夏と兄弟
九尾の拠点は、夏の匂いがこもる。
窓が開いていても風は入ってこない。コンクリの熱と、乾いた汗と、どこかの煙草の残り香が混ざって、空気がぬるいまま張りついている。
レイは机に突っ伏していた。
頬に当たる木の冷たさだけが、かろうじて現実だ。まぶたの裏で光が揺れて、遠い音が滲む。昨夜は任務で一睡もできなかった。身体はまだ夜のまま、起きる理由を見つけられない。
「レイちゃーん」
耳の横で、やけに明るい声が弾んだ。
「夏休みの宿題、やったぁ?」
レイは返事をしない。顔を上げるのも億劫で、机の木目を睨むみたいに目だけ動かした。
机の向こうにカナメが腰をかけている。軽い笑みを張りつけたまま、レイのノートを指先でつついた。
「ほら。溜まってるやろ。手伝ったるわ」
「……いらない」
声が掠れた。寝起きの喉は砂みたいだ。
「えー? そう言わんと。俺、先輩やで? 教えんの得意やし」
「……お前、学校行ってないだろ」
「行ってへんけど。教えるんは別やん?」
レイはため息を吐いて、ようやく顔を少し上げた。視界の端で、カナメの赤い瞳が面白がるように細くなる。
「……勝手にしろ」
「よっしゃ。ほな見せてみ。どれからやる?」
カナメはレイの言葉を“承諾”として扱うのが上手い。ノートを引き寄せ、ペンを取る。勝手にページをめくり、勝手に頷く。
「うわ、これ簡単やん。まずな、ここはこうして——」
説明が始まった瞬間、レイは眉間を寄せた。
早い。飛ばす。思いついた順に喋るから、順番がない。教える気があるのか、ただ喋りたいだけなのか分からない。
「……待て。今、何した」
「え? だから、ここはこうやろ? ほら、足す。で、割る」
「割る前に整理しろ。式が汚い」
「細かいなぁレイちゃん。几帳面すぎやろ」
口では笑うのに、手は止まらない。しかも字がでかい。レイのノートの余白を侵略するみたいに書き散らす。
「……おい」
「なに? 今ええとこ」
カナメは自信満々に丸をつけた。見当違いの場所に。
レイは頬杖をついたまま覗き込み、赤ペンで淡々と線を引き直す。
「ここ、符号が違う」
「えー? ほんま?」
「……」
レイが直すと、カナメは「うそやん」と大げさに肩を落とした。
鬱陶しい。
それでも、レイの手は勝手に動く。間違いを直して、式を整えて、次の行に繋げる。
「俺の方が弟みたいやん~。先輩風吹かそ思たのに」
カナメが笑いながら言った。
その言葉が、胸の奥をざらつかせた。
兄弟みたいな距離。嫌なのに、切れない距離。
似ているわけじゃない。カナメはカナメで、レイの知っている誰とも違う。けれど、何故か思い出してしまう。
——リン。
まだ小さかった頃。レイの後ろをちょこちょこついてきて、振り向くと目を丸くして、それから照れたように笑う子ども。
リンは、レイの手元を覗き込んでいた。鉛筆が走るたびに、目がきらきらする。
「兄ちゃん、すごい!」
「……ただの宿題だよ」
「でも、すごい!」
兄を褒めるのに躊躇がない。素直で、感情がそのまま顔に出る。
リンは体が丈夫じゃなかった。学校も休みがちで、運動も得意じゃない。外で走り回るより、家の中でレイの隣にいる方が落ち着くみたいに、距離が近かった。
レイはリンのプリントをちらりと見る。
「休んだ分。ここ、分かるか」
リンは首を横に振る。けれど不安じゃない目をしている。分からなくても、レイがいるから大丈夫だと思っている目だ。
レイはため息を吐いて、紙の端に図を描いた。
「こう。ここがこうで——」
リンは真剣に聞いた。口を少し開けて、眉を寄せて、レイの指先を追う。
「……あ、分かった!」
ぱっと顔が明るくなる。
その瞬間だけ、レイの肩の重さが少し軽くなった。
家の中で、両親の期待はいつもレイに向いていた。出来る兄。優秀な兄。そう言われるたび胸の奥が重くなるのに、リンの前ではそれを見せたくなかった。
リンには伸び伸びしてほしかった。
だから重いものは全部、自分が背負えばいいと本気で思っていた。
窓の外から、子どもたちの声が聞こえる。
「レイ、いるんだろー? 遊び行こうぜ!」
レイが立ち上がると、リンも立ち上がりかけて、すぐに止まる。付いていきたがるのに人見知りで、結局レイの背に隠れる。
「……一緒に行くか?」
レイが聞くと、リンは小さく頷いた。
その頷きが――いつからか、薄くなっていった。
リンの笑う回数が、少しずつ減っていった。
理由は分からない。聞いても「なんでもない」としか言わない。家族に言いたくないことの一つや二つ、誰にでもあるだろう。そうやって、自分を納得させていた。
⸻
蝉の声が戻ってくる。
レイが目を開けると、九尾の拠点の机の木目が揺れていた。頬が机に触れている。さっきより空気が重い。汗が背中に張りついて、服が気持ち悪い。
いつの間にか寝ていたらしい。
ノートが開きっぱなしだった。
そこには、レイの字じゃない線が走っている。大きくて雑で、楽しそうな落書きみたいな数字。意味のないハート。変な顔のマーク。
レイは無言でページをめくった。
最悪だ。
視界の端で、カナメが平然と座っている。ペンを指先でくるくる回し、にやにやしている。
「おはよぉ、レイちゃん」
レイはノートを閉じて、カナメを見た。
「……殺す」
「こわっ。冗談やん、冗談。」
言いながら、机の縁を軽く蹴って椅子を滑らせる。立ち上がる動きがやけに軽い。逃げ慣れている足さばきだ。
「ほな、続きはまた今度なー。先生に怒られんように頑張りや〜」
言い終わるより早く、カナメは廊下へ滑り出る。床を鳴らさない。気配だけ残していくみたいに、あっという間に距離が開いた。
レイは立ち上がりかけて、やめた。
レイはノートをもう一度開き、落書きだらけのページを見下ろす。
「……次やったら指、折る」
レイは小さく呟きながらも、次は絶対にカナメの誘いには乗らないと決めた。
消しゴムを手に取り、淡々と落書きを消した。




