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灯影の駄菓子屋  作者: 沈丁花
一章. それぞれの葛藤

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灯の狐が眠る部屋

薄い消毒の匂いは、優しさに似ていた。


白い天井。白いカーテン。白いシーツ。

綺麗に整えられた“安全”のはずの場所で、椿はずっと肩に力を入れていた。


灯郷の息がかかった病院。

看護師の声は柔らかいのに、視線の置き方が違う。廊下で交わされる小さな言葉が、障子越しの噂話みたいに自分の部屋へ流れ込んでくる。

家から離れたのに、気は休まらなかった。


入院は、一週間程度だった。


死にかけた割には短いなと思った。

――思っただけで、口には出さなかった。


爪はまだまともに揃っていない。指先の感覚が過敏で、シーツの繊維が擦れるだけで胸の奥がざわつく。

それでも退院の日は来る。

白い廊下の先にある出口が、帰るためのものじゃなく、連れ戻されるためのものに思えた。


スマホは返ってこない。

連絡先を知っていても、手段がない。

エマの安否も、何ひとつ分からない。


――分からないままで、少しだけ、ほっとしてしまう自分がいる。


会わせる顔がない。

父のせいで、エマを危険に巻き込んだ。

無事を確かめることは、結末を知ることと同じだ。


怖い。逃げたいのに、逃げられない。


退院して離れへ戻った日、椿は息を吸うのに失敗した。

空気はいつもと同じはずなのに、壁が近い。天井が低い。床が硬い。

喉が乾く前に水を飲んだ。まだ足りない気がして、もう一口飲んだ。

暗いのが怖いわけじゃない。暗さの中で、時間が消えるのが怖い。


部屋の電気は消せない。

窓も閉めきれない。

風が入る隙間がないと、胸の奥がざらつく。


そうしているうちに、夏休みが来た。


校舎が嫌いなわけじゃない。

学校に行きたいわけでもない。

ただ、この家にいることが、地獄だった。


蝉の声がうるさい。

日差しが痛い。

それでも外へ出られない。

体力だけの問題じゃない。監視の気配が、いつも背中に張りついている。


椿はベッドの上で、目を閉じた。


――灯が増えている。


悪夢みたいな三日間のあとから、体の奥底に沈んでいたはずのものが、呼吸のたびに脈を打つようになった。

今まで“灯郷の娘”として、目立たないように、余計な波を立てないように、押し込めてきたもの。

それが、勝手に湧き上がってくる。


湧いたままにすれば気づかれる。

母屋に届いたら終わる。

椿は、あの日以来ずっと決めていた。


ここで、折れない。

折れないまま、灯郷を燃やす。


椿は掌を開く。

指先に意識を集める。灯を引き上げる。薄く、薄く。息が漏れるほど小さく。

光が生まれる瞬間、体の奥で何かが抜ける感覚がした。血の気が引くような、熱が削がれるような。


(……まだ)


椿は灯を沈め、もう一度引き上げる。

扱うたびに頭の奥が痛む。熱が上がる。視界の端が白く滲む。

でも、その感覚が、今は確かな手応えだった。


灯を使い切るたび、椿は落ちる。

眠りというより、意識の断絶。体が勝手に止まる。

目が覚めると、灯がまた増えている。皮肉みたいに。

だから椿は繰り返した。削って、落ちて、起きて、また削る。


夏の時間は長いのに、椿の一日は短かった。

練習と気絶のような眠りで、日が削れていく。


ある夜、椿はふと――灯を体から切り離せることに気づいた。


掌の上に浮かぶ光。

たった数秒だった。


(…できる)


形は歪だった。

球にもならない。刃にもならない。

けれど、椿の頭の中に浮かんだものは一つだった。


狐。


椿は狐が好きだ。

理由は自分でもよく分からない。ずるくて賢くて、でも寂しそうで、どこか儚いその姿が昔から好きだった。


光を伸ばす。

耳を作る。尾を作る。

歪でもいい。ちゃんと“狐の気配”に近づける。


出来上がった狐は、椿の掌の上で微かに震えた。

意思はない。魂もない。

ただ、椿の感情が漏れた形。


それでも、椿はそれを枕元に置いた。


相変わらず部屋の明かりは消せない。

夜の気配だけが濃くなる時間が、いちばん怖い。

怖いから、灯が勝手に溢れる。

溢れ出す前に、狐にしてそばに置く。


狐は、薄く光った。

やさしい光じゃない。椿の灯だ。強く、硬く、熱い。

でも、光がそこにあるだけで、椿の呼吸は少しだけ穏やかさを取り戻した。


毎日繰り返すうちに、狐が動くようになった。


動くと言っても、歩くわけじゃない。

椿が怖がると、狐は椿に寄る。椿が腹の底で怒りを噛むと、尾が揺れる。

椿が限界で目を閉じると、狐も薄れていく。


意思じゃない。

行動原理は椿の感情そのもののようだった。

椿が揺れれば、狐も揺れる。


――寂しさを、形にしているだけだ。


椿はそれを理解していた。

理解していても、手放せなかった。


何度も水を飲む。

喉が乾く前に飲む。喉が乾くことが怖いから。

窓を少し開けると空気が入ってくる。椿を囲う壁が、少し遠くなる気がする。


今もまだベッドからは出られない。

体が重い。頭が割れる。熱が上がる。

それでも椿は掌を開き、灯を引き上げた。


(父を潰す)


椿を動かすのは、その決意だった。

思考は単純にしておく。

複雑にすると、泣きたくなってしまう。

泣くより先に、動けなくなる。


エマのことは胸の奥に押し込めた。

連絡できないまま、季節が進む。

無事を確かめる勇気がないまま、夏だけが育っていく。


蝉が鳴く。

日差しが痛い。

離れの空気は熱を含んで、逃げ場がない。


椿の枕元で、灯の狐が小さく揺れた。

椿が息を吸うたびに、光もまた呼吸するように脈打った。


地獄みたいな夏は、まだ終わらない。


でも、終わらせるのは“夏”じゃない。

灯郷だ。


椿は目を閉じ、もう一度だけ掌を開いた。

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