ハルの駄菓子屋
プロローグ: 誘い影
夕日の光が、川面に薄く伸びていた。
キラキラ輝く穏やかな姿とは裏腹に、水底はひどく澱んでいる。一歩踏み外せば、二度と浮いては来られない——。そんな暗い確信を抱かせる川だった。
ハルの駄菓子屋は、その川から一本裏の路地にある。
古い木の看板は色が抜け、ガラス戸には子どもの指紋がいくつも残っている。
表向きは、どこにでもある古びた駄菓子屋だ。
けれどこの店には、甘いものよりも先に「帰る場所」を求めて迷い込むモノがいる。
その日もハルは店番をしていた。祖父も祖母も高齢のため、最近は店に立つことが少ない。
夕方の子どもたちが引けて、店の前が妙に静かになった頃——
ガラス越しに、ランドセルを背負った少年が立っていた。
微動だにしない。その細い肩には、まるで泥で編んだ腕のような「何か」が、べったりと、重々しくのしかかっている。
ハルは手にしていた商品の箱を、音もなく置いた。
肌の裏側を氷の破片で撫でられるような違和感が、空気の奥から滲み出してくる。
——いる。
肌の内側を撫でるような違和感が、空気の奥から滲んできた。
ハルは戸を開けた。軋む床の音が、やけに高く響く。
「……おい。そこ、行き止まりだぞ」
少年は答えない。ただ、ゆっくりと踵を返し、ふらふらと歩き出した。
自分の意志ではない。足首を掴まれ、あの黒い水面へと引きずられているのだ。
ハルは後を追った。
路地を抜け、川沿いに出ると、むせ返るような草の匂いが鼻を突く。
少年は吸い寄せられるように柵の隙間へ近づき、その身を乗り出した。
すぐ下では、黒い水面が獲物を待つように、静かな波紋を立てている。
ハルは考えるより先に、少年の手首を掴んだ。
「ッ……!」
異様に冷たい。指の間から、泥に似た「なにか」が這い出そうとする感触。
ハルは奥歯を噛み締め、強引にその体を引き戻した。
少年の顔から、一気に血の気が引いていく。
「……僕、いま、何を……」
ハルは少年の瞳の奥を覗く。
濁りは薄い。だが、瞳の底で黒い影がゆっくりと蠢いている。
ハルは少年の肩に手を置いた。逃がさないように、強く。
「名前は?」
ハルの問いに、少年はしばらく視線を彷徨わせてから、消え入りそうな声で答えた。
「……ユウ」
「ユウか。よし。……なあ、今日、なんか嫌なことあったか?」
歩幅を合わせながら、ハルはあえて前を見たまま聞いた。
ユウは黙り込んだ。アスファルトに落ちた自分の影を踏み潰すように歩き、不意に、堰を切ったように言葉が漏れた。
「……転校してきたんだ。これで、三回目」
足元の石を力任せに蹴る。乾いた音が夕闇に響いた。
「学校でも……今日、『どうせすぐいなくなるんだろ』って。もう誰も、友達になってくれない。僕がいてもいなくても、同じなんだ」
ハルは鼻先で短く息を吐いた。笑おうとして、けれど出来なかったのか、少しだけ目を鋭く細める。
「そっか。……しんどかったな。俺も昔、似たような事があったよ」
店の前に着くと、ハルは少年の前に膝をつき、目線を合わせた。
いつもの「駄菓子屋の兄ちゃん」の顔。けれど、その奥には揺るがない意志がある。
「なあ、ユウ。明日もここに来い。店、開けて待ってるからさ」
ユウが驚いたように顔を上げた。
「お菓子でも食べながら話そう。一人で来てもいい」
「……でも」
「……いいんだよ、何も言わなくて。気が向いたらでいいから、おいで」
ハルの声に、少しだけ力がこもる。それは優しさというより、泥沼から少年を引きずり出そうとする必死さに近かった。
ユウは小さく、けれど一度だけ深く、頷いた。
ハルは立ち上がり、ユウの頭を軽く撫でた。
「家はどこ? 送っていくよ」
二人が歩き出すと、風は一段と冷たくなった。けれど、ユウの足取りからは先ほどの「重み」が消えていた。
家の灯りを見上げ、ユウは一度だけ振り返って「また明日ね」と呟き、吸い込まれるように玄関へと消えた。
帰り道。
川沿いで、ハルは独り立ち止まる。
少年を蝕んでいた重たい空気は、霧散していた。
ハルは夕闇の向こうを見つめる。
草むらのざわめき、路地の死角。そこに、かつての景色が嫌でも重なった。
小さな手首を掴んだ時の、骨の浮いた感触。
引き裂くようなブレーキ音。
誰かの冷たい手を、今と同じように引き戻した夜のこと。
「……あいつ、今頃どうしてるかな」
声に出した瞬間、喉の奥が少しだけ痛んだ。
ずっと昔に置いてきたはずの記憶が、未だに呪いのように胸の奥に絡みついている。
あいつは本当に無口で、無表情で。
話しかけても返事が遅くて。
でも、あの夜——
ハルは乱暴に首を振り、思考を断ち切った。これ以上は、毒だ。
店に戻ると、ハルは棚の整理をしながら、手書きの貼り紙を一枚出した。
『ミニ縁日 ラムネ早飲み大会』
子供たちが集まる口実。孤独な奴が、紛れ込める場所。
セロハンテープで貼り終えて、店内の明かりを一段階、強くする。
その時。
ガラス戸に映った自分の背後に、一瞬だけ異質な輪郭が混じった。
細長い指が、ハルの肩に触れようと伸びてくる。
ハルは振り返らない。
落ち着いた声で、誰に言うでもなく呟いた。
「……もう、うちの子には触るなよ」
影は、ゆっくりと溶けるように消えた。
ハルは短く息を吐き、冷蔵庫にラムネを並べ始めた。
明日、ユウが来る。誰かと笑う。そうなれば、影はまた一つ居場所を失う。
だが、ハルは知っている。
自分の掌に残るこの冷たさが、いつか自分自身の首を掴みに来るかもしれないことを。




