猫又と行く癒しの温泉巡り 第一話 草津温泉
「もう帰れ! お前の顔、死人みたいだぞ!」
上司の声が、まるで水の中から聞こえるように遠い。
「死人みたいな顔って何だろ?」
パソコンの画面に映った自分を見つめながら、僕は自分がいつ最後に笑ったか思い出そうとした。
けれど、それすらも思い出せない。いつから笑わなくなったのだろう。いや、笑うという行為そのものを、僕は忘れてしまったのかもしれない。
東京の大手企業に就職して3年。
最初は夢に燃えていたはずだった。新しいプロジェクトに参加できる喜び。クライアントに認められた時の達成感。同僚と語り合った将来の展望。あの頃は確かに、僕は生きていた。
それがいつからだろう。毎日終電で帰り、休日も会社に顔を出すのが当たり前になった。プロジェクトの締切に追われ、クライアントからの無理難題に応えようと必死になった。気がつけば、仕事以外の全てが色褪せていた。
友人との約束はキャンセルし続け、実家への連絡も途絶えた。食事は深夜のコンビニ弁当。睡眠は一日3時間。休日も布団から出られないほど疲れているのに、月曜日になれば何故か会社に行ける。
そのうちに体重は10キロ落ち、髪は薄くなり、目の下には深いクマができていた。鏡を見るたびに、そこに映る自分が誰だか分からなくなっていった。
「……大丈夫です……まだやれます」
そう答えながら立ち上がろうとした瞬間、世界が傾いた。
視界が白く染まり、膝から力が抜けていく。
「ああ、これはちょっとヤバいかもしれない」
そんなことを、どこか他人事のように考えていた。
気がついた時は病院のベッドの上だった。
白い天井。消毒液の匂い。遠くで聞こえる看護師の足音。
「過労による意識消失ですね。血圧は異常に高く、肝機能の数値も悪化しています。このままだと本当に危険です」
医師から即座に休職を命じられた。
でも、不思議と何も感じなかった。危機感も、焦りも、何もかもが遠くにあった。まるで自分の体が自分のものではないかのように他人事に思えた。
僕はとっくの昔に、自分の体の声を聞くことを止めていた。空腹も、疲労も、痛みさえも、全て無視し続けてきた。
そして今、体が悲鳴を上げている。けれど僕の心は、まだそれに応えることができなかった。
数日後。会社からの強制的な休職命令を受けて、僕は久しぶりに実家に帰ることになった。
新幹線の窓から流れる景色を見ながら、僕は何も考えられなかった。考えようとしても、頭が回らない。何かを感じようとしても、感情が湧いてこない。
ただ、漠然とした不安だけがあった。
実家に帰ったら両親は何と言うだろう。心配させてしまうよな。いや、もう十分に心配させてきたはずだ。就職してから、まともに実家に顔を出したことがあっただろうか。
そして、祖母のことを思い浮かべると、胸が締め付けられ、この場から逃げ出したい気持ちになる。
祖母が亡くなった時、僕は葬式にすら行けなかった。プロジェクトの大詰めで抜けられない。そう自分に言い訳をして、最期の別れさえしなかった。
祖母は優しい人だった。子供の頃は、僕をよく膝の上に乗せて、一緒にテレビを観たり、本を読んだりした。僕の好きな料理を作ってくれた時は「いっぱい食べて大きくなるんだよ」と笑顔で言ってくれた。
その祖母に僕は何もしてあげられなかった。
駅に着くと母が迎えに来てくれていた。
母は僕の顔を見た瞬間、目を見開いた。そして、手で口を覆った。
「……こんなに痩せちゃって」
母の声が震えて、今にも泣き出しそうな顔だった。
ああ、そうか。僕はそんなに酷い顔をしているのか。母をこんなに心配させるほどに。
「ごめん」
そう言おうとしたけれど、声が出なかった。喉の奥で言葉が詰まって、何も言えなかった。
久しぶりに母と駅から実家までの道を歩く。実家は山間の小さな町にあった。東京の喧騒とは正反対の静寂に包まれ、夕暮れの空は、東京では見たこともないほど広く美しかった。
けれど、客観的に見て美しい景色だと思うだけで、その本当の美しさすらも、今の僕の心には届いてこなかった。
やがて懐かしい平屋の日本家屋が見えてくる。今は母が一人で住んでいるのだが、それにしてはどう考えても大きすぎる家だ。
ちょっとだけ力が必要な玄関の引き戸を開け、中に入り懐かしい匂いを感じた時、母がぽつりと言った。
「おばあちゃんにも挨拶してきなさい」
その名前を聞いた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
そうか、祖母はもうこの家には居ないんだと、改めて思い知ってしまった。
仏壇に手を合わせに奥座敷に行くと、線香の煙が静かに立ち上っている。遺影の中の祖母は、いつもの優しい笑顔で僕を見つめていた。
「ごめんなさい……」
ようやく言葉が出た。けれど、それだけだった。他に何を言えばいいのか分からない。謝って済むことではない。それは分かっている。
ふと、縁側の方から視線を感じ、振り向くとそこには一匹の猫がいた。
祖母が可愛がっていた猫だ。名前はミケ。三毛猫ではないのに、祖母はこの猫をミケと名付けた。僕がこの家に住んでいた時から居るので、もう20歳を軽く超える高齢猫は、ほとんど動かずに縁側で日向ぼっこをしているだけだった。
そのミケがじっと僕を見つめている。琥珀色の瞳その瞳には、不思議な深みがあった。まるで人間のような知性を感じる。
「ミケも年だからね。もうそんなに長くないかもしれない」
母の声が遠くに聞こえた。
僕はミケの前にしゃがんだ。ミケは動かず、ただ僕を見つめ続けている。その視線に、僕は何故か涙が出そうになった。
何故だろう。このミケの瞳を見ていると祖母を思い出す。祖母の優しさ。祖母の温もり。祖母が僕を見つめていた、あの眼差しが蘇ってくる。
「……ごめんね」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
実家に戻って3日目の夜。
布団に入っても眠れなかった。体は疲れているはずなのに、頭が冴えている。東京での日々が、断片的に蘇ってくる。あの時ああすれば良かった。こうすれば良かった。そんな後悔ばかりが頭を巡る。
そんな考えから逃げ出すかのように、僕は布団を抜け出し、縁側に出た。
満天の星空だった。
東京では決して見ることのできない無数の星々。天の川さえ見える。子供の頃は、祖母と一緒によくこの縁側で星を眺めた。
「どうだ? 久々に上を向いたんじゃないか?」
突然、聞いた事の無い声がした。
「お前、疲れておるな」
「え?」
振り返ると、ミケがいつもの場所に座っていた。ただ、いつもと違うのは、その琥珀色の瞳が、明らかに僕を見て、僕に語りかけていることだった。
「え? 今、喋った?」
「ああ、喋ったよ。驚くのも無理はないがな」
ミケの口が動いた。確かに動いた。そして、人間の言葉を話している。
これは夢だろうか。いや、夢にしては妙に現実感がある。それとも、僕はついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「猫が喋ってる……猫又?」
「正解だ!」
するとミケの体が、淡い光に包まれ始めた。その光はどんどん強くなり、やがてミケの姿が変わっていくと、みるみるうちに、ミケは人間の女性の姿になった。
現れたのは、若々しい女性だった。
金色に輝くロングヘアの先には、まだ猫耳が残っている。琥珀色の瞳と、背中から伸びる長い尻尾。完全に人間になったわけではなく、猫と人間の中間のような姿。和装の浴衣を着て、どこか愛らしくも、神秘的な雰囲気を纏っていた。
「どうだ、凄いだろう」
ミケだったはずのその女性は得意げに笑っている。
「あ、あの……耳と尻尾が……」
「ああ、これか。心配するな。これらはお前にしか見えておらん」
「え?」
「他の人間には、普通の人間の女にしか見えんよ」
ミケは猫耳をぴこぴこと動かしてみせた。
僕は言葉が出なかった。目の前で起きていることが現実だとは思えない。けれど、夢だとも思えない。
「驚くなって! 人間の姿の方が、色々と都合がいいんでな」
ミケは、まるで長年の友人に話しかけるような気楽さで言った。そして可愛らしく「にゃん」と鳴いてみせた。
「ふふふ、どうだ? 可愛いポーズだろ?」
ミケは右手を猫の前足のように丸め、僕に向かってポーズを決めている。
「……本当にミケなの?」
「そうだ。私の可愛いポーズで、驚かせて悪かったな……でも気にするな! みんな私の可愛さに言葉を失ったものだ」
うんうんと何かに頷いているミケと名乗る女性に、僕は気になっていた事を聞く。
「ばあちゃんも、母さんも、この事は知ってるの?」
「お前のばあちゃんは私が猫又だってことを知っていたよ。でも黙っててくれた。『ミケはミケよ』って言ってな。妖怪だろうが何だろうが、この家の一員だって言って笑ってた」
「お前のばあちゃんはいい人だった。私を普通の猫として可愛がってくれた。だから私も、ばあちゃんが逝くまで、ずっと側で見守っていた」
「……ごめん」
「何を謝る? お前が謝るべき相手は私ではないぞ。それに、ばあちゃんはお前を責めてなどおらん。むしろ心配しておった。『あの子は頑張ってるんだから呼ばんで良い』ってな」
ミケの言葉が、胸に刺さった。
「ばあちゃん、本当にごめんなさい」
遺影を見ながら思う。祖母はいつもそうだった。自分の事よりも僕のことを心配してくれていた。
そんな優しい祖母を、無視し続けていた事が許せなくて、涙が溢れてくる。
そんな状態になっている僕を無視して、ミケは勝手に話を進めていく。
「それで、お前の事だが、このままじゃお前は死ぬぞ」
「体も心もボロボロじゃないか。お前、自分の体の声を聞いておるか? 心の声を聞いておるか?」
「……それは、分かってる」
「分かっているだけでは意味がない! 治さなきゃならん!」
ミケは立ち上がると、月夜に向かって大きく背伸びをした。その仕草が、どこまでも猫らしかった。
「久しぶりに、湯治にでも行くとするか」
「湯治?」
「そうだ。温泉での療養だよ。お前も一緒に来い」
「え? でも……」
「でもじゃない! お前には必要だ! 体を癒し、心を癒す! そのためには、温泉が一番なんだよ!」
ミケの言葉には、祖母から言われているような不思議な説得力があった。
「旅費や宿泊費の事なら心配は無用だ! 私に任せておけ!」
そう言ってミケは、いたずらっぽく笑った。
「ほれ、庭のあの隅を掘ってみろ! ここ掘れにゃんにゃん!」
ミケに促されるまま、庭の隅を掘った。すると、小さな陶器の壺が出てきた。
中を見ると、古い紙幣がぎっしりと詰まっている。
「なにこれ……」
「ふふん、凄いだろう。長い年月をかけて、ちまちまと貯めたのだ。いつか必要な時が来ると思ってな」
「でも、これは……」
「今がその時だ! さあ、母親に許可を貰ってこい!」
「うん。でも、今日はもう遅いから明日ね」
次の日。目を覚ますと、枕元に旅行の準備が整えられていた。
リュックサック、着替え、タオル、そして温泉ガイドブック。旅行に必要であるだろうと思える物全てが、用意されていた。
「何これ……」
「決まっておろう。温泉巡りの準備だ」
ミケは普通の猫の姿に戻っていたが、その声は確かに昨夜の猫又のものだった。
母に事情を説明した。もちろん、猫又のことは秘密にして、「ミケと一緒に温泉巡りをしたい」とだけ伝えた。
母は最初、驚いた表情を浮かべた。けれど僕の顔を見つめた後、静かに頷いた。
「……そうね。ミケも最後の旅かもしれないものね」
母の声が少し震えていた。
「気をつけて行ってきなさい。そして、ゆっくり休んでくるのよ」
「……うん」
こうして、猫又のミケに言わるがまま、僕と猫又の奇妙な温泉旅行が始まった。
最初の目的地は草津温泉だった。
電車とバスを乗り継いで到着した草津の街は、硫黄の匂いと湯煙に包まれていた。
さすがにバスや電車に猫を連れて乗る事は出来なかったので、ミケは人の姿になり、景色を見たり居眠りをしたりしていたのだが、バスを降りる時に、ミケが運転手さんとなにやら揉めていた。
「にゃん!」とミケがお得意の可愛いポーズを、運転手さんに披露している。
「どうだ? 可愛いだろ?」
「……はい……まぁ」と困った顔で、運転手さんはミケを見ている。
「じゃぁそういう事で、良い運転だったぞ」
「お客さん! ちゃんと料金を払って下さい!」
「え?」
どうやら運転手さんには、ミケの可愛いポーズは効果が無かったようで、ミケは渋々料金を払っていた。
「ここは江戸時代から名湯として知られてるんだぞ!」
バスを降りるとミケは歩くのが面倒だと言い、猫の姿で僕の肩に乗りながら解説してくれた。
しかし、いくら田舎の温泉町だからといっても、それなりには観光客は居る。周りの人には普通の猫にしか見えないため、僕が一人で喋っているように見えて少し恥ずかしかった。
肩に猫を乗せて歩いている時点で、かなり目立っていたとは思うけど……。
宿泊先は老舗の旅館「湯本屋」
猫連れでも泊まれる宿を選んだのだが、仲居さんは「可愛い猫ちゃんですね」とミケを撫でてくれた。
「ニャー」と鳴きながら、ミケは気持ちよさそうに目を細めていた。
部屋に案内してもらい、ミケと少し話をした。
「ミケって意外と演技派なんだね」と僕が訪ねた。
「当然だ! 私は猫なんだから、猫をかぶるのは得意なのだ!」
ミケはそう得意げに答え、目をキラキラさせていた。
夕方になり、夕食の前に温泉に入ろうと言うことになった。しかし、ペットを温泉に連れて行くのは流石に禁止されていた。
「猫は温泉に入れないから、ミケは部屋で待っててね」
「せっかくここまできて、温泉に浸かりもせずに帰れるはずないだろ!」
「でも猫は温泉に入っちゃダメなんだよ?」
「誰が猫のまま入ると言った?」
ミケはそう言うと人に変化して見せた。
「にゃん! 温泉に浸かるなら人間の姿の方がいい」
猫耳と尻尾は相変わらず見える。でも、他の人には見えていないのだから、女湯に入っても問題ないのだろう。
「心配するな。他の客には、ただの若い女にしか見えんよ。誰にも私は怪しまれん!」
そう言ってミケは、耳をぴこぴこと動かして見せ、女性の姿になった猫又は、当然のように女湯に向かっていった。
草津の湯は確かに名湯だった。湯に浸かると、疲れが体の芯から抜けていくのを感じた。東京での慌ただしい日々が嘘のように思える。
肩の凝り。首の痛み。腰の重さ。そういった全ての疲労が、湯の中に流れ出していくような気がした。
目を閉じた。耳に聞こえるのは、湯船から溢れる湯の音だけ。
「どうだ、良い景色だろ! 温泉以外にも、豊かな自然に囲まれたこの景観を楽しむのも草津の醍醐味の一つだぞ!」
「なんせここは、標高1200mの高原に位置しておるからな!」
ミケの大きな声の解説に、女湯に一緒に入っているだろう観光客から絶賛する声が聞こえて来た。
「おい! 聞いてるのか? 聞こえてるなら返事くらいせんか!」
そうだったのか、大声で解説していたのは、僕の為だったのか。
「おい! 聞いてるのか?」
そう大きな声で叫ぶミケに、僕は恥ずかしいので返事はしなかった。
でも、少しだけ笑った。いつぶりだろう。本当に久しぶりに笑った。
「どうだ? 良い湯だっただろ?」
風呂から上がった後、猫又がそう訪ねてくる。
「すごかった。こんなに気持ちよく温泉に入ったのは初めてかもしれない」
「これが本物の温泉の力だ。ただのお湯じゃない、ここのは大地の恵みなんだよ」
温泉から上がった後、僕たちは草津の名所である湯畑を訪れた。夜の湯畑は幻想的で、湯気が立ち上る様子はまるで別世界のようだった。
「昔はな……ここには湯の神様がいたんだ」
猫又は湯畑を見つめながら話し始めた。
「草津の湯が発見されたのは実は偶然じゃない。傷ついた白鹿を追いかけた男が、この地で鹿が湯に浸かって傷を癒しているのを見たのが始まりなんだ」
「その白い鹿が湯の神様の使いだったの?」
「そうだ。湯の神様は動物たちの傷を癒すために、この温泉を作ったんだよ」
猫又の話を聞きながら、僕は草津の湯に浸かった時のことを思い出していた。確かに体の疲れだけでなく、心の重荷も軽くなったような気がしていた。
「お前もここの湯の力を感じただろ?」
「うん! なんだか久しぶりに心が軽くなった気がする」
それは本当だった。東京にいた時の僕の心は重かった。何かに押し潰されそうなほど重かった。でも今、その重さが少しだけ軽くなっている。
「それが本物の温泉の力だ。ただの疲労回復じゃない、心の疲労も回復させてしまう湯なんだぞ?」
「そうなんだ」
「明日はちょっと遠くまで行くからな。さっさと飯を食って、さっさと寝ろよ」
「え? せっかく疲れもとれたんだから、もう少しゆっくりしようよ」
「だ~め! さっさと宿に帰って、飯を食って寝ろ!」
宿に戻り、美味しい夕食を頂いた僕達は、すぐに寝る事にした。
布団に入ると、猫又は僕の足元で丸くなって眠っていた。草津の湯に浸かったおかげなのか、年老いたミケもちょっと元気になっている気がした。
「明日はどこの温泉に行くんだろ……楽しみだな」
そんな事を考えながら、僕は幸せな気持ちのまま眠りについた。
久しぶりに、穏やかな気持ちで眠れた気がした草津の夜だった。
(第一話 了)




