灯の狐が眠る部屋
薄い消毒の匂いは、優しさに似ていた。
白い天井。白いカーテン。白いシーツ。
綺麗に整えられた“安全”のはずの場所で、椿はずっと肩に力を入れていた。
灯郷の息がかかった病院。
看護師の声は柔らかいのに、視線の置き方が違う。廊下で交わされる小さな言葉が、障子越しの噂話みたいに自分の部屋へ流れ込んでくる。
家から離れたのに、気は休まらなかった。
入院は、一週間程度だった。
死にかけた割には短いなと思った。
――思っただけで、口には出さなかった。
爪はまだまともに揃っていない。指先の感覚が過敏で、シーツの繊維が擦れるだけで胸の奥がざわつく。
それでも退院の日は来る。
白い廊下の先にある出口が、帰るためのものじゃなく、連れ戻されるためのものに思えた。
スマホは返ってこない。
連絡先を知っていても、手段がない。
エマの安否も、何ひとつ分からない。
――分からないままで、少しだけ、ほっとしてしまう自分がいる。
会わせる顔がない。
父のせいで、エマを危険に巻き込んだ。
無事を確かめることは、結末を知ることと同じだ。
怖い。逃げたいのに、逃げられない。
退院して離れへ戻った日、椿は息を吸うのに失敗した。
空気はいつもと同じはずなのに、壁が近い。天井が低い。床が硬い。
喉が乾く前に水を飲んだ。まだ足りない気がして、もう一口飲んだ。
暗いのが怖いわけじゃない。暗さの中で、時間が消えるのが怖い。
部屋の電気は消せない。
窓も閉めきれない。
風が入る隙間がないと、胸の奥がざらつく。
そうしているうちに、夏休みが来た。
校舎が嫌いなわけじゃない。
学校に行きたいわけでもない。
ただ、この家にいることが、地獄だった。
蝉の声がうるさい。
日差しが痛い。
それでも外へ出られない。
体力だけの問題じゃない。監視の気配が、いつも背中に張りついている。
椿はベッドの上で、目を閉じた。
――灯が増えている。
悪夢みたいな三日間のあとから、体の奥底に沈んでいたはずのものが、呼吸のたびに脈を打つようになった。
今まで“灯郷の娘”として、目立たないように、余計な波を立てないように、押し込めてきたもの。
それが、勝手に湧き上がってくる。
湧いたままにすれば気づかれる。
母屋に届いたら終わる。
椿は、あの日以来ずっと決めていた。
ここで、折れない。
折れないまま、灯郷を燃やす。
椿は掌を開く。
指先に意識を集める。灯を引き上げる。薄く、薄く。息が漏れるほど小さく。
光が生まれる瞬間、体の奥で何かが抜ける感覚がした。血の気が引くような、熱が削がれるような。
(……まだ)
椿は灯を沈め、もう一度引き上げる。
扱うたびに頭の奥が痛む。熱が上がる。視界の端が白く滲む。
でも、その感覚が、今は確かな手応えだった。
灯を使い切るたび、椿は落ちる。
眠りというより、意識の断絶。体が勝手に止まる。
目が覚めると、灯がまた増えている。皮肉みたいに。
だから椿は繰り返した。削って、落ちて、起きて、また削る。
夏の時間は長いのに、椿の一日は短かった。
練習と気絶のような眠りで、日が削れていく。
ある夜、椿はふと――灯を体から切り離せることに気づいた。
掌の上に浮かぶ光。
たった数秒だった。
(…できる)
形は歪だった。
球にもならない。刃にもならない。
けれど、椿の頭の中に浮かんだものは一つだった。
狐。
椿は狐が好きだ。
理由は自分でもよく分からない。ずるくて賢くて、でも寂しそうで、どこか儚いその姿が昔から好きだった。
光を伸ばす。
耳を作る。尾を作る。
歪でもいい。ちゃんと“狐の気配”に近づける。
出来上がった狐は、椿の掌の上で微かに震えた。
意思はない。魂もない。
ただ、椿の感情が漏れた形。
それでも、椿はそれを枕元に置いた。
相変わらず部屋の明かりは消せない。
夜の気配だけが濃くなる時間が、いちばん怖い。
怖いから、灯が勝手に溢れる。
溢れ出す前に、狐にしてそばに置く。
狐は、薄く光った。
やさしい光じゃない。椿の灯だ。強く、硬く、熱い。
でも、光がそこにあるだけで、椿の呼吸は少しだけ穏やかさを取り戻した。
毎日繰り返すうちに、狐が動くようになった。
動くと言っても、歩くわけじゃない。
椿が怖がると、狐は椿に寄る。椿が腹の底で怒りを噛むと、尾が揺れる。
椿が限界で目を閉じると、狐も薄れていく。
意思じゃない。
行動原理は椿の感情そのもののようだった。
椿が揺れれば、狐も揺れる。
――寂しさを、形にしているだけだ。
椿はそれを理解していた。
理解していても、手放せなかった。
何度も水を飲む。
喉が乾く前に飲む。喉が乾くことが怖いから。
窓を少し開けると空気が入ってくる。椿を囲う壁が、少し遠くなる気がする。
今もまだベッドからは出られない。
体が重い。頭が割れる。熱が上がる。
それでも椿は掌を開き、灯を引き上げた。
(父を潰す)
椿を動かすのは、その決意だった。
思考は単純にしておく。
複雑にすると、泣きたくなってしまう。
泣くより先に、動けなくなる。
エマのことは胸の奥に押し込めた。
連絡できないまま、季節が進む。
無事を確かめる勇気がないまま、夏だけが育っていく。
蝉が鳴く。
日差しが痛い。
離れの空気は熱を含んで、逃げ場がない。
椿の枕元で、灯の狐が小さく揺れた。
椿が息を吸うたびに、光もまた呼吸するように脈打った。
地獄みたいな夏は、まだ終わらない。
でも、終わらせるのは“夏”じゃない。
灯郷だ。
椿は目を閉じ、もう一度だけ掌を開いた。




