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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

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夏と兄弟

九尾の拠点は、夏の匂いがこもる。


窓が開いていても風は入ってこない。コンクリの熱と、乾いた汗と、どこかの煙草の残り香が混ざって、空気がぬるいまま張りついている。


レイは机に突っ伏していた。


頬に当たる木の冷たさだけが、かろうじて現実だ。まぶたの裏で光が揺れて、遠い音が滲む。昨夜は任務で一睡もできなかった。身体はまだ夜のまま、起きる理由を見つけられない。


「レイちゃーん」


耳の横で、やけに明るい声が弾んだ。


「夏休みの宿題、やったぁ?」


レイは返事をしない。顔を上げるのも億劫で、机の木目を睨むみたいに目だけ動かした。


机の向こうにカナメが腰をかけている。軽い笑みを張りつけたまま、レイのノートを指先でつついた。


「ほら。溜まってるやろ。手伝ったるわ」


「……いらない」


声が掠れた。寝起きの喉は砂みたいだ。


「えー? そう言わんと。俺、先輩やで? 教えんの得意やし」


「……お前、学校行ってないだろ」


「行ってへんけど。教えるんは別やん?」


レイはため息を吐いて、ようやく顔を少し上げた。視界の端で、カナメの赤い瞳が面白がるように細くなる。


「……勝手にしろ」


「よっしゃ。ほな見せてみ。どれからやる?」


カナメはレイの言葉を“承諾”として扱うのが上手い。ノートを引き寄せ、ペンを取る。勝手にページをめくり、勝手に頷く。


「うわ、これ簡単やん。まずな、ここはこうして——」


説明が始まった瞬間、レイは眉間を寄せた。


早い。飛ばす。思いついた順に喋るから、順番がない。教える気があるのか、ただ喋りたいだけなのか分からない。


「……待て。今、何した」


「え? だから、ここはこうやろ? ほら、足す。で、割る」


「割る前に整理しろ。式が汚い」


「細かいなぁレイちゃん。几帳面すぎやろ」


口では笑うのに、手は止まらない。しかも字がでかい。レイのノートの余白を侵略するみたいに書き散らす。


「……おい」


「なに? 今ええとこ」


カナメは自信満々に丸をつけた。見当違いの場所に。


レイは頬杖をついたまま覗き込み、赤ペンで淡々と線を引き直す。


「ここ、符号が違う」


「えー? ほんま?」


「……」


レイが直すと、カナメは「うそやん」と大げさに肩を落とした。


鬱陶しい。


それでも、レイの手は勝手に動く。間違いを直して、式を整えて、次の行に繋げる。


「俺の方が弟みたいやん~。先輩風吹かそ思たのに」


カナメが笑いながら言った。


その言葉が、胸の奥をざらつかせた。


兄弟みたいな距離。嫌なのに、切れない距離。


似ているわけじゃない。カナメはカナメで、レイの知っている誰とも違う。けれど、何故か思い出してしまう。


——リン。


まだ小さかった頃。レイの後ろをちょこちょこついてきて、振り向くと目を丸くして、それから照れたように笑う子ども。


リンは、レイの手元を覗き込んでいた。鉛筆が走るたびに、目がきらきらする。


「兄ちゃん、すごい!」


「……ただの宿題だよ」


「でも、すごい!」


兄を褒めるのに躊躇がない。素直で、感情がそのまま顔に出る。


リンは体が丈夫じゃなかった。学校も休みがちで、運動も得意じゃない。外で走り回るより、家の中でレイの隣にいる方が落ち着くみたいに、距離が近かった。


レイはリンのプリントをちらりと見る。


「休んだ分。ここ、分かるか」


リンは首を横に振る。けれど不安じゃない目をしている。分からなくても、レイがいるから大丈夫だと思っている目だ。


レイはため息を吐いて、紙の端に図を描いた。


「こう。ここがこうで——」


リンは真剣に聞いた。口を少し開けて、眉を寄せて、レイの指先を追う。


「……あ、分かった!」


ぱっと顔が明るくなる。


その瞬間だけ、レイの肩の重さが少し軽くなった。


家の中で、両親の期待はいつもレイに向いていた。出来る兄。優秀な兄。そう言われるたび胸の奥が重くなるのに、リンの前ではそれを見せたくなかった。


リンには伸び伸びしてほしかった。


だから重いものは全部、自分が背負えばいいと本気で思っていた。


窓の外から、子どもたちの声が聞こえる。


「レイ、いるんだろー? 遊び行こうぜ!」


レイが立ち上がると、リンも立ち上がりかけて、すぐに止まる。付いていきたがるのに人見知りで、結局レイの背に隠れる。


「……一緒に行くか?」


レイが聞くと、リンは小さく頷いた。


その頷きが――いつからか、薄くなっていった。


リンの笑う回数が、少しずつ減っていった。


理由は分からない。聞いても「なんでもない」としか言わない。家族に言いたくないことの一つや二つ、誰にでもあるだろう。そうやって、自分を納得させていた。



蝉の声が戻ってくる。


レイが目を開けると、九尾の拠点の机の木目が揺れていた。頬が机に触れている。さっきより空気が重い。汗が背中に張りついて、服が気持ち悪い。


いつの間にか寝ていたらしい。


ノートが開きっぱなしだった。


そこには、レイの字じゃない線が走っている。大きくて雑で、楽しそうな落書きみたいな数字。意味のないハート。変な顔のマーク。


レイは無言でページをめくった。


最悪だ。


視界の端で、カナメが平然と座っている。ペンを指先でくるくる回し、にやにやしている。


「おはよぉ、レイちゃん」


レイはノートを閉じて、カナメを見た。


「……殺す」


「こわっ。冗談やん、冗談。」


言いながら、机の縁を軽く蹴って椅子を滑らせる。立ち上がる動きがやけに軽い。逃げ慣れている足さばきだ。


「ほな、続きはまた今度なー。先生に怒られんように頑張りや〜」


言い終わるより早く、カナメは廊下へ滑り出る。床を鳴らさない。気配だけ残していくみたいに、あっという間に距離が開いた。


レイは立ち上がりかけて、やめた。


レイはノートをもう一度開き、落書きだらけのページを見下ろす。


「……次やったら指、折る」


レイは小さく呟きながらも、次は絶対にカナメの誘いには乗らないと決めた。

消しゴムを手に取り、淡々と落書きを消した。

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