湿って重くなる。
誰も気づかない程度の“ズレ”だ。けれど、レイは気づく。
怪異だ。
椿の方へ、机の脚を伝うように薄い影が這っていく。浄化を望む類の弱いもの。痛みを抱えたまま、灯に縋るしかないもの。
入学直後の椿なら、少しだけ肩が揺れた。
視線を伏せて、何かを聞いているみたいに見えた。聞こえもしない声に、耳を傾けているように。
それから、人目につかない場所でそっと送り出す。優しさで包むみたいに。
――今は違う。
椿はノートから視線を上げない。
怪異の方を見ない。見ようともしない。
影が椿に触れる、ぎりぎりの距離で。
椿の机の下、足元から淡い灯が滲んだ。
輪郭が先に立つ。耳。尾。狐の気配。
狐は椿の周りを滑るみたいに動いた。
風に乗るように、ほんの数歩分だけ。
その動きに合わせて、教室の空気がわずかに流れる。
椿の髪が、ほんの少しだけ揺れた。
狐が影の先を撫でる。
湿った重さがほどけるように、怪異は消えた。
音も匂いも出ない。ただ最初からそこにいなかったように。
椿は最後まで、怪異をちらりとも見なかった。
ノートの罫線を追って、ペン先だけを動かし続けている。
……焼き払うみたいだ。
優しく送り出していた椿の手つきは、もうない。
救うための目じゃない。処理する目だ。
レイは、椿の横顔を見たまま、喉の奥が妙に乾くのを感じた。
(能力が上がった、だけじゃない)
扱い方が変わっている。
変えざるを得ない何かが、椿にあった。
⸻
体育の時間、椿は見学していた。
日差しは強い。まだ半袖の季節だ。
それでも椿は薄いカーディガンを羽織っている。袖口を何度も指先で引く癖がある。
手元を見せないための動きだと、レイはすぐに分かった。
ペットボトルを持つ時も、プリントを受け取る時も、指先を伸ばさない。
丸める。握る。覆う。
隠すみたいに。
椿は視線をまっすぐ前に置いたまま、ただ座っている。
声をかけるやつはいる。軽く茶化すやつもいる。
椿は短く返すだけで、全部を切り捨てるように会話を終わらせた。
それでも、目は陰らない。
怒りだけが静かに底で燃えている。
レイは見ているだけで、胸の奥がざらついた。
(……何を、燃やすつもりだ)
放課後になり椿が校門を出ていくのを、レイは最後まで見送らなかった。
見送る理由がない。追う理由もない。
なのに、椿が視界から消えた瞬間、学校の空気がまた退屈に戻った。
さっきまで“情報”があった場所に、急に何もなくなる。
レイは舌打ちしそうになるのを飲み込んで、校門を出た。
拠点へ戻るだけの道。
人の波に紛れて、いつもの夜へ向かうだけの道。
――その途中で、怪異の気配が掠めた。
弱い。薄い。けれど、どこか粘ついた匂い。
人混みに溶けるように混じっている。
レイは足を止めかけて、視線を泳がせた。
その瞬間。
人混みの隙間に、ひとつの影が見えた。
背は伸びている。記憶の中のサイズじゃない。
顔も、髪も、はっきり見えない。制服の襟元だけが視界に引っかかった。
……リン?
そう思った瞬間、レイは自分で打ち消す。
家を出た時、リンはまだ小さかった。
今は中学に上がっているだろう。背が伸びていても不思議じゃない。
それでも、レイは“今のリン”を知らない。
最近やたらと思い出すせいで、勝手に似た影を拾っただけだ。
…そう思うのに。
その影だけが、やけに引っかかる。
レイは反射で、そっちへ歩き出していた。
速足になる。視線を切らさないように、人の肩を避ける。
「……待て」
声は出なかった。出す意味がない。
影は、人波に呑まれるみたいに消えた。
レイは少し先まで追った。
角を曲がって、もう一度視線を走らせて――見つからない。
最初からいなかったのかもしれない。
自分が勝手に重ねただけかもしれない。
レイは立ち止まり、息を吐いた。
湿った空気が肺に絡む。
背筋だけが、無意識に真っ直ぐに戻る。
椿の変化。
狐の動き。
手元を隠す癖。
そして、今の影。
全部が繋がるわけじゃない。
けれど、どれも胸の奥に残って離れない。
レイは歩き出した。
夜は来る。
何かが動いている。
――そして、その“動き”の中心に、椿がいる気がした。




