空白の一日
教室の空気は湿っている。
窓を開けても風は重く、カーテンがわずかに揺れる。
「灯郷……欠席」
その名前が耳に届いた瞬間、レイの視線だけが反射で持ち上がった。
空いている席。机の上には教科書も筆箱もなく、椅子がきちんと机に収まっている。最初からそこにいないかのように。
……来ない。
灯郷椿が学校に来なくなってから、3週間が経とうとしていた。担任は「体調不良」とだけ言って、それ以上を告げることはなかった。誰も深追いしない。灯郷の家の事情なんて、この場所では腫れ物扱いだ。
――監視対象がいない。
レイは本気で椿を監視していたつもりはなかった。報告するほど律儀でもない。けれど目で追う癖だけは、勝手についていた。
視界の端に入るたび拾ってしまう。ピンと伸びた背筋。歩幅の揃い方。鞄の持ち方。あいつの周りに寄る、弱い怪異の気配。
それが、ない。
椿がいないだけで、教室の情報量が落ちる。元から退屈だったはずなのに、改めて退屈が骨に刺さる。
レイは頬杖をついて窓の外を見た。
空は明るいのに雲は低く、いつ降り出してもおかしくない。
――何のために、ここにいるのか。
久世は言っていた。
「灯郷のお嬢さんがいつ登校されるか分かりません。ですからレイ君、あなたは学校には必ず通ってください」
丁寧な声で言いながら、目は冷たい。隙が見えたら、そこを掴んで逃がさない。そういうやり方を、あの男は息をするみたいにやる。
レイに拒否権はなかった。ただ、久世の指示に従うしかない。
いつだったか。道具のように使い潰される毎日に耐えきれず、九尾から逃げた事があった。でも、逃亡生活が終わりを迎えるのは早かった。カナメに裏切られたからだ。
それ以来、ただ無心で任務をこなしている。
全てがどうでもよかった。
…今日もただ時間が過ぎていく。
昼休み。放課後。帰りのホームルーム。
椿の席は、一日中、空だった。
⸻
放課後、スマホが静かなままなのが気持ち悪い。
九尾の連絡がない日なんて、滅多にない。カナメもいない。あいつが不在ってだけで背中の皮膚が少し軽い。軽いのに、落ち着かない。
何をして時間を潰せばいいか分からない。
“帰る”と言っても、レイには帰れる家がない。九尾の拠点で適当に寝て、適当に起きる。壁と床と匂いに慣れる前に、また別の夜になる。居心地が悪い日は、適当な場所で夜をやり過ごす。それが普通になっている。
だからこういう空白の日は、手足の置き場がなくなる。
レイは駅前のベンチに座り、行き交う人間を眺めた。
スーツ。制服。買い物袋。笑い声。誰かの肩に寄りかかる誰か。全部が、レイとは無関係だ。
その時、子どもの声が駆け抜けた。
「なぁ、駄菓子屋行こうぜ!」
「いいな!ラムネ買おう!」
「アイスも!」
小学生がランドセルを揺らして走っていく。大げさに笑って、肩をぶつけ合って、転びかけて、それでも楽しそうで――その無防備さに、レイの目が止まった。
駄菓子屋。
その単語だけで、喉の奥が一瞬きゅっと狭くなる。忘れかけていた遠い記憶が蘇る。
……昔。
レイの弟、リンが小さかった頃。
リンは素直で、表情がそのまま出る子どもだった。レイの後ろをちょこちょこ付いてきて、レイが振り向くと、目を丸くして、それから照れたみたいに笑う。
ある日、リンが黙り込んでいた。
理由は分からない。聞いても「なんでもない」としか言わなかった。レイの知らないところで、何かがあったんだろうと思った。子どもには、子どもの世界がある。
「リン、お菓子買ってやるよ!」
レイがそう言うと、リンは最初、首を横に振った。怖がるみたいに。けれど、レイが黙って靴を履いたら、遅れて小さな足音がついてきた。
リンはお店の前で立ち止まり、店の中を覗いていた。
「何がいい?」
「……やっぱり、いらない」
いらないと言いながら、目はラムネの瓶に吸い付いていた。レイが一本買って押し付けると、リンは受け取って、しばらく眺めてから、ようやく口を開いた。
「……兄ちゃん」
「ん?」
「……ありがと」
リンは少し笑った。
ラムネのビー玉が、カランと鳴った。
……思い出しても仕方ない。
戻らない日々だ。戻したくても、戻せない。
レイはベンチの背にもたれ、息を吐いた。
湿った空気が肺に絡む。季節のせいにしても、胸の奥の重さは抜けない。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
表示された文字は短い。
――「待機やって、レイちゃん♡」
カナメからだ。任務じゃない。ただの待機。つまり、今夜もどこかで何かが動いている。
レイは立ち上がった。
今日も夜は来る。
制服の襟を直し、レイは人混みに紛れた。




